ホーム:倭国の六世紀:「阿毎多利思北孤」王朝:「阿毎多利思北孤」とはだれか:阿毎多利思北孤の業績:第一次「改新の詔」について:

公地公民制について


 「改新の詔」の中では「中央集権国家」制定の象徴とも言うべき「公地公民制」を実施しようとします。

「(大化)二年春正月甲子朔。賀正禮畢。即宣改新之詔曰。
其一曰。罷昔在天皇等所立 子代之民處々屯倉 及別臣連、伴造、國造、村首所有部曲之民、處處田庄。仍賜食封大夫以上。各有差。降以布帛賜官人。百姓有差。又曰。大夫所使治民也。能盡其治則民頼之。故重其祿所以爲民也。…」

 ここでは、「天皇」から、「以前の天皇」の所有する「子代の民」と「各所の屯倉」及び「臣」「連」「伴造」「国造」「村首」の「所有」する「部曲の民」と「あちこちの田荘」を「罷める」と言うことが宣言されています。これは今まで「諸国」の王やその配下の豪族達の所有(私有)となっていた土地や人民を「倭国政権中枢」である「国家」(倭国王)に返還させ(というか取り上げ)「一元化」し、それを人民に割り当て、耕作を促し、土地の利用効率を上げて「税収入」を確保しようとしたものと推測されます。
 この「公地公民制」とそれに続く「班田収受」の制の実施を促進するため「戸籍整備」と「太陰暦」の導入とその普及が図られたようです。これらを有効に機能させることにより、「正丁」(二十歳以上六十歳以下の成年男子)がどこにどれだけいるのかが判明するわけであり、それは即座に「国家」としての「労働力」と「税収入」の算定を可能にします。本格的な「国家」というものを構築する上で必須と考えられる施策をここで実施されていくこととなったと考えられるものです。
 この「改新の詔」の「第一条」に酷似している「詔」が『天武紀』にあります。

「(天武)四年(六七五年)二月乙亥朔己丑条」「詔曰。甲子年諸氏被給部曲者。自今以後除之。又親王。諸王及諸臣并諸寺等所賜山澤嶋浦。林野陂池。前後並除焉。」

 このように、内容としてはほぼ同じであると思われ、「部曲」について廃止するとし、さらに「諸王及諸臣并諸寺等」の所有する「山澤嶋浦。林野陂池。」を返すように、というわけです。
 しかしここで「部曲」という用語が使用されていることは注目されます。
 この「部曲」は「部民」のことを指すものとされていますが、元来は「軍事編成」に関連する用語であり、「部隊」の各隊の編成における単位を示す用語でした。実際に「部曲」の使用例を『書紀』に検索すると、「安閑紀」を除けば『皇極紀』が最古の例です。(安閑紀は実年代が不審であり、参考とできないと思われますが、次代の「宣化紀」の「屯倉」の例から考えて「六世紀末」から「七世紀初め」という時期を想定すべきと思われます。)
 このことから考えて「軍制」が本格的に導入されたと考えられますが、この「軍制」と密接な関係があると思われる「評制」が施行されたのが「七世紀初め」と考えられる事から見ると、「部曲」の初出が遅いように見えますが、それは『書紀』の記事の配列時期に問題があると思われ、実際にはもっと早かったという可能性が考えられるでしょう。
 これは「改新の詔」に酷似しているものであり、そのことから考えても「七世紀初め」という時点で、「王権強化」が図られ、その時点で「部民」を「王権」に一元化するという方針を打ち出したものではないでしょうか。

 また、「改新の詔」が出されたその翌年には「品部」についても「接収」を行なう「詔」が出されています。

 「(六四六年)大化二年秋八月庚申朔癸酉条」「詔曰。原夫。天地陰陽不使四時相亂。惟此天地生乎萬物。萬物之内。人是最靈。最靈之間。聖爲人主。是以聖主天皇。則天御寓。思人獲所。暫不廢胸。而始王之名名。臣連。伴造。國造。分其品部別彼名名。復以其民品部交雜使居國縣。遂使父子易姓。兄弟異宗。夫婦更互殊名。一家五分六割。由是爭競之訟盈國充朝。終不見治。相亂彌盛。粤以始於今之御寓天皇及臣連等。所有品部宜悉皆罷爲國家民。其假借王名爲伴造。其襲據祖名爲臣連。斯等深不悟情。忽聞若是所宣。當思。祖名所借名滅。由是。預宣。使聽知朕所懷。王者之兒相續御寓。信知時帝與祖皇名。不可見忘於世。而以王名輕掛川野呼名百姓。誠可畏焉。凡王者之號。將随日月遠流。祖子之名可共天地長往。如是思故宣之。始於祖子奉仕卿大夫。臣連。伴造。氏氏人等。或本云。名名王民。咸可聽聞。今以汝等使仕状者。改去舊職新設百官及著位階。以官位叙。今發遣國司并彼國造可以奉聞。去年付於朝集之政者。随前處分。以收數田。均給於民。勿生彼我。凡給田者。其百姓家近接於田。必先於近。如此奉宣。凡調賦者。可收男身之調。凡仕丁者。毎五十戸一人。宜觀國々■堺。或圖。持來奉示。國懸之名來時將定。國々可築堤地。可穿溝所。可墾田間。均給使造。當聞解此所宣。」

 ここでは「粤以始於今之御寓天皇及臣連等。所有品部宜悉皆罷爲國家民」というように「現在の天皇」を初めとする臣や連が所有する「品部」について「国家の民」とする、という宣言を行っています。しかも、ここでは「今之御寓天皇」という言い方をしていますが、明らかに「詔」を出している本人ではない語り口であり、しかも「朕」ではないことに注意するべきでしょう。つまり「朕」である自分とは違う人物として「今之御寓天皇」というものが存在していると考えられる物言いであるわけです。
 このように「朕」である「倭国王」(帝)と、それとは別に「御寓」つまり「天下を治めている」人物であるところの「天皇」がいるとすると、「大化紀」にはそのような「統治体制」(パワーバランス)は存在していないと思われ、これは本来の時期とは「時代の位相」を異にするものです。
 そう考えると、この表現に合致するのは『隋書俀国伝』における「阿毎多利思北孤」とその「弟王」(「押坂彦人大兄」と「難波皇子」に投影されていると思われる)のような「兄弟統治」を典型とする関係を指す言葉だと考えられます。
 同様の例は他にもあります。

「大化元年(六四五年)秋八月丙申朔癸卯条」「遣使於大寺喚聚僧尼而詔曰。於磯城嶋宮御宇天皇十三年中。百濟明王奉傅佛法於我大倭。是時。羣臣倶不欲傳。而蘇我稻目宿禰獨信其法。天皇乃詔稻目宿禰使奉其法。於譯語田宮御宇天皇之世。蘇我馬子宿禰追遵考父之風。猶重能仁世之教。而餘臣不信。此典幾亡。天皇詔馬子宿禰而使奉其法。於小墾田宮御宇之世。馬子宿禰奉爲天皇造丈六繍像。丈六銅像。顯揚佛教恭敬僧尼。朕更復思崇正教光啓大猷。故以沙門狛大法師。福亮。惠雲。常安。靈雲。惠至。寺主僧旻。道登。惠隣。而爲十師。別以惠妙法師爲百濟寺々主。此十師等宜能教導衆僧。修行釋教要使如法。凡自天皇至于伴造所造之寺。不能營者。朕皆助作。」

 これは「改新の詔」に先立つものですが、この中では「凡自天皇至于伴造所造之寺。不能營者。朕皆助作。」という文章があります。「天皇」から伴造まで、「寺」を造っても営むことができないものは「朕」が助けてやろう、というわけですから、ここでも明らかに「天皇」と「朕」は「別人」であるわけです。この場合も同様に「七世紀半ば」という時代背景としては全くそぐわないものであり、これもやはり時代の位相がずれているといわざるを得ないものです。この場合も「兄弟統治」が具現している実態があったと見るべきであり、「朕」としては「押坂彦人大兄」という人物に充てられた「阿毎多利思北孤」、「天皇」は「弟王」である「難波皇子」に充てられた人物と考えられます。
 このように「朕」が「助ける」事ができるのは「朕」に「財力」があるからであり、それは後に「吉備皇祖母尊」の「貸稲」という形で所有していたものと推察できるでしょう。

 このように考えると、「六世紀終わり」から「七世紀半ば」にかけて段階を経て近畿以東の「諸国」を「倭国王権」の直接統治下に入れるための手続きが進行していたと考えられますが、これを別の言い方で言うと「郡県制」が施行されたことを示すと言えるでしょう。
 それまでと違って、「倭国」中央から「倭国」(つまり「列島」)の全体を(「近畿王権」も含め)「直接統治」するために「階層的行政制度」を構築し、同時に「諸国」の支配下にあった資産(土地や人、収穫物など)を全て「倭国王」の元に一元化するプロジェクトが進行したわけと考えられる訳です。
 以前の天皇の名前がついたものを止める、という事と「倭国王」が「直接統治」を行うという事には関係があり「天無雙日。國無二王。」(「天に日二つなく、國に王二人なし」)ということは、ただ「倭国王」だけが「王」である、という宣言であるわけです。「諸国」には「官」として「国宰」を「倭国王」から派遣すると言う形を取ったものです。「近畿王権」など「諸国」の王としての地位は、それによりいわば「否定」されることとなったものと考えられます。(彼らには別に「冠位十二階」制により「冠位」(爵位)が付与されたと考えられます)
 このようなことが起きたのは、ここに書かれた年次から大きく遡上した「六世紀末」ないし「七世紀初め」のことではなかったかと考えられ(干支一巡遡上するか)「阿毎多利思北孤」の「革命」の内容と重なると思わせます。

 ここで「諸国」の王に対して「倭国王」の直接統治を承認するよう迫った訳ですが、その後の経緯を見てみると「三野王」「河内王」など「諸国」に「封じられた」かのような人物が存在することに気がつきます。
 彼等は「国守」「国宰」「国司」など、言い方は違いますが、中央から派遣された官と並立してその国を治めていたものであり、この時点での「郡県制」は「国郡県制」であって、「諸国」のある程度の自治と財産所有が認められていたようにも見えます。これは「倭国王権」の「妥協」とも言えるでしょう。このような「妥協」が必要であったのは、東国において「諸国」の王達の結束した反対行動があったと推定される事と関連していると考えられます。

 「東国」では「六世紀末」に突然「前方後円墳」の築造が多発、連続します。隣接した地域の王達が競うように巨大な前方後円墳を築造する訳であり、これは「東国」諸国の王達の威信と協調を示すものと思われ、倭国王権に対する反発の表れであるとも思われます。これは東国に対して「惣領」を配置し彼等に倭国王権の代行をさせた結果の反映と見るべきですから、当時行なった「国評制」施行に対する反発であり、「皇帝」としての「警察力」や「軍事力」を前面に出しての直接統治というものに対する反発であったと思われます。
 これに関連して、「改新の詔」から三ヶ月ほど経過して「天皇」から下問に対して以下のような「皇太子」からの「奏上」が行なわれます。

 「皇太子使使奏請曰。昔在天皇等世。混齊天下而治。及逮于今。分離失業。謂國業也。屬天皇我皇可牧萬民之運。天人合應。厥政惟新。是故慶之尊之。頂戴伏奏。現爲明神御八嶋國天皇問於臣曰。其群臣連及伴造國造所有昔在天皇曰所置子代入部。皇子等私有御名入部。皇祖大兄御名部入部。謂彦人大兄也。及其屯倉。猶如古代而置以不。臣即恭承所詔。奉答而曰。天無雙日。國無二王。是故兼并天下。可使萬民。唯天皇耳。別以入部及所封民簡死仕丁。從前處分。自餘以外。恐私駈役。故獻入部五百廿四口。屯倉一百八十一所。」

 これは既に考察したように『持統紀』付近の出来事であると推定されますが、それはこの中に「朕」「今之御寓天皇」というような用語が現れず、「現爲明神御八嶋國天皇」と「皇太子」という組み合わせになっていることがあります。明らかに上に見る他の詔とは違ってその登場人物が異なるものであり、これらと同時期のものではないことが考えられる訳です。

 この詔を見ると「御名入部」は当然として、「屯倉」も本来天皇や皇子に直接かかわるものであることが明確です。またこれらの詔が「昔在天皇」たちの遺産としての「御名入部」と「屯倉」を継承する宣言して機能しているとみもみえます。当然「皇太子」という人物と「現爲明神御八嶋國天皇」という人物の間に親子関係がないのは明らかと思われ、ここでいう「皇太子」とは前天皇にかかわるものであることが推察されます。つまりここで倭国王という地位について通常ではない形の継承が起きたことを示唆するものといえるでしょう。「皇太子」が継承しなかったあるいはできなかったということから、ここで新王朝による王権の簒奪という事態となったものではなかったでしょうか。禅譲を装うために「皇太子」からの献上という形式を踏んだものと思われます。(皇太子も直接会わずに使者を差し向けており、両者の距離が離れていることを推察させるものですが、それは「筑紫」と「難波」という二個所での出来事であったという可能性もあるでしょう。)

 この文章は、やや理解が困難な部分もあり、最後の「故」にという理由を表す文章もそれ以前とのつながりがスムースではありません。何か「文章」が切り貼りされたような印象を受けます。そもそもこの文章全体として「改新の詔」の(一)と完全に「かぶって」います。
 内容的に見てもほぼ同一のことについてのやりとりであり、論者の中にはこちらが先に出されたもので、「改新の詔」が後であるという意見もあるほどです。


(この項の作成日 2011/04/26、最終更新 2016/07/23)