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「大宰府」の条坊制


 「大宰府政庁」の発掘調査の結果によると、現在地上に見える礎石の下に同じような配置の礎石が確認され、さらにその下層に「掘立柱建物」の柱穴があり、計「三期」に及ぶ遺構であることが明らかになっています。
 そして、「第Ⅱ期遺構」は「条坊」と「ずれている」事が判明しています。(使用された基準尺が異なると考えられているようです)
 例えば「朱雀大路」は最終的に「政庁第Ⅲ期」段階で「条坊」の区画ときれいに整合する事となりますが、それ以前の「朱雀大路」は「条坊」と明らかに食い違っているのです。(「政庁中軸線」の延長が「条坊」の区画の「内部」を通過しています)明らかに「条坊」区画が既に存在しており、それにも関わらず「政庁中軸線」を「別途」設けた基準点に従い施工したため、既存条坊とずれてしまった事を示しています。(※)
 このように「条坊」と「政庁Ⅱ期」の施工期が違う(「条坊」が先行する)というのは確かであると思われますが、では当初の「条坊」が敷設されたのはいつなのでしょうか。
 『隋書俀国伝』では「倭国」の都について「無城郭」とされています。これは「遣隋使」による報告がベースの記述の部分であり、倭国側の記述であると見られますから、相当程度正確な実態を示すものと思われます。この「無城郭」という書き方は「城郭」がないというわけですから、「城」とそれをめぐる「郭」がなかったことを示すものですが、他方「条坊」の有無については言及されていません。「城郭」の有無と「条坊」の有無は直接は関係しないと思われますから、(条坊のない城郭も存在するため)、この「遣隋使」時点で「条坊」がなかったとは断定できないこととなります。
 「遣隋使」が派遣されたのが『隋書』によれば「開皇の始め」であるとすると、まだ「隋」の新都である「大興城」はかなりの部分が未完成であったと思われます。その時期であれば「高祖」(文帝)もまだ「大興城」に常住していたという訳ではなかったはずであり、旧都(長安城)にいたものと思われます。この両者は実際にはそれほど距離を隔てているというわけではなく、状況と工事の進捗によって行き来していたものと思われます。
 そのため「鴻臚寺」なども旧都である「長安城」に依然あったものと思われ、「遣隋使」が(百済の使者と共に)「文帝」の元に訪れたとすると「旧都」(長安)であったと思われます。当然彼らが「都城制」について学ぶとすると、その「魏晋代」から続く「長安城」であると思われますが、これは『周礼』に基づいて「北魏」の時代に造られたものであり、「宮域」は「条坊」の中心付近に位置していました。「遣隋使」がこの「長安城」の都城について見聞したことが倭国の都城制に大きく影響したことは十分考えられると思われます。
『周礼(考工記)』によれば「王城」のあるべき姿として以下のことが書かれています。

『周禮 冬官考工記第六』
「匠人營國。方九里,旁三門。國中九經九緯,左祖右社,面朝後市,市朝一夫。」

 ここでは「面朝後市」つまり、宮域の北方に「市」を設けるとされており、これに従えば「都城」の北辺には宮域は設定できないこととなります。 一般に「正方位」をとる建物や街区を構成する場合、最初に「基準線」を設け(これは天測など正確な測定等によったものと思われますが)、それを起点として各条坊を展開していくと思われ、「政庁中軸線」つまり「宮域」の中心線を設定するのが施工の第一歩と考えられます。
 この「大宰府政庁」の遺構の「第Ⅱ期」の場合、「朱雀大路」を南方に延長すると「基肄城」の門の一つと一致します。しかし、「条坊」と「第Ⅱ期朱雀大路」は「ずれている」わけですから、同じ「基準線」の元に施工されたものではないことが明らかです。このことからこの「条坊」を敷設した際の「基準点」は別にあることとなります。
 「大宰府」の南方で特に有力な「基準点」は「基山」であると思われ、この山を(当然「山頂」となると思われます)基準とした場合、この山から引いた仮想的南北線は「朱雀大路」ではなく、「右郭四坊道路」に(正確に)一致します。(正方位から一度以内のズレしかありません)
 このことから、「宮域中心線」は「右郭四坊道路」であったこととなり、この「右郭四坊線」が「当初」の「朱雀大路」であったと判断できます。つまり、現在とは違う場所に「宮域」があったこととなるわけです。このことも併せて考えると、「大宰府政庁第Ⅰ期」以前に「プレⅠ期」とでもいうべき時期があり、その時点では「都城」の中央部付近に「宮域」が設けられたと考えられ、その場所は「右郭南方」に存在する「通古賀地区」がそれであったという可能性があることとなります。
 そうなれば、現在の「太宰府政庁遺跡」の最下層建物(政庁第Ⅰ期古段階)の「柱穴」は、当然「中心部付近」にあった「宮域」が「北辺」に「移動」した際に形成されたこととなります。(これは「移築」ではないかと考えられます)この時点が「通説」では「白村江の戦い」の後(直後)であると言うことになるわけですが、もしそれが正しいとすると「中心部付近」に「宮域」が存在していた時期はそれを遡ることとならざるを得なくなります。可能性としては「遣隋使」派遣直後に学んできた都城制についてそれを具現化した(しようとした)として不審とはいえず、そのような時期を推定することも可能と思われます。このことは「改新の詔」の中にある「初めて京師を修む」という文言が何らかの実体を伴ったものとすれば、それが「七世紀始め」という時期に列島に姿を現したと考える立場と大きく齟齬するものではない事をも意味します。

 また、「改新の詔」の中には「京師」の詳細として「凡京毎坊置長一人。四坊置令一人。」とありますが、これも「考古学的」な事実とよく整合すると言えるでしょう。上に述べたように「当初」の「宮域」は「中央部」付近にあったことが想定されていますが、そこを中心とした当初の「都城域」として、「東西四坊」程度であったのではないかと言うことが想定されるのです。
 当時の「宮域」であったという「通古賀地区」というのは現在の「都城」の「中心」に配置しておらず、「右郭」に偏って存在しています。当然その偏りには理由がなければなりません。
 上に見た『周礼考工記』に拠れば縦横とも中央を貫く幹線道路を設けることとされています。つまり、真ん中に「朱雀大路」的道路を設け、東西南北に直交する幹線道路を設けるというように指示されています。(九本中真ん中に一本上下左右に四本ずつと言うこと)すでに見たように「基山」との位置関係からみて当初の「朱雀大路」は「右郭」側にあったことが推定でき、このことから「通古賀地区」が本来の「真ん中」であり「宮域」であったという可能性がさらに高くなったものと考えます。
 また、この「筑紫都城」(政庁プレ第Ⅰ期)が『周礼考工記』に準拠して造られたとすると、「王城」の大きさも『周礼考工記』の規定に則っていた可能性がありそうです。
 すでにみたように『周礼考工記』によれば「王城」つまり「天子」の城の決まり(理想的配置)として「方九里、傍三門、九経九緯、左祖右社、面朝後市,市朝一夫」とされています。
 「通古賀地区」が中心(宮域)であったと仮定して、この「方九里」という規定を当てはめてみると、「一坊一里」ですから、「方九里」とは「九区画四方」(九坊四方)という範囲を意味し、これを「条坊」に当てはめて考えてみると、ちょうど現在見られる「右郭」の南側半分程度の範囲となります。
 その東端としては現在「朱雀大路」跡と思われているところが該当することとなり、また「朱雀門」礎石が出た場所は「区画」の東北の隅に当たります。
 これらのことからも、これらの「位置関係」が当初から「計算」されたものであることを示すものであると同時に、条理設計の際に「基山」が基準点となっていたことが改めて確認できることととなったと考えられます。(その名前の「基山」という文字面にもそれが現れていると推察されます。…八世紀になってから「基肄」と二文字表記になる前は「基」の一字だけだったのではないかと思われます)

 以上の推察から「通古賀地区」に「宮域」があった当時の「原初型」としては、現在の「太宰府」のほぼ「四分の一」程度の広さであったこととなりますが、これは当初のサイズとしては逆に合理的である可能性が高いと思われます。つまり、「都城域」は時代の進展と共に拡大されたものと見られ、(つまり「左郭」は後になってから増加された部分と思われることとなります)そのタイミングはいわゆる「大宰府政庁第Ⅰ期」と考えられている遺構の時期を指すと思われ、その時点で「北朝形式」の都城が形成されたと考えられます。
 この実際の時期としては「隋」の「大興城」の整備がかなり進捗した時点ではなかったかと考えられ、それを真似て「倭国」でも「都城」の形式を変更したものと考えられ、それは「隋」に対する随従的姿勢の表れであるという考え方もできますが、他方このような型式の都城は、多分に「軍事的要素を意識した型式」とみられ、その時点で「隋」に対する「軍事的脅威」を感じ取ったがゆえに「防御的」なインフラを構築することを意識したためではなかったかと見る事もできそうです。そしてそれが完成したのは「九州年号」の「倭京改元」が「六一八年」とされていることから、少なくとも「煬帝」の治世期間の末まで遅れたものと思われます。(上に見た「柱穴」の解析からも当時は「掘立柱」型式であり、瓦屋根ではなかったものと思われます。それが「瓦」を使用するようになったのはかなり遅れた時期であり、筑紫地方を大地震が襲った六七九年以降ではなかったかと推測されます)


(※)井上信正「大宰府条坊区画の成立」(月間考古学ジャーナル二〇〇九年七月号『特集 古代都市・大宰府の成立』所収)


(この項の作成日 2011/08/28、最終更新 2018/10/20)