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「哭」儀礼について


 いわゆる「九州年号」の中に「系統」を異にすると思われる年号とおぼしきものがあります。その中に「始哭」というものがあり、「正木氏」によってこれが「葬送儀礼」の倭国における始まりであるとされました。(※)
 その推定年次は「五八九年付近」とされていますが、この周辺の『書紀』の記事には「哭」が「儀礼」としておこなわれたものが見あたりません。
 『書紀』では「哭」が「葬送」の儀礼として始めてみられるのは『孝徳紀』であり、「蘇我蝦夷」「入鹿」親子について「墓」への埋葬と共に「哭」の儀礼を行ってよいという許可が出た記事がそれにあたります。

(六四五年)四年…六月丁酉朔甲辰。…是日。蘇我臣蝦夷及鞍作屍許葬於墓。復許哭泣。」

 そこではいわゆる「乙巳の変」の際に殺された「入鹿」と父である「蝦夷」の死骸を「墓」に埋葬することを許すと共に「哭泣」することも許可するというわけであり、この時点ですでに「哭泣」が「葬儀」にあたって欠かせぬ「儀礼」となっていたことが知られます。
 同様の例は「阿倍大臣」が亡くなった時点においても確認できます。

(六四九年)大化五年…三月乙巳朔辛酉。阿倍大臣薨。天皇幸朱雀門擧哀而慟。皇祖母尊。皇太子等。及諸公卿。悉隨哀哭。」

 ここでも「葬儀」の一環として「天皇」自らが「擧哀而慟」つまり「慟哭」しており、以下のものも全て「哀哭」していますから「国葬」の意義があったものでしょう。「朱雀門」に出御したということも、また諸公卿等が一斉にそれに付き従ったという内容からもそれはいえることであり、「阿倍大臣」の遺体が「朱雀門」から「墓」へと運ばれていったことを推定させるものです。
 ただし「哭」そのものは「葬送」に関するものとして「神代」から行われていたものですが、あくまで「習俗」としてのものであり、「国家」の「儀礼」という形で定められたのが「六世紀末」であったものと思われますが、このような「儀礼制度」が定められたということにもやはり「隋」との交流の影響あるいは効果というものが現れていると思われます。

 ところで、この二つの例では「殯」が行われていません。「蘇我親子」の場合はともかく「阿倍大臣」についても「殯」が行われた形跡がありません。それはこの直前に出された「薄葬令」の中で「王以下」について「殯」を営んではならないという規定があったことが理由としてあったものと思われます。

(六四六年)大化二年…三月癸亥朔…甲申。詔曰。…凡王以下及至庶民不得營殯。…」

 これによれば「王以下」(当然「大臣も」含む)のものは「殯」を営むことはできないこととなりますが、「墓」は「上臣」(つまり「大臣」)の場合「五日間」で作るようにとされていて、その「五日間」は「殯」の儀式はないまま「遺体」をいずれかに安置した状態を継続することとなるでしょう。
 「殯」は古典的な習俗であり、「蘇生」を願う「霊(魂)振り」、「魂」の安寧を願う「霊(魂)鎮め」というような段階を踏みながら、各種儀礼を行うものであったわけですが、そのような旧式の祭祀を拒絶したのがこの「薄葬令」であると思われます。では「遺体」に対して「埋葬」まで何もせずただ「安置」していることとなったのかというとそうではないと思われ、可能性としては、生前から既に作られていた「墓」へすぐに埋葬することとなったということが最も考えられるところでしょう。それはここでも死去した日付と「哭」した日付が同一のように受け取られることからもいえることです。
 この時点では彼らに対しては「殯」が禁止されていたことを考えると、死去後すぐに(日をおかず)「埋葬」つまり「葬儀」となったものと思われます。

 手順としては「生前」の段階で「後継者」を決め、その時点でそれが「王権」に報告され、「墓」を作る許可が下りるというような流れではなかったでしょうか。つまり「墓」は生前から既に作られていたということが最も考えられるものであり、彼らの「後継」となるべき人物も既に決まっていたものと考えられることとなります。「蘇我蝦夷」の場合はそれが「入鹿」であり、「阿倍大臣」の場合は『書紀』や『公卿補任』からは不明ですが、ひょっとすると「阿倍御主人」であるのかもしれません。
 彼は旧姓「布施」とされ、元々「阿倍」ではなかったわけですが、どのようないきさつで「阿倍姓」を名乗ることとなったのかについてはまったく記事がなく不明となっています。しかし「姓」というものは勝手に名乗ったり変えられたりはできず、「王権」から賜与される性格のものであったはずでから、「王権」がこの「改姓」に関与していなかったとは考えられません。(またこれを復姓と見る向きもあるようですが、『公卿補任』では明確に「本姓」とされていますから「物部弓削守屋」のような「母方の姓」などを混じえるような、いわゆる「復姓」とは異なると思われます。)
 詳細は不明ですが、彼の場合は「布施氏」から「養子」縁組みで「阿倍氏」へ編入されたというような可能性が考えられるでしょう。そのような状況は「直系相続」が後継者選定において第一に考慮されていたとすると、「男子」が生まれないという場合、最後的には「養子」という手段しか残っていないというケースもあったものと思われます。この時代「臣下」でも「複数」の夫人を持つことは珍しくはなかったとは思われますが、必ず「男子」に恵まれるとは限らず、そのような場合「家督」を継承する人物の確保は重大問題であったと思われるわけです。
 このようにして「家督」の相続者が決まり、「墓」が生前に作られるというようなことは、かなり以前から行われていたものと見られ、「磐井」のころから始められたものではないかと考えられるものです。


(※)正木裕「九州年号の別系列(法興・聖徳・始哭)について」『古田史学会報』第一〇四号二〇一一年六月


(この項の作成日 2015/06/03、最終更新 2015/06/04)