ホーム:倭国の六世紀:「阿毎多利思北孤」王朝:「阿毎多利思北孤」とはだれか:阿毎多利思北孤の業績:第一次「改新の詔」について:

「改新の詔」の虚実


 『書紀』によれば「大化の改新」後(六四六年)に「孝徳天皇」から「大化の改新の詔」というものが出されたとされています。

「(大化)二年春正月甲子朔。賀正禮畢。即宣改新之詔曰。
其一曰。罷昔在天皇等所立 子代之民處々屯倉 及別臣連、伴造、國造、村首所有部曲之民、處處田庄。仍賜食封大夫以上。各有差。降以布帛賜官人。百姓有差。又曰。大夫所使治民也。能盡其治則民頼之。故重其祿所以爲民也。

其二曰。初修京師。置畿内國司。郡司。關塞。斥候。防人。騨馬。傳馬。及造鈴契。定山河。凡京毎坊置長一人。四坊置令一人。掌按検戸口督察奸非。其坊令取坊内明廉強直堪時務者死。里坊長並取里坊百姓清正強■者充。若當里坊無人。聽於比里坊簡用。凡畿内東自名墾横河以來。南自紀伊兄山以來。兄。此云制。西自赤石櫛淵以來。北自近江狹々波合坂山以來爲畿内國。凡郡以四十里爲大郡。三十里以下四里以上爲中郡。三里爲小郡。其郡司並取國造性識清廉堪時務者爲大領少領。強■聰敏工書算者爲主政主帳。凡給驛馬。傅馬。皆依鈴傅苻剋數。凡諸國及關給鈴契。並長官執。無次官執。

其三曰。初造戸籍。計帳。班田收授之法。凡五十戸爲里。毎里置長一人。掌按検戸口。課殖農桑禁察非違。催駈賦役。若山谷阻險。地遠人稀之處。隨便量置。凡田長卅歩。廣十二歩爲段。爲段。十段爲町。段租稻二束二把。町租稻廿二束。

其四曰。罷舊賦役而行田之調。凡絹■絲緜並隨郷土所出。田一町絹一丈。四町成疋。長四丈。廣二尺半。■二丈。二町成疋。長廣同絹。布四丈。長廣同絹■。一町成端。絲綿■屯諸處不見。別收戸別之調。一戸貲布一丈二尺。凡調副物鹽贄。亦随郷土所出。凡官馬者。中馬毎一百戸輸一疋。若細馬毎二百戸輸一疋。其買馬直者。一戸布一丈二尺。凡兵者。人身輸刀甲弓矢幡鼓。凡仕丁者。改舊毎卅戸一人以一人充廝也。而毎五十戸一人以一人充廝。以死諸司。以五十戸仕丁一人之粮。一戸庸布一丈二尺。庸米五斗。凡釆女者。貢郡少領以上姉妹及子女形容端正者從丁一人。從女二人。以一百戸充釆女一人粮。庸布。庸米皆准仕丁。」

 「改新の詔」は以上のように「事項別」に出されているわけですが、この「まとめ方」としては「其の一」が「公地公民制」に関する事、「其の三」が「戸籍、計帳、班田収受」に関する事、「其の四」が「調」、「庸」など「税」に関する事、という様になっており、各々の項目で言及している項目が判然としており、非常にわかりやすくなっています。しかし、「其二曰」で言及されていることについては、従来の理解に「誤解」があると考えられるのです。
 従来この「其二曰」とされている部分は「行政制度」に関する事と読まれているようです。確かに「国司」「郡司」などを定めており、間違いではないようですが、良く文章を見ると、ここで言及されているのはすべて「畿内」に関する事なのです。つまり、ここの文章は「置畿内~」というふうになっていて、「国司」や「郡司」「防人」なども全て「畿内」との関連で書かれていると考えられるものです。
 つまり、文章構成として「初修京師」という冒頭の句で「京師」という言葉を提出し、その説明として「凡京毎坊置長一人…」と書いてその「京師」が「条坊制」に基づくものであることを提示しているのです。これと対を成すものとして「置畿内…」という文章があり、ここで「畿内」という用語を提出し、その説明として「凡畿内…」という「畿内」の範囲指定の文章が続くのですから、「置畿内…」という文章は全て「畿内」に関するものである、という理解が成立するでしょう。
 この「詔」の構成から考えて、「其二曰」の内容が「畿内」とその中心である「京師」以外のことに言及しているとは考えられません。でなければ、「其二曰」としてのまとめ方の論理が不明となります。もし、「郡」制施行を言いたいのであれば、「畿内」「京師」に関する事は別に「其五曰」としてでも言及するべきでしょう。(内容的には本来直接は関係しない事柄なのですから)
 ここで、それらをまとめて「其二曰」としているのはそれらが全て「畿内」に関連する事柄であるからだと考えられます。

 ところで、ここでは「初修京師」とされています。この文章を素直に考えると、倭国で初めて「京師」が制定されたという意味と考えられますが、それは「周礼」によっても「京師」とは「天子」の「都」を意味するものですから、この「京師」には「天子」がいる(天子の宮殿がある)ということを意味します。
 『隋書俀国伝』によれば「天子」の自称は「七世紀初め」(実際にはそれ以前)の「阿毎多利思北孤」の時のようですから、彼がこの「京師」にいたということとなるでしょう。
 また、それは「史料」として『二中歴』等にいう「九州年号」の中に存在する「倭京」年号の改元の時が「六一八年」のこととされている事、「考古学的」にも「太宰府」遺跡発掘の成果から、「七世紀前半」に「条坊」が成立しているように見える事などから、この「詔」は「七世紀初め」という時点で出されたものと推定できます。
 また、この「詔」で設置が謳われている、「關塞」とは「関所」の意であり、この「詔」が初見です。つまり「關塞」はこの「詔」で「畿内」防衛のために「初めて」設置されたのです。
 また、「斥候」はその「關塞」の外部で「畿内」侵入を意図する軍事的勢力を早期に検知し、抑制すると共に、本隊に伝達するのがその任務です。これと同時に「防人」を配置していますが、彼らは共同して「關塞」の外部に「拠点」を設け、共に「畿内」侵入を企図する勢力に対して防衛を行うものと考えられ、この「詔」「其二曰」で示された事柄は「畿内」防衛のための必要な軍事的配置、いわば「首都圏防衛体制」とでも言うべき構成について述べたものと考えられるものです。
 通常「防人」は「筑紫」防衛のために東国より集められた人々を指すと考えられていますが、本来は「筑紫」であれどこであれ「畿内」を中心とした防衛体制の一環であり、この「改新の詔」ではそこに記された地名から見て「現在の近畿」を畿内としてそれを防衛するために配置されているということを示すものと考えられます。
 しかし「畿内」が始めた設置された「七世紀初め」という時点では「筑紫」を中心として「方千里」が「畿内」とされていたと見られ、この「畿内」防衛のための兵力として「斥候」や「防人」が定められたものと思料されます。
 このように「畿内」という「天子の直轄領域」を「防衛」するために軍事態勢を構築しているというわけですが、そのためにはそれを統括する官職が必要であると思われます。本来は「都督」がその役割をしているはずですが、この時点で任命されているかは不明です。
 この「改新の詔」の文言は「第二次」つまり「後年」の文も混在しており、そのためかなり紛糾していますが、『常陸国風土記』など見ると「総領」という職名が見え、これは『書紀』の「周防総領」の記事などから「軍事関連」の職とも思われますから、これが「都督」ないしは「都督」の直下の職名であったという可能性があります。

 この「畿内」というものの制定と、「改新の詔」の「三」や「四」に見られるような「戸籍」や「行政制度」の改定の他「租」の制度などの変更が直接結びついているという考え方があります。つまりこれらの改定は先ず「畿内」に適用され、その後周辺諸国へと敷衍されたというのですが、新しい制度「戸籍」や「度量衡」などが先ず「畿内」に適用されたのは正しいと思われます。
 「畿内」はある意味「特別」な領域であり、「皇帝」の足下に置いて先ず最新、最高の制度と組織が確立されたと見られます。
 中国の例でも「軍事的緊張」が発生した場合は「畿内」勢力が「皇帝」と「首都」の防衛に率先して当たるべきとされ、「軍備」についても各自が即戦力として戦える能力を維持することが各戸に求められました。このことから、「改新の詔」で定められた制度等も「畿内」が除外されたと云うことはあり得ず、他の地域と同様あるいは先行して「畿内」に適用されたと見るのが妥当ではないかと思われます。
 それに類似するものは『文武紀』に例が見られます。

「文武三年九月辛未。詔令正大貳已下無位已上者。人別備弓矢甲桙及兵馬。各有差。又勅京畿。同亦儲之。」

「文武四年二月丁未。累勅王臣京畿。令備戎具。」

 ここでは「官人」に対して「武器」や「馬」など戦いに必要なものを準備するよう「詔」が出されていますが、「京畿」に対しては特に「勅」されており、「倭国王」からの直接命令という形で「武器」を備えるように指示が出されています。
 「班田」についても先ず「畿内」に適用され、測量その他も「畿内」が先行して実施されたと見られます。
 『書紀』の『持統紀』記事においても「畿内」への「班田大夫」の派遣記事があり、この直前の時点(庚寅年)で何らかの「制度改定」が行なわれた見られますが、それもまた「畿内」が先行して適用されている事を示すと思われます。(後でも述べますが、この時点で「日本国王権」へ禅譲されたと見られ、それに伴う遷都と制度変更であったと思われます)

「持統六年(六九二年)九月癸巳朔辛丑。遣班田大夫等於四畿内。」

 これらを見ると「畿内」を別として「制度改定」が及んでいるという考え方は当たらず、先ず「畿内」という「天子」の直轄エリアにおいて「理想型」を作り上げ、それを周辺に拡大発展させていくという手法がとられたのではないかと推定できます。


(この項の作成日 2011/04/16、最終更新 2014/05/13)