ホーム:倭国の六世紀:「阿毎多利思北孤」王朝:「阿毎多利思北孤」とはだれか:阿毎多利思北孤の業績:第一次「改新の詔」について:

「周礼」と「改新の詔」


 中国古代の「礼制」を記した書である『周礼』によれば、「天子」の自称と「京師」を構築すること、そして、「畿内」を設定することはいわば「セット」とされています。
 この『周礼』の影響は大きく、歴代の中国王朝においてもかなりの影響の元に京師や畿内が設定されていると考えられます。
 もちろん『周礼』は「理想型」を示しているだけですから、全ての中国歴代王朝の「京師」や「畿内」が『周礼』の「完全に」基づいているというわけではありませんが、これを「念頭に入れつつ」構築していると考えて問題はないでしょう。 
 それが特に「明確」なのは「北魏」以来の「北朝」です。特に「北周」はその「国号」に「周」という「国名」を使用していることからも分かるように「周」の古制に復帰し、『周礼』に基づき「統治」を行なうということを「国是」としていました。(ただし、『周礼』に全て基づこうと試みたものの、現実にそぐわない部分もあり、早い時期に改められた部分はあったものです。)
 「倭国」においても、この「北周」からさほど時期の離れていない時点付近で『周礼』によると思われる現象が記録される事となったのは偶然ではないと思われ、何らかの影響が「倭国」に及んだという可能性があると考えられます。
 また「隋」はその「北周」から「禅譲」を承けて成立した国であり、『周礼』に基づく国家体制は(直接は)継承しなかったものの、かなりの影響が「隋」にも遺存したものと見られます。「倭国」は「隋」に至って、正式に「使者」を送り、「隋」の各種の制度を取り入れることとなったわけですが、「根本」に据えたのは『周礼』であったと思われます。

 その『周礼』によれば「天子」(皇帝)の所在する場所は「京師」(都)であるとされ、そこは「羅城」で囲まれた中に「坊」で区画された領域を設定し、それを「京師」として、「皇帝」の「都」とするということが示されています。いわゆる「都城制」です。
 そして、その「京師」を中心として「方千里」を「畿内」として「皇帝直轄領域」とするように設定することが決められていたものです。
 これを踏まえて「改新の詔」を眺めると、そこでは確かに「京師」、「畿内」というものを構築し、設定していることが判ります。

「(大化)二年春正月甲子朔。賀正禮畢。即宣改新之詔曰。…
其二曰。初修京師。置畿内國司。郡司。關塞。斥候。防人。騨馬。傳馬。及造鈴契。定山河。凡京毎坊置長一人。四坊置令一人。掌按検戸口督察奸非。其坊令取坊内明廉強直堪時務者死。里坊長並取里坊百姓清正強■者充。若當里坊無人。聽於比里坊簡用。凡畿内東自名墾横河以來。南自紀伊兄山以來。兄。此云制。西自赤石櫛淵以來。北自近江狹々波合坂山以來爲畿内國。…」

 さらに「関塞」「斥候」「防人」が定められていますが、これらは「京師」の周囲を防衛する軍事態勢を示すものであり、このことから、この「改新の詔」を出した「人物」(倭国王)は「天子」の位置に自らを置いていたということを意味すると考えられ、その「天子」としての自覚が「京師」「畿内」を設定する動機となっていると思われます。

 ところで「天子」の自称は『隋書俀国伝』によれば(すでに示したように「開皇年間」のことであったとみられますが)「隋」へ派遣された「遣隋使」(これは小野妹子か)が携えていた「倭国王」からの「書」に書いてあったものであり、当時の「倭国王」である「阿毎多利思北孤」が自称したということが判ります。

『隋書俀国伝』
「大業三年、其王多利思北孤遣使朝貢。使者曰 聞海西菩薩天子重興佛法 故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法。其國書曰 日出處天子致書日沒處天子無恙云云。帝覽之不悅 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者勿復以聞。」

 既に見たようにこの記事(言葉)は本来「隋」の「高祖」(文帝)に向かって出されたものと見られ、本来の年次はもっと以前(六世紀後半か)のことと考えられますが、そこで「阿毎多利思北孤」は「天子」を自称したとされています。この「天子」を自称したという状況から考えて、彼によって「京師」が構築され、「畿内」が設定されたとして何ら不思議ではないことを示すものです。それはすなわち、彼が「改新の詔」を出したとしても不自然ではないということとなるでしょう。
 このことは一般に考えられている「改新の詔」そのものと、それが出された「年次」に対して「強い疑い」が生じることとなります。
 つまり「改新の詔」はもっと以前に出されたものではないかと考えられることとなりますが、その時期を推定するのに考慮すべきなのは「郡県制」の記述です。
 「郡県制」は「文帝」の時代に「州県制」に変えられ、さらに「煬帝」の時代になって旧に復して「郡県制」が復活したものです。その流れに即して考えると、「倭国王権」が「隋制」の導入に積極的であったことを踏まえると「改新の詔」は「煬帝」の「郡県制」復活時期以降のものと考えられ、「六〇七年」以降が最も措定されることとなります。
 
 「改新の詔」が出され、そこでは「京師」が創設され、「畿内」が設定された訳ですが、また「詔」の中では明確に「条坊」についても記述があり、そこが「条坊制」に基づく都市であることが明記されているわけです。ところで、国内で「条坊」が確認される最古の都市は「太宰府」ですから、「改新の詔」の舞台は「筑紫」であったこととならざるをえません。ここに「京師」が構築され、そこを中心として「方千里」の地に「畿内」が設定されたとみなさざるを得ないのです。
 しかし、「改新の詔」で示された「畿内」の「四至」の範囲は明らかに「現在」の「近畿地方」をその範囲に含んでいますから、この「六世紀末」という時期に「筑紫」を中心地として設定されたものとは異なることが判ります。
 このことは「改新の詔」が「孝徳朝期」つまり「七世紀半ば」という時期に設定されているという事からもわかるように、「七世紀初め」の「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」による「改新の詔」を、その本来の位置から移動させ、主体を入れ替えて「換骨奪胎」して利用していると推定できます。
 つまり、「七世紀初め」の時期に出されたものであることを「隠蔽」し、更にその「詔」を「利用」して「近畿」に「最初」に「京師」と「畿内」が設定されたように「見せかける」作業が行なわれたことを示しています。(ただし、「詔」自体はこの時点付近で確かに出されたものとは思われますが)
 このように「京師」「都」が「改新」の時点以前には存在していなかったと思われることは『古事記』の中に「京」「都」という語が現れず、「天皇」の「宮」名だけが書かれていることからも窺えます。その『古事記』の描写が「推古記」までしかないことからも「推古」の時代付近(以降)で「京師」「都」「畿内」などが設定されたものと思われ、また『古事記』が書かれることとなった契機がそのような時代の大きな変化の中に読み取れるものです。


(この項の作成日 2011/04/16、最終更新 2015/05/16)