「阿毎多利思北孤」の「国県制」施行という事業は「六世紀末」に特に「倭国」の中心領域に対して実施されたものと見られますが、同時に「戸籍制度」変更及び「新戸籍制度」が施行され、「造籍」と「天文観測」実施による「改暦」が実施され、それに基づき「班田」支給が実施されたものと見ることができます。つまり、「阿毎多利思北孤」が行なった「諸改革」は、それまでと違い「統一王者」としての「統治」範囲の拡大と強化を目的としたものであり、「小国」分立であった状態をまとめ上げ、階層的行政秩序を構築し、「倭国中央」の意志を「倭国」の隅々まで(「直轄地」はもとより「附庸国」に至るまで)透徹させるために行なった大改革と考えられます。
そのように「国県制」が施行されると「広域行政体」としての「国」を治めるべき存在が必要になります。これが「国宰」です。また、統治範囲が広範囲に及ぶようになると、各拠点にある程度強い権能を有する官職を配置して、統治を代行させる必要が出てきます。これが「大宰」ではなかったかと考えられます。
この「大宰」の初見は「六〇九年」記事です。
「国宰」という職掌については、その「名称」すらも『書紀』には出てきませんが、『風土記』などの資料や「木簡」などでその存在が確認されています。(このことは「実際」に「国宰」という職掌が「倭国」に存在していたことを示すものです)
『常陸国風土記』「行方郡の条」
郡南七里男高里 古有佐伯小高 為其居処因名 国宰当麻大夫時所築池 今存路東 自池西山猪猿大住艸木多密 南有鯨岡 上古之時 海鯨匍〓 而来所臥 即有栗家池 為其栗大 以為池名 北有香取神子之社也
『常陸国風土記』「久慈郡の条」
自此艮二十里 助川駅家 昔号遇鹿 古老曰 倭武天皇至於此時 皇后参遇因名矣 至国宰久米大夫之時 為河取鮭 改名助川 俗語謂鮭祖為須介
以上の文章の中では「時制」を表す言葉として「古」や「昔」及び「国宰当麻大夫時」、「至国宰久米大夫之時」および「今」という表記がされています。
『常陸国風土記』の冒頭の部分の理解では「古」や「昔」というのは少なくとも「阿毎多利思北孤」以前を言うと考えられるものであり、「国宰当麻大夫時」、「国宰久米大夫之時」という時制が「それ以降」のどこかの時点を表すものと思慮されるものです。
つまり、「国宰」という「官職」の制定時期としては「阿毎多利思北孤」以降の「今」までの「どこか」と考えられるものであり、当然その中には「評制」を施行した「難波朝廷」も入っていますから、その「発生」は「評制施行」と同時であったものと理解する向きもあります。(正木氏の論文「盗まれた『国宰』」古田史学会報九十号 二〇〇九年二月十六日の他、一般的な理解もそうであるようです)
しかし、「難波朝廷」そのものの時代が遡上するとした場合、当然「国宰」についての理解も変更とならざるを得ないでしょう。つまり、「七世紀半ば」を遡る時期から存在していたという可能性もあり得ると思われます。
確かに「資料」からは「七世紀中葉」を大きく遡るものは現在出ていませんが、「改革」の趣旨から考えると「国県制」施行に関係していると考えるべきでしょう。
また、同じく『常陸国風土記』の「多珂郡」の記事のところでは「国宰」である「川原宿祢黒麻呂」の時に「観世音菩薩」像を彫ったとされています。
『常陸国風土記』「久慈郡の条」
国宰川原宿祢黒麻呂之時大海之辺石壁 彫造観世音菩薩像 今存矣 因号佛浜
「観世音信仰」は「六世紀」の末の「阿毎多利思北孤」の時代に始まると考えられ、それ以降各地に「仏教寺院」や仏教と「習合」した「神社」などが多く作られるようになります。このような動きが行き着いたものとして「大海之辺石壁」などに(当然かなり大きなものとなるでしょうが)「観世音像」を彫り込んだものと考えられるものです。
世界各地で見られる「石窟」などについても、その造立の背景としては、その信仰がその地で非常に盛んなことがベースにあると考えられ、このことはこの「多珂」の地に「観世音信仰」が紹介され、導入されてから、かなり年月が経過していることを示唆するものであり、「阿毎多利思北孤」の時代と言うよりその太子とされた「利歌彌多仏利」の時代の可能性が高いのではないでしょうか。
そして、この「石窟」を「彫像」したのが「国宰」である「川原宿祢黒麻呂」の時代とされていることからも、「国宰」や「太宰」という官職などが「利歌彌多仏利」の時代のものであり、「国県制」に深く関係しているとする推測を補強するものです。
実際、「評制」施行という段階では「国」という行政組織についてはまだ強化されていなかったと見られ、「国」よりも「評」が先行していたと考えられます。(「国」名がなく「評」名で始まる木簡の存在はそのことを示唆するものといえます)
そもそも「評制」は「屯倉」と関連しており、その防衛のための「警察組織」の強化というところにその存在意義があったものと考えられ、「国」のような「大組織」についての変更を企図したものではありませんでした。つまり、「統治強化」のために「末端組織」と「警察権力」とを「結合」させるものであったと理解するべきなのではないでしょうか。
以上のような「評制」について理解が可能であるとすると、「国宰」という職掌については、「評制」と同時ではなく、「阿毎多利思北孤」の「諸改革」の一つである「国県制」に伴うものであったと考える方が「合理的」であるといえます。
つまり、この「六〇九年」時点では「筑紫」に「太宰」(太宰府)が「設置」「任命」されていたものと考えられるわけですが、それは「国県」制という行政制度改定と同時であり、また「国宰」の制定・任命と同時であったとも考えられるものです。
「大宰」(大宰府)というものと「国宰」の間には関係がある、というのは従来からも指摘があるところであり、各々の「国宰」が「大宰」の指揮管轄下にあったものと推定するのはそれほど不自然ではありません。
「筑紫」に「大宰」が設置されたと同時に、新しい「国」においても、実施された「大改革」にふさわしく、それまでの「小国」の長であった「国造」という名称は捨てられ「国宰」という新しい名称が採用されたことと推量されるものです。
ところで「我姫」には「総領」という職掌が派遣され「八国」に分けられた領域を「統括的」に統治していたと考えられます。この「総領」についてもその施行時期は、やはり「国制」の制定と関係が深いと思われるわけであり、「大宰」「国宰」などと同様「六世紀末」という時点が最も考えられることとなります。
『常陸国風土記』中でも「冒頭」の記事として「総領」に関して出てくるわけであり、その「冒頭」の記事が実は「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」の事業としての「国(県)制」の施行であったと考えられるわけですから、(ここでは「県」は施行されなかった可能性が高い)そこに出てくる「総領」も「同様」であると思慮されるものです。(「高向臣(大夫)」と「中臣幡織田連(大夫)」という固有名詞がこの時代のものであったかは不明ですが)
「大宰」も「総領」も、「国宰」と同時に制定されたものと考えられますが、その「総領」と「大宰」の違いはどのようなものがあるのでしょうか。
「太宰と総領」の違いについては以前「統治領域」の差というような理解をしていましたが、深く検討した結果、「時期の違い」であるということと結論付けましたので、以下その趣旨に則って記述を進めます。
そもそも「太宰」は中国(南朝)では「宰相」の意義であり、「皇帝」に近い存在であって、国内行政の最高責任者でもありました。彼は「皇帝」と行動を共にする存在とされていたものです。それに対し「総領」も、「北周」の「宣帝」没後「幼少」であった「静帝」を補佐した「楊堅」(隋の高祖)を称した例があり、その意味で「太宰」と非常によく似ている存在と考えられますが、明らかにその出現例は「総領」が後出します。
すでに見たように「太宰(大宰)」は『風土記』には現れず、『書記』だけに現れます。また「総領」は『風土記』『書紀』ともに現れますが、『書紀』の場合「持統期」以降にしか現れません。これらのことから「倭国」では「太宰」が先行し、「筑紫」に特異的に設置されていたものですが、その後「隋」との国交樹立により「文物制度」が導入された時点で「総領」という制度(官職)が設置され、国内各地に「倭王権」の特命全権として存在することとなったものと推量します。
この点については、従来からも「国宰」と「惣領」について「近畿王権一元論」的立場からの議論は行われており、そのような中には「国宰」と「惣領」について、これらが各々違う職掌・組織であり、しかもその施行時期はほぼ同時期であったものという研究や(※1)、それが『推古紀』まで遡るもの、という示唆を含んだものもあるようです。(※2)しかし、いずれも正確ではなく、「隋」との関係が構築された真の時期を見定めて考えた場合、「太宰」が南朝の影響下に設置されたのち「北朝」(隋)との関係構築以降「総領」が同様の意義で設置されることとなったとみられるものです。
(※1)「亀井輝一郎」「大宰府覚書(三) ― 国宰・大宰とミコトモチ ―」福岡教育大学紀要 第55号)
(※2)「塚口義信」「敏達紀の分注について」『伝承文化研究』第五号、一九七○年)
(この項の作成日 2011/11/16、最終更新 2014/04/24)