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「阿毎多利思北孤」王朝



 『隋書』によれば倭国王について「倭王姓阿毎字多利思北孤號阿輩鶏彌」という描写がされています。
 彼は数々の改革を行った日本古代史上特筆すべき存在であったと考えられます。彼は「隋」へ使者を送り、最新の文物の導入を図りました。さらに、首都を「筑紫」に設定し「太宰府」の先蹤となる「都城」の構築に着手します。それは「条坊制」を伴うものであったのです。
 また、「百済」から伝わった「法華経」(妙法蓮華経)に感動しこれを個人的に信仰していたものですが、その後「隋帝」より「倭国」の統治体制について「訓令」され、仏教を統治の根本に据えることとなったものと思われますが、同時に「新・法華経」がもたらされたものと思われ、これを全国に布教・推進するため、各地に寺院建築を進め、それと併せ「前方後円墳」の造営とその祭祀を禁止したものです。
 また、「遣隋使」より「隋」の文化制度を積極的に導入しました。行政制度も改め、全国を六十六州に分割(特に九州島を「九州」に分割)し、併せてそれまで「諸国」について「道−国(小国)」制であったものを「国県制」への変更を行い、「広域行政組織」としての「国」制を施行し、その長に「国宰」を任命したのです。
 また、「戸籍」制度の改定や、「暦」の作成とそのための「天文観測」の開始、また「古・万葉集」や「古・風土記」勅撰や、「申楽」の選定などを行いました。また「楽制」を定め、「隋」の度量衡の導入を図り、音律も同様に新たに定めました。
 さらに「山陽道」を初めとする「古代官道」の整備を行い、その要所に「駅家」と「屯倉」を設け「諸国」に対する軍事力展開を可能とすると共に、国内及び海外からの「宝物」を一カ所に集めるルート造りを行い、「筑後」に「正倉院」を建設しその最終集積場所としたものです。これは後の奈良の「正倉院」の先蹤となりました。さらに「新羅」から「無文銀銭」を貢上されたのをきっかけとして、「唐」や「百済」から高価な物品を買い付け、「市」を開き「交易」を活発にしようとしたと思われます。その購入に使用されたのが「無文銀銭」であり、その後自前の通貨として「冨本銭」を鋳造したものです。
  
 これら数々の改革の詳細について以下に説明していこうと思います。