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「数詞形容」としての「八十」と「五十」


 古代日本語で「多数」を表す「数詞形容」としては「二種類」あります。それは「八十」(やそ)と「五十」(いそ)です。どちらも「名詞」の前について、それが「多い」と言うことを形容するものですが、これ以外の「数詞」を使用した「形容」にはお目に掛かりません。「八十」と「五十」という数字だけが「多数」「無数」という表記には使用され、利用されているのです。それがなぜか、と言う事には余り関心が払われた形跡がありませんが、私見によれば先に述べた「戸制」に現れる「戸数」と関係していると考えられます。
 つまり、上で見たような「制度」の改制(「八十戸制」から「五十戸制」へ)が行われたことと、「数詞形容」に「八十」と「五十」の二種類があることは深く関係していると考えられるのです。

 『書紀』では「人名」「地名」などの名前に「八十」が付く例は同種の重複を除いて「十七例」数えられ、その全てが『敏達紀』以前に限られています。なおかつ、「神代」に非常に多く(「天孫降臨」部分など)、それ以外では『神武紀』に見られ、その次は『崇神紀』、その後「垂仁」、「神功皇后」、「応神」、「仁徳」というように出現例があります。これを見ても明らかなように、この分布には明らかに偏りがあり「神武」以降のいわゆる「欠史八代」が全て抜けているなどの不審点があります。
 これに対し、「五十」は(同様に重複を除いて)「十八例」あり、「神代」には少なく「神武」以降に多いのが分かります。またその後「綏靖」「孝安」「孝霊」「開化」というように「欠史八代」を多分に含んでいます。また、その後「垂仁」「仲哀」の各時代の記事中に見られますが、一転して「七世紀半ば」の『孝徳紀』へ飛びます。これもまた著しい偏り方を示すわけです。
 各々の出現例の最終時期について見てみると、「八十」が『敏達紀』であるのに対し「五十」は『孝徳紀』です。しかもその『敏達紀』の例では「古語云。生兒八十綿連連」と書かれ、この「八十」の例が「古い」ものであることが明示されていますから、実使用年代は更に遡ることとなり、これは「五十」の方が「新しい」時期のものであることを更に明確に示しているといえそうです。
 
 更にこの「八十」と「五十」に明確に時代差があることを示すのが『古事記』の出現例です。ここでは相当程度「八十」の例が多く、「五十」は少数の例に留まっています。またその出現時期も「八十」が「上巻」から「下巻」までむらなく見えているのに対して、「五十」は「上巻」には出てこなく、「中巻」と「下巻」に一例ずつだけと後半に偏っています。
 この事実と、『古事記』が『推古紀』までしかないことを考えると、「五十」(いそ)という「数詞形容」が一般化するのは『推古紀』以降であることが推測されます。
 このことは、この『古事記』の例が「歌謡」の中に出てくるものであり、「歌謡」そのもが「形式」として「古い」ものであって、その後の『万葉集』の中でも「短歌」が圧倒的であり、「長歌」に類するものが少ないということからも窺えます。
 これは時代の変化と共に「個人」が詠う「短歌」が増え、民衆の歌、集団の歌とも言うべき「歌謡」が減っていったことを示していると思われ、そのことからも「古事記歌謡」が古いものであることが推定できます。「八十」はその「歌謡」に多く使用されているわけですから、同様に「古い」ものであるという事を示していると思われます。

 また、『書紀』の例は、そのいずれも「森博達氏」の研究による「八世紀」以降の後代編纂部分と考えられる「β群」に属する例が非常に数多く、これらの記事が「日本人」述作者によるものと推定されているにも関わらず、その「β群」の中でも「欠史八代」については「倭臭」が全くなく、「本格漢文」に基づいた原資料がそのまま使用されていると考えられているようですが、そこには「八十」(やそ)という「数詞」は全く存在しておらず、それに対し「五十」(いそ)ならば存在しているということを考えると、おそらく渡来人と考えられる『書紀』編纂者やそれに原資料を提供した「編纂当時」の有力氏族にとって「八十」(やそ)という「純日本的」数詞形容はなじみがなかったものと推量されるとともに、「八十」という数詞を使用した形容語がかなり「古い」ものであることを裏付けるものです。
 例えば、「綏靖」の部分には「多氏」の「記録」(家伝の類か)がそのまま使用されていると見られますが、その「多氏」の活躍が『書紀』に確認できるのが「六六一年」の「多臣薦敷」以降であり、その記録の中に「八十」の使用例がなかったと考えられることも上の推定を裏付けます。

 以上の「記紀」の分析からの帰結として、「八十」という数詞を使用した「形容語」としての「人名」などは「古い」ものであり、それがどこかの時点で「五十」という「数詞形容」に取って代わられることとなったと推量します。

 ところで、『孝徳紀』の「五十」の例は「東国朝集使への詔」の中に登場する「人名」としての「五十」でした。

『孝徳紀』
「大化二年(六四六)三月辛巳十九。詔東國朝集使等曰。集侍群卿大夫。及國造。伴造。并諸百姓等。咸可聽之。以去年八月朕親誨曰。莫因官勢取公私物。可喫部内之食。可騎部内之馬。若違所誨。次官以上降其爵位。主典以下。决其笞杖。入己物者。倍而徴之。詔既若斯。今問朝集使及諸國造等。國司至任奉所誨不。於是。朝集使等具陳其状。…其以下官人河邊臣磯泊。丹比深目。百舌鳥長兄。葛城福草。難波癬龜。癬龜。此云倶毘柯梅。『犬養五十君。』伊岐史麻呂。丹比大眼。凡是八人等。咸有過也。…」

 この「犬養五十君」の例は「固有名詞」としての人名にかかるものであり、このことから「君」の名称がもっと早い時期に始められていたことを示し、彼の「生年」と推量される「七世紀初め」の時点で「五十」という「数詞形容」が行われていたことを示すものと思われます。
 また、この「例」を代表的なものとして「五十」はほとんど全て「固有名詞」としての「人名」また「地名」に掛かるものです。それに対し「八十」(やそ)は固有名詞ではなく「普通名詞」として使用されており、「普遍化」が進行していると考えられます。「五十」(いそ)という言葉が「勇ましい」という言葉に語感が似ていたことも「名詞」特に「人名」としての固有名詞の前につく動機付けになったものと思料されます。

 また、「萬」(万)というのは、それだけで「多くの」という意味となっていますが、更に「無数」のという場合一般に「八百萬」と形容するであろうところで、「八十萬」と形容している例が『書紀』に数多く出てきます。これは「八十」という「形容語」にいわば「引かれて」出来た言葉と考えられ、それは「多い」という意味としての「八十」という「数詞形容」が広く一般化し定着していたことを示すものと思われます。
 それはその時代の生活の中に「八十」という数字が深く入り込んでいたからであり、それは「地域社会」と「生活」というものの中に「行政制度」が存在し、それらを「規定」していた事が挙げられます。
 つまり、「八十戸」で一つの村とする、という「制度」が彼らの生活と習慣の中心にあったものであり、「八十」という数詞が「数多い」という「形容」の基礎となるためにはそれが「村の戸数」である、という背景があったと思料されるものです。
 例えば「村」でいちばんの勇者と言う場合、村の戸数が「八十」であるなら、彼には「八十建」という称号が与えられて何ら不自然ではないこととなります。
 このようにして、生活の中の各所に「八十」という数字が顔を出すこととなったものと思われ、「多数」という意味で常用される下地が出来たものと思われます。
 後に「制度改革」が行われ、「八十戸制」が改められて「五十戸制」になったと考えられるわけですが、それ以降「数詞的形容」としては「五十〜」というものが優勢になっていったと解されます。ただし、使用例としては「固有名詞」に留まると考えられ、「普通名詞」に及ぶ程の浸透期間がなかったものであり、その結果「八十」は古い時代の古い記録の中の「普通名詞」にだけ出てくるような状態となったものと思料します。
 このように「五十」が「七世紀初め」と考えられる「人名」に使用されていると言う事から考えて、この時点での「五十戸制」施行というものが強く推定されるものです。

 また『皇極紀』に出てくる「五十」の例は、「蘇我入鹿」が「ボディガード役」としていつも「兵士」を従えているという意味の文章の中に出てくるものです。

「皇極天皇三年(六四四)十一月冬十一月。蘇我大臣蝦夷・兒入鹿臣雙起家於甘梼岡。…大臣使長直於大丹穗山造桙削寺。更起家於畝傍山東。穿池爲城。起庫儲箭。恒將五十兵士続身出入。名健人曰東方?從者。氏氏人等入侍其門。名曰祖子孺者。漢直等全侍二門。」

 この記事の「五十」というものが「多数」を意味するのか「実数」なのか微妙ですが、「兵士」の数として書かれており、「軍制」と「五十」という数が関係しているように見えることを考えると、「五十戸制」と「軍制」との関連の中で考慮すべきものと思われ、そうであれば、この「年次」(六四四年)において(後の「軍防令」のような)「軍制」に関するルールが既にあったらしいことが推定されるものですが、それはこの年次に先行する時点である「七世紀前半」において「五十戸制」がすでに存在していたことを強く示唆するものです。

「参考」
@以下に『書紀』に出現する「八十」(やそ)と「五十」(いそ)の例を書き出します。
『日本書紀』における「八十」(やそ)の例(純粋に数量を表すものは除く)

「八十枉津日神」:巻一第五段一書第六
「天八十河」:巻一第五段一書第七
「八十萬神」:巻一第七段本文、巻一第七段一書第一、巻二神代下第九段一書第一、巻二神代下第九段一書第二(二個所)、巻五崇神天皇紀
「八十玉籤」:巻一第七段一書第二(二個所)
「八十木種」:巻一第八段一書第五
「八十諸神」:巻二神代下第九段本文、巻二神代下第九段一書第六
「百不足之八十隅」:巻二神代下第九段本文(これは実数である可能性があります)
「八十連屬」:巻二神代下第十段一書第二、巻二神代下第十段一書第四(三個所)
「八十梟帥」:巻三神武天皇即位前紀(六個所)、巻七景行天皇紀
「八十平瓮」:巻三神武天皇即位前紀(二個所)(これは実数である可能性があります)
「八十諸部」:巻五崇神天皇紀
「物部八十手」:巻五崇神天皇紀
「八十萬羣神」:巻五崇神天皇紀
「葦原中國之八十魂神」:巻六垂仁天皇紀
「八十船之調」:巻九神功皇后摂政前紀(これは実数である可能性があります)
「子子孫孫八十聯綿」:巻十四雄略天皇紀
「生兒八十綿連連」:巻二十敏達天皇紀

同じく「五十」(いそ)の例

「五十猛神」:巻一第八段一書第四(二個所)
「五十猛命」:巻一第八段一書第四、巻一第八段一書第五
「姫蹈鞴五十鈴姫命」:巻一第八段一書第六(「五十鈴」としては「巻二神代下第九段一書第一」に「二個所」、『巻三神武天皇即位前紀に「二個所」、巻四綏靖天皇即位前紀に「二個所」、巻四安寧天皇即位前紀、巻六垂仁天皇、巻九神功皇后摂政前紀、巻十四雄略天皇紀に各「一個所」)
「五十狹狹小汀」:巻一第八段一書第六
「五十田狹之小汀」:巻二神代下第九段本文、巻二神代下第九段一書第二
「十市縣主五十坂彦女五十坂媛」:巻四孝安天皇紀
「彦五十狹芹彦命」:巻四孝霊天皇紀
「御間城入彦五十瓊殖天皇」:巻四開化天皇紀、巻五崇神天皇即位前紀、巻六垂仁天皇即位前紀、巻六垂仁天皇紀
「生活目入彦五十狹茅天皇」:巻五崇神天皇、巻七景行天皇即位前紀(三個所)、巻八仲哀天皇即位前紀
「彦五十狹茅命」:巻五崇神天皇紀(「五十狹茅命」としても巻五崇神天皇紀)
「五十日鶴彦命:巻五崇神天皇紀
「五十瓊敷入彦命」:巻六垂仁天皇紀、(「五十瓊敷命」として巻六垂仁天皇紀に「七個所」、「五十瓊敷皇子」として巻六垂仁天皇に「二個所」)
「五十日足彦命」:巻六垂仁天皇紀(二個所)
「五十狹城入彦皇子」:巻七景行天皇紀、
「五十河媛」:巻七景行天皇紀、
「筑紫伊覩縣主祖五十迹手」:巻八仲哀天皇(三個所)
「五十狹茅(宿禰)」:巻九神功皇后摂政元年紀(四個所)
「五十兵士」:巻二十四皇極天皇紀(これは実数である可能性があります)
「犬養五十君」:巻二十五孝徳紀


A以下『古事記』における「八十」と「五十」の出現例を書き出します。(『書紀』と同様重複例は省きます)

「八十」(やそ)の例

「八十禍津日~」:上巻 二 神代紀(二個所)
「八十~」:上巻 四 大国主命記(十二個所)
「天八十毘良迦此」:上巻 五 葦原中つ国の平定部分
「八十建」:中巻 一 神武天皇記〜開化天皇記
「八十膳夫」:中巻 一 神武天皇記〜開化天皇記
「天之八十毘羅訶」:中巻 二 崇神天皇記
「天下之八十友氏v:下巻 二 允恭天皇記

古事記における「五十」の全例

「五十日帶日子王」:「中巻」三 垂仁天皇記
「見者五十隱」:「下巻」四 清寧天皇記(ただしこれは「いそ」ではなく「い」と発音するらしい)


(この項の作成日 2013/05/04、最終更新 2013/05/04)