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『書紀』の「彗星」観測記録について


 『書紀』には「彗星」記事があります。これらを見てみます。
 この記録群の中に「ハレー彗星」の回帰と思われる記事があります。
 「ハレー彗星」は約七十六年を周期として回帰を繰り返しており、中国の各種史料からは、紀元前からの回帰がほぼ全て観測されていることがわかります。『書紀』の以下の記事はその回帰を記したものと考えられています。

(書紀)
「(天武)十三年(六八四年)秋七月庚戌朔…
壬申(二十三日)。彗星出于西北。長丈餘。」

 この記事は中国の記録とも完全に一致しています。

「舊唐書 天文下 災異 星孛 彗部」
「文明元年(六八四年)七月二十二日,『西方有彗,長丈餘,凡四十九日滅。』」

「舊唐書 本紀 則天皇后 武? 嗣聖元年」
「嗣聖元年…秋七月…『彗星見西北方,長二丈餘,經三十三日乃滅。』」

 ところで、『書紀』や「中国」の記録で「彗星」を表す際には「彗星」以外に「星孛」とする場合と「長星」と書く場合とがあるとされます。
 『漢書』の「注」には「その違い」が記されています。

『漢書』本紀 文帝 劉恒 紀第四/八年
「八年夏,封淮南脂、長子四人為列侯。有長星出于東方。『文穎曰:「孛、彗、長三星,其占略同,然其形象小異。孛星光芒短,其光四出蓬蓬孛孛也。彗星 光芒長,參參如?彗。長星光芒有一直指,或竟天,或十丈,或三丈,或二丈,無常也。大法,孛、 彗星多為除舊布新,火災,長星多為兵革事。』」

 「後漢末」の人である「文穎」の注によると「(星)孛」、「彗(星)」「長(星)」はいずれも同じものであるが僅かに違いがあり、「(星)孛」は「光芒」(尾を指すか)が短く、「彗星」の「核」周囲が全体として「雲状」のものを言うようであるのに対して、「彗(星)」は「光芒」が長く、「箒」で掃くような形をしているというわけです。また「長星」は「光芒」が長く、時には「全天」に亘るほどのもので、「核」が「雲状」というより「中央集光」が強いものを言うようです。 
 しかし、『書紀』で「長星」と称される場合でも、中国側の記録では「星孛」として記録されているものがあります。

@「日本書紀舒明六年(六三四年)秋八月,長星見南方,時人曰彗星」

「日本書紀舒明七年(六三五年)春正月。彗星廻見干東。」

「舊唐書 本紀 太宗 李世民 下 貞觀八年(六三四年)」
「八月甲子,有星孛于?、危,?于?,十一月上旬乃滅。」 

「舊唐書 天文下 太宗 貞観八年(六三四年)八月二十三日,星孛干虚,危,歴干玄?,凡二十一日而滅」

(『新唐書』にも同記事が存在しています)

 これによれば、「中国側」史料には「星孛」と表記され、また「尾」についての描写もなく、このことから「彗星」とはいえず、まして「長星」とは考えられていないと思われます。また、「中国」側には「日の出前」(東)に移動した後の記録がないようであり、これらは「日本側」の記録とはかなり「矛盾」するともいえます。

A「日本書紀舒明十一年(六三九年)正月己巳,長星見西北,時日文師曰彗星也」

「旧唐書 本紀 太宗 李世民 下 貞觀十三年(六三九年)」
「三月乙丑,有星孛于畢、昴。」

「旧唐書・天文下唐太宗貞観十三年(六三九年)三月二十二日,夜,星孛干畢,昴」

(これも『新唐書』に同記事が存在しています)

 このAの場合は日本側の記録が正月であり、また「西北」とされていますから、「日没直後」と解されますが、「中国側」の記録では「三月」という時点で「畢,昴」に存在しているとされ、時期が異なります。
 この「畢」と「昴」は「牡牛座」の「ヒアデス」と「プレアデス」という「散開星団」のことですから、旧暦三月では日没時には既に地平線下に有るはずであり、これは『書紀』とは違い「日の出直前」の記事と考えられ、「太陽」を周回して反対側(東側)に移動したと推定できます。
 それは「畢」と「昴」という記事の並び方にも現れていると見られ、「畢」から「昴」へ移動したという表現であるとすると、太陽から遠ざかる方向で移動していると考えられますから、合理的です。
 また、そう考えると「太陽」から遠ざかるにつれ「尾」が短くなったと考えることもできそうですから、「長星」と「星孛」という表記の違いも説明できると思われ、これについては大きい矛盾ではないということもできそうです。

 また「彗星」と『書紀』で書かれている場合は「中国」側でも「彗星」として記録されています。

「(天武)十年(六八一年)
九月丁酉朔…
壬子。彗星見。」

「舊唐書」本紀 高宗 李治 下/ 永隆二年(六八一年)
「…九月丙申,彗星見於天市,長五尺。 冬十月丙寅朔,日有…」

 この場合「矛盾」はないようです。
 ところが『書紀』の「六八四年十一月」の記録では「長星」でも「彗星」でもなく、「星孛」という表現が使用されています。

「六八四年」十三年…
十一月戊申朔。…
是月。有『星孛』于中央。與昴星雙而行之。及月盡失焉。」

 これは「星孛」の『書紀』における「初出」です。しかも、この記録に相当する中国側の記録が全くありません。
 この「星孛」現象は当然一夜かぎりのものではありませんから、観測態勢が整っていたと思われる中国側の記録にその様なものがないのは「不審」です。
 といって、この「星孛」が「ハレー彗星」と同じものを指すとも考えにくいものです。
 「ハレー彗星」は前述したように「七月」から「九月」にかけて「北西」の空に見えていたとあり、このことから「日没後」の出来事と考えられ、その後見えなくなったように書かれていますから、これは「太陽」の反対側(東側)へ移動したことを示すと思われますが、「十一月」の「星孛」は「東」ではなく「太陽」の「西側」にあるようです。
 「昴」は前述したように「牡牛座」の星団ですから、南中が日没から一〜二時間後になって、「中央」(中天)に見えるようになるのは「十一月仲冬」つまり「冬至」の頃です。(「冬至」の基準とされていた時期もあるようです)
 この記録からいうと「冬」の日没後から夜半にかけてという絶好の観測対象時間に「中央」(中天)に見える「昴」と並んでいたというのですから、見間違えようがないと思われ、このことからこの「星孛」は「ハレー彗星」とは異なると考えられ、この観測記録の真偽については強く疑いが生じるものです。
 後で述べますが、この時代の記録は実際にはかなりの年数遡上するものと見られ、実際には「七世紀前半」のこととみられます。そう考えると、実際には「六三四年」のハレー彗星の記録と一致するという可能性も考えられるところです。目視で確認できた期間なども「中国側史料」と合致しており、記事内容全体として整合しているといえるでしょう。

 前述したように「ハレー彗星」は周期七十六年で周回していますから、この「六八四年」の76年前つまり六〇八年付近で出現していたはずです。しかし一般には天文観測の開始時期が六二〇年付近とされており、この時代日食記録も彗星記録も確認できません。しかし「元嘉暦」の使用期間はこの推古紀をはるかに遡上する時期が措定されていますから、当然「天文観測」も始められていたはずであり、「無観測」の状態は不審といえます。(延喜式の日の出・日の入り時刻が北緯33度地点の記録と見られることからもいえることです。)

 古賀氏によって『推古紀』の百済僧「観勒」に関する記事が実祭には120年遡上する可能性が考えられており、その意味ではこの「赤気」記事も年次移動の可能性を考えるべきでしょう。
 森博達氏の書紀区分によれば推古紀は「β群」とされ(雄略以降がα群とされる)、その直近の「β群」である『安康紀』と実際には連続していたという可能性も考えられ、五世紀後半「武」の時代ではなかったかと推定できますが、そうであれば「赤気」などもその時代の事と考えることができ、「彗星」も「日食」も「七世紀初め」にその観測時期を設定してみると齟齬があるというのも当然と言うこととなります。


(この項の作成日 2013/03/04、最終更新 2017/08/20)