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「吉備池廃寺」と「百済大寺」


 奈良県桜井市から発見された「百済大寺」と目される「吉備池廃寺」には「四天王寺」に使用されている瓦と「同笵関係」(同じ「型」を使用した)が相互にあることが確認されています。つまり「素弁蓮華紋軒丸瓦」は「四天王寺」(及び「若草伽藍」「飛鳥寺」など)から「吉備池廃寺」という順序で作られたとされるのに対して、「単弁蓮華紋軒丸瓦」は「吉備池廃寺」から「四天王寺」へといういわば「逆順」で製作されているというのです。
 従来「百済大寺」の完成は「素弁蓮華紋瓦」からの関係や『書紀』の記述から「七世紀第2四半期」程度が推定されていました。

「(六三九年)十一年…
秋七月。詔曰。今年造作大宮及大寺。則以百濟川側爲宮處。是以西民造宮。東民作寺。便以書直縣爲大匠。
秋九月。大唐學問僧惠隱。惠雲。從新羅送使入京。
…十二月己巳朔壬午。幸干伊豫温湯宮。
是月。於百濟川側■建九重塔。」(舒明紀)

 しかし、「単弁蓮華紋瓦」からはその逆コースが考えられることとなってしまったわけであり、この「百済大寺」の創建年代を考える上で非常に重要なポイントであると思われます。

 「飛鳥寺」(法興寺)を初めとしてこれらの寺院はいずれも「百済」を通じて中国南朝に由来があると考えられるものであり、その創建時期として「五八〇年代」後半が想定されますが(後でも述べますが『書紀』に記された「六七〇年」の「法隆寺」焼亡が実際には「六二〇年」のことと推定され、「五十年」の差があると考えられることとなっています。)「飛鳥寺」の創建時期については『書紀』によれば「五八八年十月」に部材を取りに山に入ったとされ、伐採はこの年以降のことと考えられています。
 また、「四天王寺」についての「編年」としては「七世紀第一四半期の後半」という理解が優勢のようであり、これは「法隆寺(西院伽藍)」の編年とほぼ同じ時期となります。(ただしこれは『聖徳太子傳私記』などが言うように「移築」と思われますが。)
 「斑鳩寺」の創建については、その「同笵瓦」の解析から「四天王寺」「飛鳥寺」などと接近した年次が想定されていますが、「瓦」の「笵」の損傷の程度から考えて「飛鳥寺」「斑鳩寺」などは「四天王寺」よりも「先行する」とされていますから、そう考えると「斑鳩寺」の創建年次として「六世紀後半」から「七世紀初め」というあたりが想定され、それからやや遅れるとしてもせいぜい「六二〇年」程度の時期までと思われます。
 このようなことを勘案すると、この「百済大寺」(吉備池廃寺)の創建についても同様の時期を措定すべきではないでしょうか。この「吉備池廃寺」の瓦と「同笵」とされる瓦を使用している寺院がいずれも六世紀後半から七世紀初めという時期にその創建時期が措定されているわけですから、当の「吉備池廃寺」においても『書紀』の記述に引きずられず、その創建時期を推定すべきでしょう。

 この「吉備池廃寺」は、『書紀』による寺院名としては「百済大寺」という名称であり、その名称からもこの寺院が「百済」と深い関係にあることが考えられますが、「六三〇年代」であるとすると遣唐使などを派遣するなどの外交活動を行っている時期であり、「百済」一辺倒というにはその実態とそぐわないものと見られます。
 また、ほぼ同時期にこれらの寺院群が建てられたとすると、塔の高さやその重層の数などから考えてもこれらの中心的存在は「百済大寺」であると思われ、これは「倭国王」の寺院であり、「勅願寺」であると思われることとなります。(『書紀』においても「詔」として「造営指示」が出されていますからそう読み取ることができます。)
 「新羅」においても「九重の塔」が建てられたという記事がありますが、その際技術者として「百済」から人が招かれたとされていますから、このような高層の建物を造る技術が当時の「百済」にはあったこととなります。
 倭国においても同様に「百済」からそのような技術者を招来してこれを完成させたものと見る事ができるでしょう。そのような「権威」と「力」を「倭国王」が持っていて不思議はありませんから、やはり「勅願寺」であるという可能性が高いと思料します。
 その場合「同笵」とされる、「飛鳥寺」「若草伽藍」「四天王寺」など他の寺院はその規模や配置から考えて皇親あるいは諸王・有力氏族などの寺院として創建されたものではないかと推察されるでしょう。(実際「天王寺」は「聖徳『太子』」の発願によるとされています。)

 ところで、「舒明」の言葉によると「百済川」の側に「宮」(と「寺」)を作るとされています。

「(六三九年)十一年…秋七月。詔曰。今年造作大宮及大寺。則以百濟川側爲宮處。是以西民造宮。東民作寺。便以書直縣爲大匠。」(『舒明紀』)

 これについては「東西」の基準が「百済川」にあるとしてその東西の地域に当たる近在の民を使役する意とする「塚口氏」の論(※)が正しいと思われ、また「宮」については「川」からほど近いことが推定できますが、「寺」については指定がなく多少離れていたという想定も可能です。
この「百済川」が現在のどの川なのかは確定していませんが、「飛鳥川」「曽我川」「寺川」などがその候補としてあがっており、いずれにしても「宮」はその西側とされますから、「広陵町百済」の地が比定されており、それは「敏達」の「百済大井宮」とほぼ同じ領域に存在していたこととなります。その東側であるとすると「寺」の場所として「吉備池」付近は該当するものと思われ、その規模などからもこれが「百済大寺」であることは確実性が高いと思料します。
 この遺跡が「吉備池廃寺」と称されているのはこの地域が「吉備」という地名を持つからであるわけですが、それはそもそも「吉備姫」の領する場所であったとみられることがあるようです。これは「押坂彦人大兄」に深く関係した人物であり、『古事記』などでは彼の夫人とする記事と娘という記事とが双方存在しています。
 この『古事記』の「敏達天皇」の段の解析などからは「忍坂日子人太子」(押坂彦人大兄)の夫人は「庶妹」つまり腹違いの妹である「糠代姫」とされていますが、それは「吉備姫」と同一人物とされています。つまりこの「吉備池廃寺」そのものが「忍坂日子人太子」(押坂彦人大兄)に直接関係したものであると考えられることとなるわけです。
 この地域が「吉備」の名を冠して呼称されていることは、彼らと「吉備」の間に太い関係があることを示唆するものであり、「刑部」が地名として『和名抄』段階まで遺存していたのがほぼ「吉備」地方に限られるという点からも、彼らの本拠とも言うべき地域が「吉備」であったとみるのが相当です。

 これについても「塚口氏」の研究などで明らかとなっていますが、「敏達」を初めとする「忍坂王家」(それは「長屋王」まで続く)は「百済」という地(奈良県広陵町百済)にその本拠ともいうべき場所があったことが確実となっており、「百済」の名をかぶせた「宮」や「寺」なども全て彼ら「忍坂王家」につながるものといえます。その意味では「息長氏」系と思われる彼ら一族はまた「百済」に深い関係のある一族でもあったものと思われることとなるでしょう。
 そして、その権力の強さを考えると、「舒明」という「六世紀前半」を想定するより、他の寺院同様「阿毎多利思北孤」の前代の「倭国王」に擬されている「忍坂日子人太子」の手になるものと考えるほうが整合するといえるものであり、「瓦」の「笵」の問題もそれを裏書きすると思われます。


(※)塚口義信「百済大井宮(敏達天皇)−その所在地を探る−」堺女子短期大学デジタルライブラリー1992年


(この項の作成日 2014/12/09、最終更新 2015/01/01)