以下は「古田史学会報」第一〇七号及び一〇九号に掲載された「大下隆司氏」の投稿に対する一種の「反論」です。ただし、この論争の当事者ではない「私」としては「会報」で反論すべき権利がないため、ここに趣旨を掲載して反論に代えるものです。
「前期難波宮」が「七世紀」中葉のいわゆる「孝徳朝」に造られたというのは定説になっていますが、それにも関わらず、以前より少なくない反論が提出されています。それは「難波宮」が造られたのは「天武朝」である、ないしは「天武朝」に「改修」または「整備」が行われているというものです。
これらの考え方の従来からの根拠としていたものは『書紀』の『天武紀』の記載でした。そこには「副都制」の詔が書かれていて、また「難波宮殿」整備と考えられる記述があったからです。しかし、それが「正木氏」の研究により「三十四年遡上」すべき記事とされたことにより、その根拠を失ったわけですが、他方別の観点から同様に「天武朝」の難波宮殿建設を主張する論もあります。それは「大下氏」の論に代表されるものであり、「土器編年」及び「地勢学的」理由からのようです。
近年の考古学的調査(ボーリング等)が難波地域に対して行われています。それによれば「河内湖」と呼ばれる古い湖が現在の大阪市の大部分を占めていました。そして、その出口側に台地上に広がる地域として「上町」地域があったとされてきていたのです。「前期難波宮」も「四天王寺」(天王寺)も、その「上町」台地にあったものです。(実際にありました)これらの「遺跡」の年代の判定には「土器」その他の出土物からの判定に加え「戊申」と記された「木簡」の存在が重要視されてきました。この「戊申」は西暦で言うと「六四八年」にあたるものと考えられ、この「木簡」が決めてとなって、「七世紀中葉」という時代判定となったものです。
この「木簡」は「難波宮」の北西部の「谷」を埋め立てた地形の場所から出土したものですが、「廃棄物」とおぼしきものの集積した場所であったようです。
さらに同様に「北西部」の「谷」を埋め立てた付近で「水利施設」の遺跡が確認されており、この移設から出土した「樋」状の板材を「年輪年代法」により測定された結果「六三四年」伐採という結果が出されています。
「伐採年代」が「建築年代」というわけではないのはもちろんですが、柱材などとは違い、「樋」はそもそも「乾燥」が厳しく求められるわけではないと考えられ、それほど長く「寝かせる」という必要性はなかったものと考えられるわけです。そうすると「木材」の実使用開始時期は「木簡」の示す年代に限りなく接近することとなり、それは即座に通常考えられている「孝徳朝期」である「六五〇年」付近をかなり遡上する時期に「難波宮殿」が造られたことを意味していると考えられることとなるでしょう。
しかし、これらについては実は「七世紀後半」ではないかという主張が為されているわけです。
先ほどの「ボーリング調査」等によれば、従来「陸地」と判定されていた「場所」が「水域」(湖ないし沼)であるとされたり、干潟が存在したと考えられる場所がまだ「海域」であったりしたとされています。
また、出土した「土器」の編年について『書紀』との照合を取り止め、ないしは「無視」して、「土器」からだけで決めた場合、従来より数十年新しくなる、と言う論も出て来ています。これらに基づき「前期難波宮」の年代を「天武朝」の「六七〇年代」とする考えが提出されているわけです。これらの「論拠」は「一見」科学的であり、斬新であるようですが、以下の理由により、疑問を感じざるを得ません。
一つには「ボーリング調査」に「津波」が考慮されていないのではないかと言うことです。「水域」と判断した理由として「海生生物」や「海底堆積物」の存在があると考えられるわけですが、ご存じのように「南海トラフ」に代表される「既知の地震」や「未知の地震」などにより、有史以来数多くの「津波」が発生し、それにより運ばれた「海生生物」の死骸などや「海底堆積物」が大量に列島各地の「陸域」に存在していると考えられるわけですが、「大阪」の地も同様に「津波」に襲われていたものと推測され(それは「江戸時代」の地震記録などからの推測できます)、ボーリング調査の結果の再検討が必要であると考えられます。
また「地震」が発生すると広い範囲で(程度の多少はもちろんあるものの)「地盤沈降」を起こすことが知られており、「陸域」であったものが「水域」に変わってしまうような例も確認されていて、それらを十分考慮した調査であるか、再検証が必要ではないでしょうか。この「ボーリング調査」は「東日本大震災」よりかなり前に行われたものであり、地震専門家による「津波痕跡調査」という、専門的な見地からの調査ではないことが問題となると思われます。そのような専門的な見地からの調査によって初めて東北、北海道など各地で「海底堆積物」が「陸域」に存在することが確認されたものであり、それはほんの数年前のことなのです。それ以前の調査で、しかも「津波痕跡確認」という明確な目的を持った調査でない場合、その「徴証」を見落としたり、見誤ったりしている可能性が考えられます。つまり、既に「陸域」になっていた場所や地域であっても「水域」と判定された可能性が考えられるものであり、その点について、再検討が必要と思われるものです。
「ボーリング調査」などのサンプリングによる調査は実は非常に難しく、層位の差の見分けが困難である場合が多いことと、大阪平野の場合は地域によりかなり変化に富んでおり、僅かな距離でも全く異なるサンプリング内容を示す場合もあるとされ、その解析や解釈は常に慎重である必要があります。
また、「土器(須恵器)編年」はどのような方法論であったとしても、「人為」が入り込む余地があり、「木簡」という「準金石文」的存在(ほぼ第一次史料と思われる)が存在しているならば、それが指し示す事実に従うのが合理的と考えられ、「戊申」という年次の示す重みは非常に重要であると考えられます。
また「土器(須恵器)」の変遷の「説明」として「白村江の戦い」が影響した可能性を論じられていますが、「対外戦争」により変化があったとすれば「渡来人」的要素が増加することと考えられ、「百済」からの亡命人が多数に上ったと推測されるわけですから、そのような兆候が見られた場合に始めて成立する仮説であると考えられますが、その点が明確ではありません。
それよりは「難波宮」という「副都」が始めて成立し、各地から「勅命」により集められた多くの人々により「副都」が建設されたことを考慮すると、その時点で「土器」の大きな変化があって当然であり、この場合であれば「渡来人」的要素の混入というより、他の地域の土器との折衷のような形で新たな形式が誕生した可能性があり、このような別解釈が成立する余地があるのが問題といえるでしょう。
更に「大下氏」が依拠している「小森論文」では「藤原京」整地層レベルから出ている土器を「六九〇年代」として判定しており、それは『書紀』にある「藤原京」関連記事から推定したものと思われますが、それはそもそも『書紀』の記述に束縛されないという前提に反していますし、無理に『書紀』とリンクさせようとしても、その肝腎の「藤原京」そのものの遺跡年代に疑問がある現状ではその試みも良好な結果を得られないという可能性が高いでしょう。
そもそも「藤原京」は、何もなかったところに「京」が造られたわけではありません。既にそれ以前にある程度「街区」が出来ていたところを新たに「京」としたものです。
「発掘」の結果ここに「藤原京」が造られる以前にすでにこの地域には「街区(条坊)」が形成されていたらしいことが判明しています。その「条坊」の「基準」(寸法など)は共通であったとされています。つまり、すでにある「条坊」を廃棄して別に「京」を形成しているのです。また後に「宮域」となった場所にも条坊が施工されていたことが明らかになっており、ここに居住していた人達を移転させて「宮」を造成しているのが明らかになっています。(この事は『続日本紀』の記事を裏書きするものと思われます)これらの「条坊」を「廃棄」し、その上に改めて「第二次藤原京」が造られたものと推定されます。
発掘からは「街路」及び「溝」(排水用か運河かは判然としませんが)が下層から複数確認され、それが「藤原京」段階とされる以前に形成されたものであるのは明白と思われ、この事は「藤原京段階」という概念全体に重要な変更を迫るものと思われます。つまり「藤原京」と同一整地層レベルにおいてもかなり年代として遡上する可能性がある上に、その下層はそれを上回って遡上すると考えられるのです。たとえば「薬師寺」は「藤原京」内に建てられており、(右京八条三坊に位置していたもの)、しかも「条坊」に合っています。この寺院の「創建」が「六八〇年」の年次にほど近いと考えれば、「第二次藤原京」とでも言うべき「京師」建設はそれを更に遡上するのは当然であり、現在では「天武初年」付近まで条坊の敷設時期が遡上すると考えられるようになっています。この時期を上限と考えると、このレベルの年代は「六九〇年」から「十五年」程度は遡上する可能性があると言えます。
この「藤原京」の年代というものが「須恵器」編年のひとつの年代基準となっていますから、これに「幅」ないし「誤差」があるとすると、それ以前の遺跡の年代測定全体に影響を及ぼすこととなります。つまり「難波京」が「天武朝」に作られたとする説の根本は「難波京」の年代を(結局のところ)『書紀』の記事から後追いしているわけであり、記事に書かれた「六九五年」という年次から遡って考えているわけです。そのため「藤原京」の年代を「早くて六九〇年頃」としたためにそこから「二十年」ほど遡上した「六七〇年」付近を「難波京」の年次としたと言う事ですから、これが更に「十五年」程度遡上するとした場合には「六五五年頃」の創建という帰結が得られ、「孝徳期」に限りなく接近してくることとなります。(私見ではさらに遡上する可能性さえあると見ていますが)
しかも「須恵器編年」の一世代三十年というのは「弥生時代」の土器編年でも使用され、それに基づいて「弥生時代」の編年が行なわれていたものの、その後「年輪年代」や「放射性炭素測定」が行なわれた結果、それと大きく「齟齬」することとなったという曰くのある論法です。(実際にはもっと期間が長かったと見られる)
そもそも「須恵器」にしろ「土器」にしろ一つのタイプの寿命はかなり長いと考えるべきでしょう。なぜなら、その様なものが専門の工房で作られるとすれば、必ず「師匠」と「弟子」という関係がそこに成立していたはずであり、師匠の後に弟子が直ぐに別の新しいタイプを作ったなどとは考えない方がよいと思えるからです。師匠から受け継いだ型はかなりの期間継承するものであり、そう考えれば極端な話「倍」の「六十年」程度が一つのタイプの寿命と考えることも出来そうであり、「三十年」が固定された絶対的なものでないことは当然とも言えるでしょう。(縄文時代はこれが百年という年数であったとされるわけであり、結局弥生時代も似たような期間継続したらしいことが推定されることとなったわけですが。)
また「大下氏」などの論によれば、この「戊申」木簡は「荷札木簡」ではなく「文書木簡」であり、使用後「ある程度の期間」経過後「廃棄させられたもの」という理解をしているようです。それは間違いないものと考えられますが、それが「戊申」という干支の示す時期から「どの程度」の年数経過後棄却されたものかと言うことが明確でないことに加え、そのことが「前期難波宮」が『天武紀』のものであるという何の証明にも反論にもなっていないこともまた重要であると思われます。
そもそも「文書」木簡であったとしても、それが「頻繁」に書き換えられるなどの「需要」があったと言うことはそこに何らかの関係する「官衙」が存在したことの証明にはなり得ても、その逆ではないと考えられるものです。
また、「ある程度」の期間経過後廃棄されたとしても、その「ある程度の期間」というものが、「何十年」もの年数を示すものとはとても考えられません。長期間保存すべきである「書類」・「記録」である「戸籍」も「庚午年籍」を除き「三十年」の保存年数が最長であるわけですから、それ以外の「荷札木簡」や「文書木簡」の寿命(保存期間)など「たかがしれている」ものと考えられます。つまり、廃棄年度についても「戊申」とされる「六四八年」からそう離れた年次ではないと考えるべきではないでしょうか。
また、ゴミ捨て場とおぼしき場所から出たわけですが、そのようなものを廃棄するのに「遠距離」まで捨てにいくと言うことも考えにくいわけですから、「執務」等行う場所から「ほど近い場所」が選ばれたと考えられば、宮域や官衙のあった場所もそれほど遠くないところに想定すべきであり、発掘された「難波宮殿」の位置関係とも矛盾しないものと思われます。
いずれにせよ、使用された時期が「六四八年」であるのは「明確」なわけですから、これが示す絶対年代は重要な意味があると考えるべきでしょう。
また、地元に数多く残る「各種」の「伝承」についても「無視」し得ないものです。「地名」や「伝承」などは後世の「付会」ももちろんあるでしょうけれども、「真実」を伝えている可能性があると言うことももちろんあり得るわけであり、たとえば「九州」で言えば「神功皇后」の伝承が「筑紫」に深く残っていることなどは「それらのうちのいくつか」は「歴史」の真実を反映しているという可能性を感じるものです。同様に「仁徳」に関する「伝承」が「難波」に多いのは『書紀』からの「付会」であるという可能性もありながら、「事実」の反映であるという可能性もまたありうるでしょう。もし新しい学説が真実ならば、これらの「伝承」は「全て」架空のものであると言う事となります。また「後世」の「文書」などに記された「古地図」なども全て「事実」を反映していないものとされてしまうこととなりますが、それもまた「疑問」とせざるを得ません。
更に「斉明紀」に引用された「伊吉博徳書」によっても、その時の遣唐使船が「難波三津之浦」から出航しているとされています。
以下「斉明五年」(六五九年)条による。
「以己未年七月三日發自難波三津之浦。八月十一日。發自筑紫六津之浦。九月十三日。行到百濟南畔之嶋。々名毋分明。以十四日寅時。二船相從放出大海。十五日日入之時。石布連船横遭逆風。漂到南海之嶋。々名爾加委。仍爲嶋人所滅。便東漢長直阿利麻。坂合部連稻積等五人。盜乘嶋人之船。逃到括州。々縣官人送到洛陽之京。十六日夜半之時。吉祥連船行到越州會稽縣須岸山。東北風。々太急。廿二日行到餘姚縣。所乘大船及諸調度之物留着彼處。潤十月一日。行到越州之底。」
この「六五九年」という年次における「遣唐使」の行程の日取りから考えても「難波三津之浦」とは「筑紫」に存在したものではないと考えられます。そう考えるには「百濟南畔之島」までたどり着くのに時間がかかりすぎているように思えます。期間中に「難船」などの記述がなく、(多少彷徨ったとは思われるものの)順調な航路であったようであり、そうであれば、出発地が「筑紫」であるとははなはだ考えにくいと思われます。つまり「何もなければ」この距離を「二ヶ月強」もかかるとは信じがたく、さらにその後に「筑紫六津之浦」という表現の存在から考えても「難波」に「津」がなかったとは考えられないといえるものです。つまり、ここに書かれた「難波三津之浦」が「摂津難波」に存在したものと推量するのはそれほど無理ではないものです。
また、この「伊吉博徳」の行程に異議を唱える理由がないということもあります。この記事は『書紀』中に存在するわけですが、「本文」と違いその記述方法などが異なっており(日付が数字表記であることなど)、「潤色」などを想定する余地がないとみられることや、その記録内容からも行程の各部分に真実味があると考えられます。そう考えると、この段階で「遣唐使船」と言うかなり大型の「外洋船」が停泊できる「津」が「難波」にあったことは確実となり、それは「難波朝廷」そのものも、その至近に存在したと考えて不自然ではないことを示します。そしてこの段階で「難波宮」が「難波」に存在したとすると「前期難波宮」と呼ばれる「宮殿」遺構がこの時代(六五九年)より「以前」のものである可能性が高くなるのは必然です。
また既に述べたようにいわゆる「はるくさ木簡」の存在もあり、これは「前期難波宮」造営「以前」の谷を埋めた層からの発見でした。つまり「前期難波宮」を造営することを前提した埋め立てではなく、「それ以前」の埋め立てによるとされ「廃棄処理」のために埋められたという想定さえされています。
(この項の作成日 2012/04/13、最終更新 2013/08/16)