既に述べた「屯田」に関して「仁徳紀」に「屯田」の所有関係をめぐってのトラブルが書かれています。そして、そこでは「屯田」の管理者として「出雲臣」の「祖」である「淤宇」が登場します。
(『日本書紀』仁徳即位前紀)
「是時、額田大中彦皇子、將掌倭屯田及屯倉、而謂其屯田司出雲臣之祖淤宇宿禰…」
つまり「倭」の「屯田」と「屯倉」については「出雲の臣」の「祖」である「淤宇」が管理者たる「屯田司」であったとされているのです。これは「複数」の「屯田」とそこからの生産物の集積場である「屯倉」の管理が「出雲」の勢力に委ねられていたということとなります。
「屯田」は一種の軍事拠点であり、また「最前線」でもあったわけですから、「出雲」にはかなりの軍事力があったことを示すと同時に、時には各種勢力との衝突が想定され、その際には「怪我人」なども出たと考えられますから、そのような際には「傷の治療」というものも「屯田」の経営に不可欠のものであったと思料されるものです。そう考えると、「出雲」の持つ「薬」と「治療」の技術が大きく影響することとなったと見られることとなります。
その「出雲淤宇宿禰」は「出雲」の国府が置かれた「意宇郡」との関連が強いと思われます。この場所は後「神郡」とされ「熊野大社」が存在していたところであり、それは上にみる「出雲臣之祖淤宇宿禰」の本拠地であった場所と考えられます。
「応神」死去後「仁徳」が即位する以前の段階で、「屯田」及びそれと関連する「屯倉」についてもその管理が「出雲」に主体があったこととなるわけです。
「屯田」は「軍事拠点」でもあり、「兵士」が耕作しながら、外敵との対応をするという軍事上の目的のために設置されたものであり、基本的には「京師」から遠く離れた場所に造られるものです。そう考えると「倭の屯田」という存在そのものが「倭」という地域の「地方性」を示しているものですが、「倭」というものがこの時点で「近畿」付近を指すとすると、「出雲」を中心とする軍事勢力がこの地域に拠点を構えていたことが推定されることとなります。
ところで、上の「屯田」に関するトラブルを記した記事では、その詳細を知っているのはその地域を以前から治めていた「倭(山跡)直」の兄弟であるとされています。
つまり「地域」としては「倭(山跡)直」が治めているものの、そこにある屯田は「出雲臣」が管理しているということとなり、その地域を治めていた勢力であっても「屯倉」や「屯田」は「王権」に直結しているため、自由にはならないものであることが、別の勢力により管理されているという実態からもうかがい知ることができます。
「倭(山跡)直」は「屯田」を管理していないものの、(当然ながら)関連する諸事情を知っていたものです。
それに対し「屯田司」として書かれている「出雲臣」及び「皇太子」である「大雀」は知ってはいなかったとされています。これは彼等が「後発勢力」であることを示すものといえるでしょう。
つまりこの段階では彼等は「垂仁」時点の記憶が失われていることとなり、関係性に「断絶」があることとなります。これは「屯田」の帰属をめぐって「王権」の内部で混乱がある事を示すものであり、「垂仁」以降「応神」までの間に「倭国」の「主権」を失う出来事があったためではないかと推察されるものです。そして「応神」時点で「倭」の「屯田」と「屯倉」を抑えたものの、その所有関係が曖昧になっていたものと思料されます。
当初王権に帰属していたものも、その王権の統治が「希薄」になると「地場」の勢力がそれを「私物化」するのは当然でもあります。そして、上の記事はそれを「奪取」(ないしは奪還)した段階のエピソードといえるでしょう。そして、その時点において「出雲」が主体的に関わっていることが重要です。
こう見てくると、「彼等は」(「出雲」勢力や「大雀」など)はいわゆる「天下り」した勢力であると見られるのです。
既に見たように「応神」や「神功皇后」が「六世紀末」の実在の人物であるとすると、その時点から見ると「垂仁」は「五世紀半ば」付近の人物と推定されると共に、「出雲」が「倭(山跡)」へ進出したのもやはり「六世紀終わり」頃と云うこととなり、「天下り」に同行したことが推定されます。
しかし、こう考えると、一見「垂仁紀」の以下の記事とやや矛盾しているといえるかもしれません。
「垂仁卅二年秋七月甲戌朔己卯。皇后日葉酢媛命一云。日葉酢根命也。薨。臨葬有日焉。天皇詔群卿曰。從死之道。前知不可。今此行之葬奈之爲何。於是。野見宿禰進曰。夫君王陵墓。埋立生人。是不良也。豈得傳後葉乎。願今將議便事而奏之。則遣使者。喚上出雲國之土部壹佰人。自領土部等。取埴以造作人馬及種種物形。獻于天皇曰。自今以後。以是土物。更易生人。樹於陵墓。爲後葉之法則。天皇於是大喜之。詔野見宿禰曰。汝之便議寔洽朕心。則其土物。始立于日葉酢媛命之墓。仍號是土物謂埴輪。亦名立物也。仍下令曰。自今以後。陵墓必樹是土物。無傷人焉。天皇厚賞野見宿禰之功。亦賜鍛地。即任土部職。因改本姓謂土部臣。是土部連等主天皇喪葬之縁也。所謂野見宿禰。是土部連等之始祖也。」
つまり、「垂仁天皇」の皇后(日葉酢姫)が亡くなったとき「出雲」の「野見宿禰」の進言により、彼が連れてきた「土師」集団による埴輪造りが始まったとされているのです。
この「埴輪」の例は「筑紫」中心説話の転用と考えられ、この時の土師氏の集団は「筑紫」(あるいは「筑後」から「肥後」にかけての領域)にやってきたものと見られます。「筑紫」付近で「埴輪」が見られるのは「五世紀末から」六世紀初めの短い期間だけであり、これは「垂仁」の実際の統治期間を示唆するものといえるでしょう。そして、その際に「野見宿禰」及び「土師氏」が強く関わっているのが判る訳ですが、彼等はいずれも「出雲」の勢力であり、この時点から「出雲」は「王権」と深く関係するようになったのが判ります。そうであればこの時代に造られた「屯田」について、その「所有」の大義名分がどこにあったかということについて「出雲」勢力が何も知らなかったというのは考えにくいこという事も言えるかも知れません。
「出雲」関係者がその後も「屯田」の管理に深く関わっていたらしいことは、以下の『天武紀』の記事で「屯田司」として「土師氏」(土師連)が出てくることでも推察できます。
「於此時、屯田司舎人土師連馬手、供従駑者食」(『日本書紀』天武元年)
しかし、「屯田」が「京師」から遠く離れた「畿外」の場所に造られるものであるとすると、「出雲」関係者は当初「王権」の近くにいたため、「畿外」のことまでは把握していなかったと云うことも考えられるでしょう。
「天下り」時点以降「出雲」も「東国」への勢力拡張を始めたという可能性も考えられ、そうであれば「詳細」を知らなかったとしても不思議ではないのかも知れません。
また、この時の「屯田」をめぐるトラブルは、「倭(山跡)直」の弟を「韓国」から呼び返し事情を聴取した結果、「是時、勅旨、凡倭屯田者、毎御宇帝皇之屯田也。其雖帝皇之子、非御宇者、不得掌矣。」という言辞を得て、「屯田」の権利を「皇帝」のものにすることに成功した訳です。
「屯田」も「屯倉」も「軍事」に関する施設ですから、「帝皇」に帰するのは当然ですが、このように「皇帝」(帝皇)の地位にあるものだけが「屯田」と「屯倉」を自分のものにすることができるというような、一種の「概念」的解決策が示されているのは、「改新の詔」の前触れともいえると思われます。
つまり、「屯田」も「屯倉」も含めた全てについて「皇帝」の元に一元化するという行動のいわば「前段階」ともいえる事実を記したものといえると思われます。
(この項の作成日 2013/05/15、最終更新 2015/02/28)