『書紀』に書かれた「孝徳天皇」による「改新の詔」については、その発せられた時代の解釈について、以前から異議が出されています。つまり「孝徳朝」に出されたものでありながら、そこに使用されている文言などは(制度等を含め)「八世紀」に入ってからのものばかりであるとされ、実際に「七世紀半ば」という時代に出されたものであるかどうかについては甚だ疑わしいとされています。
一般的理解としては「改新の詔」は確かにこの時点で出されたものの「原詔」はかなり異なるものであったものであり、それを八世紀時点の「用語」等により潤色している、とされています。
これに対し、この「詔」が出された「大化」という年号を捉え、これが「九州年号」では「元年」が「六九五年」であることから、実際に「詔」が出されたのは「六九六年」であるという考え方が(特に古田史学会の中では)優勢になっているようです。
しかし、子細に検討すると以上のような考えの他に、以下のものもありうると思えます。それは「改新の詔」あるいはそれに「類するもの」は「複数回」出されたと考えるものであり、その中には「七世紀半ば」という時点のものもあれば、「七世紀末」という時点のものもあったと見られます。そして、(ここが重要ですが)その「嚆矢」となる「最初」のものは、実は「七世紀初め」に出されたものと推定されるのです。
この「第一次改新の詔」では「天子」の自称が開始され、その「天子」の「キ」である「京師」の構築と、その「京師」を中心とした「方千里」という「畿内」の制定などが行われたものです。
さらに、実務面では「隋制」の大幅な採用と導入が決定され、「戸籍」「暦」「地割制」「戸制」と行政制度(「国県制」と「五十戸制」)「軍制」(兵士制と防人制)「税制」と「労働制」(租庸調と采女、仕丁などの制度)「道路」の建設と「駅馬制」「墓制」、これは「殉葬」(人や馬などを主人と共に殺し葬ること)の禁止の徹底も含むもの、等々この「七世紀初め」という時点でこれらの諸制度が一気に「倭国」に導入されたものであり、「大改革」が行なわれたものです。
当然これらの改革は「律令」の制定の制定と一体のものと考えられ、「南朝」が滅びた後「隋」が代って中国を代表する王朝になった時点以降、「倭国」もその「中国」の制度・文化を多く取り入れ「近代化」へのステップを大きく踏み出そうとした明白な形跡と思われるものです。