『播磨国風土記』を見るとそこには「地名変更」に関する話が書かれています。たとえば「餝磨郡小川里条」には「ミマキのスメラミコト」の時に定められた地名を「上野大夫が宰であった」という「庚寅年」に改名した、と書かれています。さらにこの「庚寅年」という年次における「制度変更」により「里」名が変更されたものは他の地域にもあり、『播磨国風土記』には以下の記事があります。
「少宅里本名漢部里 土下中 所以号漢部者 漢人居之此村 故以為名 所以後改曰少宅者 川原若狭祖父 娶少宅秦公之女 即号其家少宅 後 若狭之孫智麻呂 任為里長由此 庚寅年 為少宅里」
つまりそれまで「漢部里」であったものが「少宅里」に変えられたことが記されています。
他にも『常陸国風土記』では「神郡」である「香島」の「編戸数」が改定される(減らされている)などの変更が行われたとされており、この時全国で大規模な、「現状」に対する見直しが進められていたものと考えられます。
このように「里名」などが変更されたり、編戸が改定されたりしていることの根源には「戸籍」の改定があったのではないかと思われ、「庚寅年籍」造籍という「戸籍」改定作業が深く関係しているものと推量されます。
この「庚寅」は通常「六九〇年」と考えられていますが、「六三〇年」ではないという積極的証拠はありません。もしこれが「六三〇年」であるとすると、後に述べる「富本銭」の鋳造や「高表仁」の来倭につながる「遣唐使」の派遣などとの関連が非常に濃くなると思われます。
ところで、『天武紀』には「大解除」(大祓)記事があります。
「(天武)五年(六七六年)…
八月丙申朔…
辛亥 詔曰 四方爲大解除。用物則國別國造輸秡柱 馬一匹 布一常 以外郡司各刀一口 鹿皮一張 钁一口 刀子一口 鎌一口 矢一具 稻一束 且毎戸麻一條。」
ここでは「大解除」のために「四方」つまり「畿内」以外の「諸国」に、「國別國造」に「大解除」(大祓)に用いる「柱」となるものを献上させていますが、そこに「別」と「造」がいることが注目されます。この文章の中の「国別国造」という部分の解釈は、「大系」の読み下しでも現代語訳でも「国ごとに」「国造が」という意味にとっていますが、「国造」が「国ごと」にいるのは当然であり、それでは言葉が冗長であり、重複しています。これは「国の別(わけ)と国の造(みやつこ)は」と訳すのが適当と考えられ、この段階で「国」を治めている職掌として「別」(わけ)と「造」(みやつこ)がいたことを示唆されます。
『常陸国風土記』の冒頭には以下のように記されています。
(以下の読み下し文は「岩波」の「日本古典文学大系『風土記』」に準拠します)
「常陸の國司解(げ)す、古老の相ひ傳ふる舊聞を申す事。
國郡の舊事(ふること)を問ふに、古老(おきな)の答へて曰へらく「古(いにしえ)は、相摸(さがむ)の國の足柄の岳(やま)坂自り東の諸の縣(あがた)は、惣(す)べて我?(あづま)の國と稱ひき。是の當時(とき)、常陸とは言はず、唯新治・筑波・茨城・那賀・久慈・多珂の國と稱ひ、各(おのおのも)造(みやつこ)別(わけ)を遣わして檢校(おさ)め令しめき。其の後(のち)、難波長柄豐前大宮臨軒天皇のみ世に至り、高向臣中臣幡織田連等を遣わして、坂より東の國を惣領(すべおさ)めしめき。時に我?(あづま)の道、を分れて八の國と為り、常陸の國、其の一つに居れり。」
つまり、「古」には「別」(わけ)と「造」(みやつこ)が遣わされていたが、「難波朝廷」の時代に「高向臣」等が派遣されてきたとされ、彼等により「国県制」が形づけられたとされています。このことからこの時点で「国別」「国造」は「廃止」されたと見ることができると思われますが、そう考えると、この『天武紀』の記事はその「難波長柄豐前大宮臨軒天皇の御世」の直前の「古」に属する期間の記事であると言うこととなります。つまり『天武紀』から遡上すること六十年ほどが推定される事となり、ここに書かれた「難波長柄豐前大宮臨軒天皇」(難波朝廷)というのが「利歌彌多仏利」を指す用語であると言うことを先に述べたわけですが、その「徴証」が存在していたことを示すと考えられます。
そのような推定は別の点からも確認できます。つまり上の詔を見るとそこに「祓柱」として「馬」が書かれています。これを単に「馬」を進上するという意義に現在の論者はとっているようですが、(この祓柱としての「奴婢」と「馬」については生贄ではなく「神奴」と「神馬」とされたという解釈もあるようですが、それであれば「土製馬」や「人形」であればよいわけであり、ここで「生身」の人と馬を要求している背景として彼等が実際に「神に捧げられる」ような儀式があったことを示すものであり、その意味でかなり前時代的であり、非仏教的であると思われます)「祓え」の意義からはそのようなものではなく、「馬」などを「生贄」として神に献じることで「罪」を清めようという本来の意義として書かれていると思われ、そのような趣旨として「大祓」の儀式が行なわれた事がわかります。しかし、「天武朝」と推定可能な遺構で「馬」が「生贄」とされたことが推定できるものは確認できていません。
「馬」を追葬したり「生贄」にするなどの遺構が確認できる年次の下限は「六世紀後半」から「七世紀前半」ぐらいまでとされており、そのこととこの「大解除」記事は整合しないこととなります。(だからこそ「馬」は単に進上したものという無理な理解がされるわけですが)
ところが、「難波宮殿」の下層からは大量の「馬」や「牛」の骨が出てきており、何らかの祭祀がそこで行なわれたことを示すとされています。この層は「難波宮殿」の「整地層」と考えられ、そこで「難波宮殿」の建設に関わる何らかの儀式が執り行われたことを示すものと考えられ、これは「七世紀前半」の遺跡と考えられますから、これであれば「整合」するといえます。
上の「詔」でも「用物則國別國造輸秡柱」とあり、「輸」という字が使用されていますが、これは「運ぶ」意の用字であり、各諸国から「馬一頭」を「運ぶように」という意と取ると、それはこの時点で「王都」に集められたと見られますから、その数は大量になったと思われ、それは「難波京」の下層から大量の「馬の骨」が出土することと整合するといえるでしょう。つまり、これらがこの時の「大解除」(大祓)に備えられた「生贄」ではなかったでしょうか。そう考えると、『天武紀』の記事にはかなり年次移動があると推定できるでしょう。
(この項の作成日 2011/11/16、最終更新 2015/10/04)