以上みたところから明らかなように、「阿毎多利思北孤」とは『隋書俀国伝』に登場する「倭国王」であり、「甲辰の年」つまり「五八四年」に「皇祖」と称された「押坂彦人大兄」が亡くなったのち、即位した弟王である「難波皇子」がその人本人と思われることとなりました。
彼は「五八九年」(己酉の年)に即位したものであり、その時点で「端政」と改元したものと思われます。そして彼が開いた朝廷を「難波朝廷」と称したのです。このときの即位の際に詠んだ歌が「なにはづ」の歌であり、以降彼を戴く後代の王たちは即位式には必ず「なにはづ」の歌を詠むという儀式を行うこととなったものと推測されます。
彼は即位すると兄王である「押坂彦人大兄」の「御名部」である「押坂部」(=「刑部」)をさらに活用し、「評制」を施行しその監督者に「評督」を仕立て、それに対する反対などを「刑部」を動員して封殺していったものと思われます。