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「鎮懐石」の重量と大きさから単位系を推測する


 いわゆる「魏晋朝短里」は中国の「魏晋朝」だけでなく、古代の日本の国内でも使用されていたと考えられています。
 たとえば『万葉集』の中に「短里」が存在しているという指摘が、「古田氏」の研究(「よみがえる卑弥呼」駸々堂)によってなされています。

(万葉集八一三番、八一四歌の序詞)
「筑前國怡土郡深江村子負原 臨海丘上有二石 大者長一尺二寸六分 圍一尺八寸六分 重十八斤五兩 小者長一尺一寸 圍一尺八寸 重十六斤十兩 並皆堕圓状如鷄子 其美好者不可勝論 所謂径尺璧是也 …」

 この部分についての読み下し(伊藤博校注『万葉集』による)は以下の通り。

「筑前国怡土郡深江村子負原(こふのはら)、海に臨(のぞ)める丘の上に二つの石有り。大きなるは長(たけ)一尺二寸六分、囲(かく)み一尺八寸六分、重さ十八斤五両、小さきは長(たけ)一尺一寸、囲み一尺八寸、重さ十六斤十両。並皆(とも)に楕円(まろ)く状(かたち)鶏子(とりのこ)の如し。其の美好(うるは)しきこと、勝(あ)げて論(い)ふベからず。所謂径尺(けいせき)璧(たま)これなり …」
(左注)「右事傳言那珂伊知郷蓑嶋人建部牛麻呂是也」

 ここに書かれた「序詞」は「左注」では地元の人物とされる「建部牛麻呂」が書いたものとされています。(歌は「山上憶良」の作であるようです。)この中に「短里」と思しき表現が出てきます。
 この「鎮懐石」が祭られていたという「丘」は以前「鎮懐石八幡宮」が鎮座していたという「深江町」の高台を指すと考えられますが、上の「序詞」の表現からもそれは「古代官道」沿いにあったと考えられ、「駅舎」からの距離表示は正確であると思われます。
 ここに出てくる「深江駅家」というのは現在の「糸島市二丈深江」にあったものとされており、また「鎮懐石八幡宮」は同様に「深江町内」にあったと見られるわけですから、それらの距離は、ほんの目と鼻の先と云うこととなり、「二十里ばかり」というのが「長里」で理解できるものではないことは明白です。
 つまり「地元」の人間である「建部牛麻呂」は「短里」を使用していたと見られるわけですが、このように「里」という「測地系」の単位に関して、それが「短里系」であるとすると、同様に「短里系」のシステムの「一環」として理解すべきではないかと考えられるのが、この「序詞」に書かれている「鎮懐石」のサイズと重量です。

 確かに「寸−尺−丈」と「歩−里」とは異なる体系ですが、「里」が「魏晋朝」のものであるとすると、「尺」も同様であると考えることができると思われます。
 ここではその大きさとしては二つの石のうち「大きい方」が「径一尺二寸六分」、「囲一尺八寸六分」とされています。また「楕円」という表現や「状(かたち)鶏子の如し」という表現からも、「半長径」が「六寸三分」、「半短径」が「三寸」程度の楕円体にほど近い形状と理解できるでしょう。また「小さい方」については同様に「径一尺一寸」、「囲一尺八寸」とされていますから、「半長径」が「五寸五分」「半短径」が「二寸九分」の楕円体であると推定できるでしょう。もちろん共に理想的な「楕円体」であるはずもありませんが、表現からはかなり「滑らか」な印象を受けますから、「角張ったところ」がないということと考えられ、そうであれば「楕円体」と想定して無理なものではないと言えると思われます。また「楕円型」の形状とするために表面はかなり磨かれているようであり、それが「其美好者不可勝論」や「所謂径尺璧是也」という表現になっていると思われますが、一般に「璧」が「円盤状」とされることを考えると、ここで使用されている「璧」という語は比喩として余り適切ではないように思われ、あくまでもその表面の輝きや美しさに限って語ったものと考えられます。)
 ここで「寸法」にも「短里」と同じ基準が使用されているとした場合、ここに記されている「寸法」から推定される「重量」と、「重量」として記載されているものの比較をすることで、「単位系」としてどのようなものがこの「鎮懐石」に使用されているのかが推定できると思われます。つまり「体積」を算出してそれに比重を掛けることで推定重量が算出されますから、それを実際の重量として書かれているものと比較するわけです。
 「岩石」の比重はその組成や起源によって1.5程度から3をやや超えるぐらいまで幅がありますが、代表的な例として「璧」という形容から、これを「軟玉」と考えて比重を「3」程度にとる場合と、「九州」に多い「阿蘇熔結凝灰岩」のような「堆積岩」の場合の値として標準的な「2」程度とする場合の二つのケースを想定し各々体積と比重から求めた推定重量と重量として表示されている値の推定値とを比べてみることとします。(もっとも「堆積岩」の場合は磨いても「璧」のように輝くほどにはならないと思われ、ここでは「軟玉」である可能性の方が高いとは思われます。)
(ここで楕円体の体積[S]は[S=4/3πabc」(ただしa:長半径、b:短半径1、c:短半径2であらわされ、このばあいb=cです)と表されるものとします。なおa=b=cの場合は球の体積に一致します。)
 
 中国の度量衡は時代を経て変遷がありましたが、「斤」「両」に関して言うと、「殷・商」時代以降「南朝(陳・梁)」まで「一両」が「13.8グラム」程度、「一斤」はその「16倍」の「220グラム」程度で大きく変化はなかったと見られているようです。それが「北朝」では「一両」が27.5グラム程度、「一斤」は「440グラム」程度とほぼ「倍」になります。更に「隋代」になると「一両」が「41.3グラム」程度、「一斤」は「661グラム」程度と更に増加し、「南朝系」の三倍程度までになりますが、同時に「南朝」の重量基準とほぼ等しい「一両」が「13.8グラム」程度、「一斤」「220グラム」程度という基準も併せて使用するようになります。これはもちろん「隋」に至って「南朝」を併合し、中国を統一した国家が誕生したためであり、旧「南朝」地域の人々の便宜を考慮したものでしょう。その後「唐」に至ってこの「旧南朝」系度量衡は姿を消したものと考えられています。
 以下歴代の「寸法」と「重量」の変遷を書き出します。

斤 両 尺 寸
唐 661 41.3 29.6 2.96
隋 661/220 41.3/13.8 29.6 2.96
北朝(北魏) 440 27.5 29.6 2.96
南朝 220 13.8 24.5 2.45
魏晋 220 13.8 19.7 1.97
漢・新 220 13.8 23.1 2.31
周 220 13.8 19.7 1.97
殷・商 220 13.8 17.2 1.72

 このような変遷を踏まえて考察してみます。
(A)以下「大きい方の石」についてその寸法からの「推定重量」と重量表示からの「重量」を算出した表
(寸法から重量を推定した場合、ただし比重を「3」とし、「半長径」は『六寸三分』、「半短径」は『約三寸』として算出)

時代 (隋・唐) (南朝) (漢・新) (周・魏晋) (殷・商)
基準尺(cm) 29.6 24.5 23.1 19.7 17.2
半長径の実長(m) 0.186 0.154 0.146   0.124 0.108
半短径の実長(m) 0.088 0.073   0.068   0.058 0.051
体積(m3) 0.00600 0.00340  0.00285 0.00177 0.00118
推定重量(kg) 17.99 10.20 8.55   5.30 3.53

(「重量表示」から計算した値)
「斤」の重量単位(g) 661 220 220 220 220
18(斤)の重量 11898 3960 3960 3960 3960
「両」の重量単位(g) 41.3 13.8 13.8 13.8 13.8
5(両)の重量 206.5 69 69 69 69
実重量(kg) 12.15 4.04 4.04 4.04 4.04
 
 同様の試算を「小さい方」の「鎮懐石」について適用してみます。(寸法から重量を推定した場合、ただし同様に比重を「3」とし、「半長径」は『五寸五分』、「半短径」は約『二寸九分』と算出)

時代 (隋・唐) (南朝) (漢・新) (周・魏晋) (殷・商)
基準尺(cm) 29.6 24.5 23.1 19.7 17.2
半長径の実長(m) 0.163   0.135   0.127   0.108 0.095
半短径の実長(m) 0.085   0.070   0.066   0.056 0.049
体積(m3) 0.00491 0.00278 0.00233 0.00145 0.00096
推定重量(kg) 14.71 8.34 7.00 4.34 2.89

(「重量表示」から計算した値)
「斤」の重量単位(g) 661 220 220 220 220
16(斤)の重量 10576 3520 3520 3520 3520
「両」の重量単位(g) 41.3 13.8 13.8 13.8 13.8
10(両)の重量 413 138 138 138 138
実重量(kg) 11.03 3.67 3.67 3.67 3.67

(B)続いて、「大きい方の石」について比重を「2」として算出した場合を示します。(ただし、寸法・体積・実重量の元の値は上の例と同じ)

時代 (隋・唐) (南朝) (漢・新) (周・魏晋) (殷・商)
基準尺(cm) 29.6 24.5 23.1 19.7 17.2
推定重量(kg) 12.00 6.80 5.70   3.54 2.35

(「重量表示」から計算した値)
実重量(kg) 12.15 4.04 4.04 4.04 4.04
 
 同様の試算を「小さい方」の「鎮懐石」について適用してみます。(比重・寸法等についての事情は「大」と同じ)

時代 (隋・唐) (南朝) (漢・新) (周・魏晋) (殷・商)
基準尺(cm) 29.6 24.5 23.1 19.7 17.2
推定重量(kg) 9.81 5.56 4.66 2.89 1.92

(「重量表示」から計算した値)
実重量(kg) 11.03 3.67 3.67 3.67 3.67

 (上の表の「周・魏晋」の時代の「尺」の長さは、「中国」における各地の発掘などによる「柱間寸法」など多数の例から帰納した平均値を使用しています。)

 こう見てみると、石の比重を「3」とした場合は「周・魏晋」時代あるいはそれ以前の単位系の場合に最も合理的な理解が可能です。ただし、比重を「2」とした場合には「隋・唐」の単位系の場合と「周・魏晋」の単位系の場合のいずれの場合も推定重量と実重量がほぼ整合しているように見えます。しかし、「隋・唐」の寸法の場合小さい方でも長径が30cm以上となり、これで既にラグビーボールよりも大きいほどとなります。また重さも(比重を2としても)10kg弱ほどとなってしまいます。まして大きい方ならば長径が40cm弱、重量にして12kgほどとなって、「腰に挿し挟む」などほぼ不可能であるようなサイズと重量となるでしょう。このことからやはり実際には「周・魏晋」時代あるいはそれ以前の単位系の場合が最も適合するといえるでしょう。
 「寸法」から計算した推定重量と重量としての表示からの帰結がもっとも整合するのは「周・魏晋」時代に使用されていたと推定される「19.7センチメートル」、重量を「一両」が13.8グラム、「一斤」は「220グラム」という値を採用したときと思われます。この場合であれば大きさもそれほどではなくなり、またかなり軽量化されますから(4kg以下)、「腰に挿し挟む」などと言うこともそれほど荒唐無稽のことではなくなるでしょう。
 この結果はこの二つの「鎮懐石」の大きさと重量の表記が(少なくとも)「魏晋朝」以降のものではないことが強く推定できると思われます。つまり「古田氏」が「里制」において指摘したように、「寸法」や「重量」も「周・魏晋朝」と推察される「古制」に拠っていた事を強く示唆するものといえるのではないでしょうか。
 ただし上の計算結果を見ると「大」と「小」とでやや適合する「単位」が異なるようにもみえますが、それは「大」と「小」で形状がやや異なることが影響していると思われます。寸法から見ると「大」の方が「つぶれ」具合が大きいものと思われ、それぞれ「扁平率」を計算すると「大」がおよそ52.4%なのに対して「小」は47.3%となってやや「大」の方がつぶれていると判断できます。これは長半径よりも短半径に意識があったことを示し、「腰に挟む」という動作を考えたからであったと思われます。
 

(この項の作成日 2012/12/17、最終更新 2015/03/10)