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「天武朝」の「難波京」説批判A


 『孝徳記』の示す難波宮が正しいのか、それとも『天武紀』の「難波副都」記事が正しいのか「考古学」の成果を援用して主張が繰り広げられていますが、しかし記事内容的には『天武紀』において「難波宮」に幸したり遷宮したりした形跡がないのに対して、『孝徳紀』にはそれが存在します。またそこに「伊勢王」という同一と思われる人物が活躍しているわけですが、その『孝徳紀』と『天武紀』の間の『斉明紀』にその「伊勢王」の死去記事があります。これらは『書紀』が持っている「矛盾」を表すものですが、死んだはずの人間が葬儀を取り仕切っているように見える「天武紀」により多く疑いの目が向けられて当然ともいえます。
 このように『書紀』だけをみていると『天武紀』以前に「難波宮」が存在していて当然と思えます。しかしことはそう簡単ではありませんから、この二つの時期の記事についてどちらが真なのかについては多角的に検討する必要があります。
 また、この二つの時期の「難波宮」を「重出」と見る事もできるかもしれません。『書紀』には他にも「重出」と思しき記事があります。但し一般に記事の「重出」は先に出てくる方が「真」であり、後出する方が「偽」であるのが原則です。たとえば『書紀』では『応神紀』と『雄略紀』に「呉」からの「幡織女」がもたらされた記事がありますが、これは種々の理由から「五世紀初め」の「応神」の時代の事と考えるべきであり、『雄略紀』の方が「偽」と考えるのが妥当です。また『敏達紀』と『欽明紀』では「仏教」の受容に関して「蘇我」と「物部」との対立が「親子」二代にわたって書かれていますが、これも実際にはほぼ「重出」とみられており、これについては「天然痘」をキーワードとして「四寅剣」と「金光」年号との関連及び善光寺と『請観音経』などのからみからも『欽明紀』が「真」と考えるべきと思われます。さらにその「重出」の理由としては「遣隋使」記事との関係で『敏達紀』に相当する期間が「空白」となったためのやむを得ない対応ではなかったかと思われますが、これらから帰納して「難波宮」の年代を考えると、『孝徳期』の記事が本来であり、『天武紀』記事が重出であったという可能性が高いと思料します。

 さらに「難波宮」を「天武朝期」とすると矛盾があるというのは、その等の「天武」の死去に関連した記事中に以下の記事があることでもわかります。それは『書紀』にその「天武」自身の死去を「新羅」に知らせるために使者を派遣した際に正当な取扱をされなかったとして「新羅」からの「弔使」を詰問する場面です。その中には「在昔難波治天下天皇」の「死去」に際して「喪使」として伝える使者として「田中臣法麻呂」という人物が派遣された時、新羅では「翳餐」の地位にあった「金春秋」が「宣」を「奉勅」したとされており、ここでは「難波治天下天皇」の治世が「金春秋」の新羅王即位以前のこととして書かれていることとなります。(これに関しては以前『「本朝」と「天朝」』というタイトルで『古田史学会報』「一一九号及び一二〇号」の中で触れました。)
 このことから「金春秋」は「六五四年の春」には新羅王に即位していたと思われ、「翳餐」という地位で「難波治天下天皇」の「喪」を「奉勅」したというのは、当然のこととしてそれを遡る時期のこととなりますが、このことは必然的に「難波宮」そのものが「七世紀半ば」を遡上する時期に存在したこととならざるを得ないものです。(「難波宮治天下」とされていますから「難波宮」の存在が前提なのは当然です。)
 更にこの記事は以下の『書紀』の記事にも影響を与えるものであり、その本来の時期がもっと遡上する可能性を示唆します。

「(六四七年)大化三年…是歳。…新羅遣上臣大阿餐金春秋等。送博士小徳高向黒麻呂。小山中中臣連押熊。來獻孔雀一隻。鸚鵡一隻。仍以春秋爲質。春秋美姿顏善談咲。…」

 ここでは「金春秋」が「上臣」である「大阿餐」として倭国にやってきて、さらに「質」となったとされます。この記事は『三国史記』とは整合しませんが、『三国史記』は『旧唐書』等の「中国資料」を参照していますから、これは『書紀』と「中国資料」との不整合でもあります。
 ここではこの時の「金春秋」の肩書きが「大阿餐」であったとされますが、下に見るように『三国史記』によれば「六五〇年」の段階で「伊餐」であったようです。

「(善徳王)十一年(六五〇年) 春正月 遣使大唐獻方物 秋七月 百濟王義慈大擧兵 攻取國西四十餘城 八月 又與高句麗謀 欲取党項城 以絶歸唐之路 王遣使 告急於太宗 是月 百濟將軍允忠 領兵攻拔大耶城 都督伊品釋 舍知竹竹・龍石等死之 冬 王將伐百濟 以報大耶之役 乃遣『伊餐』金春秋於高句麗」

 これらに従えば三年ほどで「大阿餐」から「伊餐」まで昇格したこととなってしまいますが、「大阿餐」と「翳餐(伊餐)」は三段階その官位のランクが違うものであり、どこかの時点で特進したという可能性もあるものの、普通に考えれば毎年一ランクずつ昇格したこととなり、これは少々考えにくいものです。
 彼の死去時の年齢や出自から考えても「大阿餐」となったのはもっと以前の話ではなかったかと考えられ、『書紀』の記述には疑問を感じます。そうであれば、「昔在難波宮治天下天皇」の「喪之日」を「翳餐」である「金春秋」が「奉勅」したというのは「六四七年」以前から以降「六五三年」までの間が最も考えられるものです。そしてこの年代時点で「難波宮」は存在していたということにならざるを得ないわけです。
 これらのことは『書紀』において「七世紀代」の記事のいくつかについては明らかに本来の年次から移動されていると推定される事を意味し、それは『天武紀』の各種記事に顕著であるように思われるわけです。

 また「聖武天皇」の「難波行幸」に供奉した笠朝臣金村の以下の歌からも「難波宮」が「長柄宮」でありそれは「味經原」に存在していたことが強く覗われます。

(巻六第九二八番歌)(原文)忍照 難波乃國者 葦垣乃 古郷跡 人皆之 念息而 都礼母無 有之間尓 續麻成 長柄之宮尓 真木柱 太高敷而 食國乎 治賜者 奥鳥 味經乃原尓 物部乃 八十伴雄者 廬為而 都成有 旅者安礼十方

(読み)おしてる 難波の国は 葦垣の 古りにし里と 人皆の 思ひやすみて つれもなく ありし間に 続麻なす 長柄の宮に 真木柱 太高敷きて 食す国を 治めたまへば 沖つ鳥 味経の原に もののふの 八十伴の男は 廬りして 都成したり 旅にはあれども

この歌は神亀二年十月十日聖武天皇が難波へ行幸した際に同行した際の歌とされます。

「(神龜)二年(七二五年)…冬十月庚申。天皇幸難波宮。」(続日本紀)

 ここでは確かに「味經乃原」に「長柄宮」があったものであり、「聖武」の「難波宮」はまさにその位置にあったとされるわけです。遺跡の発掘からも「前期難波宮」の中に正確に収まるように造られているとされます。これらから考えて、「難波宮」は「味経宮」と言いうるものであり、それはまた「長柄宮」でもあったと見るべきこととなり、それらは「前期難波宮」と現在私たちが呼んでいる上町台地の最標高の場所にあったこととなります。そしてその「難波宮」そのものについて上に見るように七世紀半ばを遡上する可能性を考えるべき事となるわけです。

 そもそも「考古学」の成果と言っても「土器」「瓦」などの「編年」は(いわゆる「飛鳥編年」も「難波編年」も)結局『書紀』とリンクしている点では違いがなく、たとえば「飛鳥編年」では「藤原宮」から出土する「土器」や「瓦」なども「基準」とされていますが、その年代としては『書紀』の記述を信憑しているようです。しかし、その『書紀』が記事重出などの「不定性」を抱えているとすると、双方の「編年」共根本の基準が揺らぐのは避けられません。しかも「藤原京」は「下層条坊」(先行条坊)があり、また「大極殿」の建設時期が当初より大幅に遅れたことも推定されています。これらのことは「飛鳥編年」についても「難波編年」についてもその基準が基準として耐えうるものなのかが問われる状況であり、そこを明確にしない限り「時代推定」は揺れ動くこととなります。

 以上のことなどから、「前期難波宮」が『天武紀』(六七〇年代)に建設されたと考えることはもちろん、定説の「六五〇年代」というものについても甚だしく疑問を感じるものです。

(更に「古田史学会報一一七号」に「大下氏」の文章が載っており、これについての反論を以下に記します。(若干順不同となっています)

一.「難波津」が上町台地上になかったとされ、『上町台地は谷が多く、『孝徳紀』に描かれた小郡、大郡、味経宮、高麗館、三韓館、などの外交の館を造るスペースも全くないことも判ってきました』とされるが、「前期難波宮」そのものが「上町台地」に「谷」を埋めて作られていることを考えると、これは有効な反論となっていないと考えられます。
 発掘調査によっても「難波宮」下層からは幾世代にも亘る遺跡が確認されており、またそこからは「須恵器」の窯跡が確認されていて、それはそのようなものに対する需要が至近にあったことを示していますから、「難波宮」以前から「官衙」的建物が存在していたことを推定させるものとなっています。つまり「谷」が多いというような不利な条件は「絶対的」なものではないと言うことであり、「高所」「台地」というような条件の方が適地と考えられていた背景があると思われます。(その意味では「山城的」であるとみているわけですが。)
二.相変わらず復元された「古地図」を「一級史料」として扱っているようですが、上に述べた理由により十年前に作られたこの「古地図」が正確とはいえなくなっています。
三.同様に上に述べた理由により土器編年の基準点とその期間について相変わらず錯誤があります。上に述べたように「土器」は「前様式」と必ず「ラップ」(重なる)ものであり、その重ならない期間が「三十年」程度とされているのです。この「重なり期間」を無視することは出来ないと考えられます。また「杯B」様式が「七世紀後半」である、という「編年」そのものが「流動性」を帯びているのは上に記したとおりです。それは「藤原京」の完成時点にリンクさせているものであり、それが木簡などから「不動」のものではなくなっているのは周知の通りです。
四.同形式の「土器」(「瓦」も同様)が出た場合、必ず「時代差」があります。九州が先行しているのはそれ以前の全てについて共通であり、弥生時代から以降の各時代を通じて「強い権力者」の発生と共に「時代の位相」が同期する(つまり同時性が表れる)ようになり、そのような「強い権力」が継続しない場合(大抵そうなります)は「位相」がズレ始める(つまり同時性が失われる)と言うことを間欠的に繰り返していると見られます。「七世紀初め」時点以降「統一王権」が成立した後は「時間差」はほぼ消失したと思われますが、それらは例外なく「筑紫」発であり、それが「東側」へ伝搬するのです。(「前方後円墳」の終焉が典型的です。これも同様に西日本から東日本へ若干の時間差を以て伝搬しています)
五.難波宮は「掘立柱」に「板葺き」であったため「瓦」は出土しません。「瓦」が「宮殿」に使用されるのは「七世紀後半」に入ってからです。「瓦」は近傍の「窯」で焼かれるため、地域性を帯びがちです。これについては「大越氏」の「瓦編年」に関する議論が有用です。近畿の七世紀前半では「単弁蓮華文」しか見られませんが、これは「百済」−「高句麗形式」であり、「隋」の形式ではありません。「隋」からの直輸入である「複弁蓮華文」形式は同時期には「筑紫」にしか見られないのです。これを意図的に遅らせて、近畿より後出としようとしているのが従来の編年であり、それを唯々諾々と受け入れてはいけないと思われます。
六.「正木氏」の「三十四年遡上」研究に疑問を持たれていますが、少なくとも「白雉改元」記事に登場する「伊勢王」と「天武」の死去した際に登場する「伊勢王」との存在の整合をどうするかについて述べなければ有効な反論となりません。(別人という説もありますが、この両者の存在期間は僅かではありますが重なっており、そのような想定が不可能であることを示しています)
七.『日本帝皇年代記』の性格について「明確に『日本書紀』の影響を受けている三次資料です。」とありますが、そうは考えられません。『日本帝皇年代記』をよく見てみたらすぐ解ることですが、『日本帝皇年代記』の編者は現行の『日本書紀』を見ていないと考えられる点が多々見受けられます。特に「壬申の乱」と「乙巳の乱」についてはほとんど書かれていません。『書紀』はこの二つを書くために編纂されたとさえいえるほどボリュームがあります。それが「欠落」しているのは、逆に「明確に『日本書紀』の影響を受けていない史料」といえると思われるぐらいです。その意味では「独立資料」ともいえ、「三次資料」と断言はできません。
八.また「鎮西」とは「大下氏」が言うような「近畿の権力が西にある九州を鎮める」という意味で使用されているわけではなく、これは「観音寺」を創建した「主体」としての用法であり、「大宰府」を表すものと見られます。この「鎮西」という用法は「観音寺」という用法(「唐の太宗」の「李世民」の「世」を諱んだもの)と共に、後世のものであることは間違いないものですが、(「鎮西」の初出は「天長四年」(八二七年)、「観音寺」の初出は「天長八年」(八三一年)と見られ、九世紀以降の呼称と推測されます。)これらのことは原初形としての『日本紀』『続日本紀』がこの時点まで存続していたことの徴証とも言えると思われます。
九.「相対論証」を否定されていますが、「直接証拠」において乏しい「古代史」において「相対論証」つまり「状況証拠の積み上げ」により、より確実性、蓋然性の高い論理を展開していくことは有力な方法であり、これを否定してはそもそも「古田史学」そのものが成立しない、どころか既存の古代史学全般が成立しないと考えられます。(「仮想」の重層とは意味が異なります。)
十.「須恵器」の編年において『「三百年間」に十五種ほどの様式が確認される』と言われていますが、これは実態と論理が逆立ちしており、そもそも「須恵器編年」の基準点と思われるのが「藤原京」であり、そこから遡上するのに各二十−三十年ぐらいを適用してそれが十五種あるので三百年になっているのです。その「三百年」が正しいかどうかは「古墳」から共出する「土器」(須恵器ではない)との整合から判定していますが、その「土器編年」がずれているとすると、「須恵器編年」もずれるほかありません。しかも起点としての「藤原京」の年代が実は流動的であることを考えると、編年として有効といいにくいのではないでしょうか。

 また大下氏のいうように「碾磑」と「水碓」は異なるものですが、正木氏の論はその違いを踏まえた上で「八世紀王権」の編纂者の見解をなぞった形で展開しており、これについては大下氏の批判は見当違いといえます。つまり「碾磑」と「水碓」を同一視しているのは正木氏ではなく『書紀』編纂者であり、『令義解』を編集した後代の学者や官人なのです。正木氏はそれを承知の上で書いているのです。その点について誤解があるようです。(「碾磑」を「水碓」と異なるという点そのものには大下氏に同意します。当方も「水碓」はあくまでも「大粉砕用」の物であり「微粉末」を生成するものではないと考えています。なぜなら「製鉄」においては「微粉末」は必要ないからです。ただし、倭国では砂鉄からの製法が古典的であり、一般的であったようですから、それにこだわったという可能性もあり得ます。)


(この項の作成日 2012/04/13、最終更新 2017/07/23)