「薄葬令」については「六世紀末」と「七世紀前半」と二回出されたものと推定したわけですが、この「薄葬令」は「改新の詔」と同じタイミング(直後)で出されたものであり、「改新の詔」の「直前」に出された「東国国司詔」などと「一体」になっているものですから、「改新の詔」自体が同様に「六世紀末」ないし「七世紀初め」に出されたと想定する余地が出てきます。
もちろん、「改新の詔」に書かれた事がそのままその時点で行なわれた「事実」であるとできるかどうかという点で、既に問題であるわけですが、「私見」によれば「六世紀末」から「七世紀の初め」というのが「一大画期」を為す年次(年代)であり、そのような「大改革」が為されるに当たり、「王権」から何らかの方向性や、目的などについて述べた「詔」が出されたとするのは、当然すぎるほどのことではないかと思われます。
そもそも『隋書俀国伝』によれば「日出る国の天子」という自称を行っており、そのような「天子」という絶対的、超越的存在に自らを置いたとすると、それ以前と以後では「決定的」「劇的」に「支配権力」が強大になったことが示唆されます。それは「天子」という存在にふさわしく「京師」の(都)の構築とそれを中心点とする「畿内」の設定という状況の出現を意味するものであり、また「官位制」(爵制)の創出による「官僚」の身分の階層制の構築とそれによる「支配」の合理化が行われたという一面を有することとなります。
つまり、これらのことが包含されている「改新の詔」というものは、そのような「天子」自称の時点にふさわしいものであり、「六世紀末」という時期に出されと考えて何も「不自然」はないということです。
また、この「改新の詔」と前後して「東国国司詔」が出されますが、その中では「今始めて萬國を治める(修める)」という表現がされています。これはそれ以前には「萬国」を「治める」ということはしていなかったように見える文言です。
「…隨天神之所奉寄方今始將修萬國…」
つまり、これはそれまでなかった「中央集権国家」というものを樹立したという宣言と考えるべきでしょう。『常陸国風土記』に見える「行政制度」の変遷からの考察として、「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」が「六世紀終わり」から「七世紀初め」という時期に、「諸国」に対して「統治機構」を「階層化」し、「倭国王権」の意志が「短期間」に諸国の末端まで伝わるように改革を強力に進めたと考えられるわけですが、この「詔」の文言はそれに重なるものであると考えられ、それはこの「東国国司詔」に見られるような、東国に対する統治強化策が実施されることで達成されたものと理解できます。
またこの「詔」の翌年である「大化二年」(これは「六四六年」と一般には考えられているもの)に再び「東国国司」に対して詔を出しています。
「三月癸亥朔甲子。詔東國々司等曰。集侍羣卿大夫。及臣連。國造。伴造。并諸百姓等。咸可聽之。夫君於天地之間。而宰萬民者。不可獨制。要須臣翼。由是代々之我皇祖等。卿祖考倶治。朕復思欲蒙神護力共卿等治。故前以良家大夫使治東方八道。既而國司之任。六人奉法。二人違令。毀譽各聞。朕便美厥奉法。疾斯違令。凡將治者。若君如臣。先當正己而後正他。如不自正。何能正人。是以不自正者。不擇君臣。乃可受殃。豈不愼矣。汝率而正。孰敢不正。今隨前勅而處斷之。」
この「詔」の中には「東方八道」という表現が出てきますが、これは『常陸国風土記』の中で「我姫」を「八国」に分けたと称されているものと同一と考えられ、「相模」「武蔵」「上総」「下総」「常陸」「上野」「下野」「陸奥」の八ヶ国を「八道」と称していると思われます。
また、これらはいずれも「常陸」同様その中に更に旧「クニ」を抱えた「広域行政体」としての「国」であったと見られ、そこに「国司」が派遣されているように見えますが、これが「国宰」のことであるのはほぼ「常識」となっています。(「国宰」は『書紀』の中では「評」同様「隠蔽」されているのです)
『常陸国風土記』ではこの「我姫」全体に対して「高向氏」と「中臣氏」が「惣領」として赴任しているとされています。彼等により「我姫」は「分割」されたとされていますから、この「東国国司」が派遣されたのはそのような「地ならし」が終った時期であることを意味するものと思われます。
また、上の「詔」の中では「東国国司」に対して「現地」で「自らの判断で裁くな」としています。
「…又國司等在國不得判罪。…」
このように「国司」(国宰)が現地で裁判をしないようにとしています。では誰がその裁判を行なうのでしょうか。その後に「鐘櫃の詔」が出されることから見て、全てを「倭国王」が直接決裁しようとしていたと見ることも出来るかも知れませんが、そのような事は不可能であるのは自明ですから、実際には「国司」(国宰)の上司たる「惣領」がこれを行なっていたと思われます。そのことは以下のように『常陸国風土記』の中で、「評(郡)」創設の「訴え」を「国宰」ではなく、「惣領」が処理していることからも窺えます。
(以下「常陸国風土記『多珂郡』条」抜粋)
「…其後 至難波長柄豊前大宮臨軒天皇之世 癸丑年 多珂国造石城直美夜部 石城評造部志許赤等 請申総領高向大夫 以所部遠隔 往来不便 分置多珂石城二郡 石城郡 今存陸奥国堺内…」
「国」(広域行政体)の責任者は「国司」(国宰)であったはずですから、その内部問題は「国司」(国宰)が裁いて問題ないはずですが、それをより高次の責任者である「惣領」が裁いています。このことは「国司」(国宰)にはそのような権能が与えられていなかったことを示しますが、その理由としては、「刑事」「警察」機構というものが「国家」の直接支配するものであったからであり、その「執行代理者」としての「惣領」の手中にあったと見られることがあります。
この時点の「国家」及びその代理者としての「惣領」は「解部」を初めとする「刑事」「警察」機構をその配下に治めていたものであり、「裁判」などは彼等の専管事項であったと考えられます。その意味では「惣領」が現地に常駐して統括している職掌であるのに対して、「国宰」はその指揮下で行動する官僚であり、彼等も「惣領」による統制・監視の対象であったと考えられます。
さらに、現地での裁判が、「不正」(賄賂などの受け渡し)の場になることを懸念していたという事をも示すと思われます。そのような「不正」に対し強く臨む態度であることを示すのが「六人奉『法』。二人違『令』。」という言葉に表れています。
ここでは「法」と「令」というものがあることが示され、それに対し「罰則」規定も存在していたことも推定される筆致です。
ここで、「罪」として問われているのは特に「莫因官勢取公私物。」というものであり、「公私混同」を厳しく諫めていると思われ、「公」というものの重要性を強く知らしめ、理解させようとしているように見えます。これもやはり「十七条憲法」で謳われている「公」に対する態度を徹底させようという狙いと整合するものであり、それは実際には「聖徳太子」の手になるとされる「十七条憲法」そのものに照らして判断しているように見られます。これを「根本法典」として機能させていたのではないでしょうか。(後の『養老令』にもそのような規定がないことを見ても、後代の潤色とはいえないと思われます。)
この「十七条憲法」は実際には「阿毎多利思北孤」の手になると考えられ、「東国国司」に対して「詔」を出している人物はその太子とされた「利歌彌多仏利」と考えられますから、「父王」の出した「憲法」を根本法規として諸国統治に臨んでいるものとすると当然ともいえるでしょう。
(この項の作成日 2011/08/28、最終更新 2015/02/25)