「阿毎多利思北孤」が「隋」から制度(中でも「戸籍」)導入する以前から「倭国」ではすでに戸籍が作成されていた形跡があります。
七〇二年とされる「庚寅年籍」を作成したときの西海道諸国の戸籍には「様式の統一が感じられる」という指摘もあります。(※)
たしかにそれまで「倭国」は日本列島の盟主として朝鮮半島への出兵など各種の戦争を遂行し続けており、兵員の確保は最重要事項であろうと考えられ、戸籍が整備されていなかったとすると大きな矛盾と思われます。
元々南朝に臣事していた倭国が、国内に戸籍などを作成する際には当然南朝で行われていた様式(研究によれば「西晋型西涼式」と呼ばれる様式)を採用していたとみられています。
さらに後になり「北魏型両魏式」と呼ばれる様式が流入し、一部の地域ではその「北魏型両魏式」へ変更されたものの(たとえば下総国、筑前国)、他の国々では改めなかった(たとえば御野国、陸奥国、出羽国)ということが、「正倉院籍帳」の研究により明らかになっています。
すでにみたように倭国は五世紀後半になってから「自国年号」(九州年号)を使用開始しています。これは一種の自立であり、独自の暦と年号を使用し始めた、ということは「柵封・臣事」という関係から脱却した、ということと考えられます。このため、自前の制度の充実を図ることになったものでしょう。そのような中で「隋」王朝成立後「隋」の皇帝「高祖(文帝)」に対し使者(遣隋使)を派遣していますが、その中には「隋」の制度等を研究するための「学生」「沙門」などが含まれています。彼らの研究と勉学の成果について「倭国」(倭国王)は採用を決め、実施することとなったようです。この時点で「南朝」に偏っていた従来の路線をやや変更した、あるいは「隋」の実力を認め率直に隋の文物を取り入れ、それを国内統治強化に役立てようとしたというような動機が感じられます。
戸籍についても「隋」で行われていた北魏系(「北魏型両魏式」)に切り替える施策を実行したものと考えられます。しかし、国内にはそれに従わない地域・勢力が発生していたものです。従わなかった最大の理由は仏教の受容の関係でしょう。
この時「隋帝」からは「訓令」として「仏教治国策」を指示されたとみられ、各地の権力者(在地首長層)たちの権力も無力化されるとともに、「倭国王」の権力の強大化が図られたものとみられます。しかし、『書紀』にもあるとおり、「蘇我氏」と「物部氏」の対立に象徴的な、仏教を受容する考え方と以前から国内に存在している「神道(道教系か)」を信奉する考え方とで分裂していたもののようです。
たとえば、「出羽」は羽黒山などがあり、現在も「山伏」による山岳信仰の一大中心地ですが、これは密教系であるものの、中身を見ると道教の呪文を唱えたりするなど道教の影響が色濃いものがあります。
また「美濃」は「壬申の乱」の際に「天武天皇」の陣取った地域ですが、彼は道教を強く信奉していた模様であり、(天文・占星術に優れていたようです)「天武」死去後「朮」(おけら)を煎じる儀式を行うなど、道教的色彩の強い地域とみられます。これら非仏教的色彩の強い地域が倭国から離反して行った模様です。(東国全体が服するようになるのは「難波」に軍事拠点を設けて以降と思われ、七世紀初めまでずれ込むようです。
また変更に応じた地域に「下総」国があるのも象徴的です。「下総」は「常陸」のすぐ南に位置しており、「常陸」との関連も深いものとみられると同時に「東海道」の元々のルートが伊豆半島から房総半島へとつながる海路であったことも関係があるようです。
さらに近年「筑紫」沖の「玄界灘」からブイを流してどこに着くか実験を行ったところ、20個ほど流したうちの2個が数日のうちに犬吠崎の近くに漂着した事実があります。これは日本海を北上して津軽海峡に入り、逆に寒流に乗って南下して暖流との合流地点である房総半島の先端部で漂着したとみられています。このことから、意外に九州と房総半島とは「距離が近い」という印象になるのではないでしょうか。
また、六世紀前半の「磐井の乱」により倭国と倭国王の権威が低下したことも制度変更に応じない国が出て来た理由と考えられます。「物部」滅亡後「筑紫」を奪還するわけですが、失われた「六十年」の影響は大きく、権威が列島内に透徹しないこととなったのではないでしょうか。
ところで、「庚午年籍」は白鳳十年(六七〇)に全国的規模で造籍されたとされているものです。ところが大宝と年号が変わってからかなり年月の経った「七二七年」になって次のような文章が『続日本紀』に出てきます。
「秋七月丁酉、筑紫諸国の庚午籍七百七十巻、官印を以てこれに印す。」神亀四年(七二七)
つまり、九州諸国の庚午年籍七七〇巻に官印を押したという記事ですが、この記事からわかることは、この「七二七年」という時点になってようやく「近畿王権」は九州地区の「庚午年籍」を手に入れることができたということとなります。
通常、戸籍には国印が押されていますから、この七七〇巻の筑紫諸国の「庚午年籍」には旧倭国王権時代の各地の国印は押されていたと思われますが、この記事によれば国印ではなく「官印」を押したとありますから、別に新日本国王権の官庁の印を新たに押したということと考えられます。
この記事は薩摩において反乱を起こした隼人を制圧したという記事の直後に書かれており、そのことからこの戸籍が薩摩に秘匿されていたものと考えることができるでしょう。そして、「筑紫地域の戸籍」が大変重要な意味をもっていたものであり、新王朝側に戸籍が渡ったことで政権交代が完了したものと考えられます。つまり「戸籍」はそれを管轄する権力により把握されているわけですが、言い換えるとその戸籍に書かれた人達に対する行使が可能な権力を保有している主体が誰であるかを示すものであり、それが「新日本国」により彼等の統治機構の一環としての官が「印」を押したということから、この時点で「筑紫諸国」の人々に対する統治主体が旧来のもの(倭国九州王朝)から移動・変更となったことを如実に示すものといえそうです。
さらにそのことから「庚午年籍」が旧倭国(九州王朝)に関するものであり、「天智」という存在の意味についてもある意味再考を迫るものといえるかもしれません。
その「庚午年籍」は、新日本国王権に列島の盟主が交代した後も『大宝律令』などで永久保存が命じられ、その書写は九世紀段階でも全国的レベルで続けられました。「庚寅年籍」などは保存期間30年と決められていましたが、庚午年籍だけは「永久」に保存する命令が出ていたのです。(人民の身分や氏姓の根本を示すものという扱いをされていたもの)
ずっと後になり、『続日本後紀』の承和六年(八三九)七月条に中務省が「左右京職五畿内七道諸国」に「庚午年籍」を書写して提出するよう命じています。
さらに承和十年(八四三)正月条でも再度書写と提出を諸国に命じていますので、そのことから「庚午年籍」が筑紫諸国だけではなく全国的規模で造籍されていたことがわかります。しかし『続日本紀』によればある時期まで「筑紫諸国」の分だけが新日本国王権の手に入っていなかったものであり、しかもその入手がトピックとして「記録」に残されていることからも「筑紫」という地域の特殊性が浮き彫りになっています。
(この項の作成日 2011/01/03、最終更新 2017/02/22)