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「八十戸制」から「五十戸制」へ


 『隋書俀国伝』によれば「伊尼翼」という「里長」のごときものが治める戸数は「八十」とされています。

『隋書俀国伝』
「…有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。…」

 この文章を含む「開皇二十年」(六〇〇年)の条にある「上令所司訪其風俗」に続き「使者言」とある以降「大業三年」条手前までの記事は、全てこの「使者言」に掛るものと考えられます。
 ところで、すでに述べたようにこの「開皇二十年記事」と「大業三年記事」は本来の年次とは違う年次の項として記録されていると見られ、実際には「七~二十年」程度の遡上を考慮する必要があると考えられます。
 この「八十戸制」とおぼしき事が書かれた部分も「倭国」から派遣された使者が「唐」の皇帝(高祖「文帝」)から「風俗」を問われ、答えた中にあるものであり、「六〇〇年」をかなり遡る時点の(推定では五八七年)段階の「倭国内」のリアルな状況を推定させる史料と言えるでしょう。そうすると、この年次以前には「倭国」では「八十戸」を基本とする「戸制」が布かれていたと考えざるをえないこととなります。(ただし金石文などの史料はまだ発見されていません。)
 それに対し「五十戸制」が国内に施行されていたことは「木簡」によって明らかとなっています。そのうち最古と思われるものが以下のものです。
(以下木簡に関する情報は全て「奈文研木簡データベース」に拠ります)

 「乙丑年十二月三野国ム下評大山五十戸造ム下部知ツ従人田部児安」「石神遺跡出土木簡」

 この「木簡」は直接的資料として「乙丑年」には「五十戸制」が布かれていることを示しています。この「乙丑」という干支が示す年次については「六六五年」とする見解が大勢を占めますが、「遣隋使」による制度導入という経緯を考えると、その「遣隋使」が実際には「隋初」段階ですでに派遣されていたと考えられるわけであり、そのことから「干支一巡」(六十年)遡上した「六〇五年」であるという可能性についても考慮する必要があると思われます。

 また、『常陸国風土記』によれば「郡家」が遠く不便である、ということで「茨城」と「那珂」から「戸」を割いて新しく「行方」郡を作った際のことが記事に書かれています。

『常陸国風土記』「行方郡」の条
「行方郡東南西並流海北茨城郡古老曰 難波長柄豊前大宮馭宇天皇之世 癸丑年 茨城国造小乙下壬生連麿 那珂国造大建壬生直夫子等 請惣領高向大夫中臣幡織田大夫等 割茨城地八里 那珂地七里 合七百余戸 別置郡家」

 ここに書かれた「癸丑」という干支も「六五四年」という意見以外見られませんが、上と同様に「六十年遡上」した「五九四年」であるという考え方も可能と思われます。
 ここでは「茨城」と「那珂」から併せて「十五里(さと)」を割いて「行方郡」を作ったと書かれており、それが計七百余戸といいますから、これは一つの「里」が五十戸程度となります。このことからこの段階ないしはそれ以前に「五十戸制」が敷かれているとする見解が有力でしたが、以下の理由により、そうとは断定できないと考えられるようになりました(当方の見解を変更したものです)
 この分郡には複数の理由が考えられますが、「利便性」という観点だけで考えても、新しく建てられた「行方郡」はともかく「割譲」された「茨城」と「那珂」が小さくなりすぎては奇妙ですし、困ると思えます。これが「利便性」を優先したものでないことは「分郡」に当たって「理由」が示されていないことでも推測できます。通常「郡家」まで遠い等の理由が書かれているのが「分郡」ないしは「新設」の場合よく見受けられる訳ですが、この場合はそのような事は書かれていません。このことは「分郡」の理由がもっぱら「茨城」と「那珂」の人口増加にあったと見るべき事となりますが、そうであるとすると、この両郡は「割譲」後、スリム化されて基準(標準)値である「七五〇-八〇〇戸」程度まで「減数」されたと考えられることとなるでしょう。その場合両郡とも元々「千二百戸」ほどあったこととなり、これは「五十戸」制で考えると「二十四里」あったこととなります。
 「改新の詔」では「郡の大小」について書かれており、「四十里」を超える「郡」の存在も許容しているようですから、「二十四里」程度で分郡しなければならないという必然性はないこととなります。それに対し『隋書俀国伝』では「伊尼翼」十人が「軍尼」一人に属するとされており、その場合この「二十四里」というのは大きすぎると考えられるでしょう。組織上の問題もあるでしょうから、この段階以前に分郡されて然るべきものであったと思われ、ここに至って分郡するのは「遅きに失する」という状況ではなかったでしょうか。
 しかし、この時点で「八十戸制」であったとすると、両郡とも「十五里」程度となって『隋書俀国伝』に記された「十里」で一軍尼が管理するという基準より五割増し程度となりますから、この程度であれば存在としてあり得ますし、またその程度で「分郡」するというのも規模、タイミングとして理解できるものです。
 ここから各々七-八里引いて新郡を増設したとするとほぼ同規模の郡が三つ出来ることとなり、バランスとしても良くなるものと思われますし、標準的な「里数」や「戸数」となるものと思われます。つまり「五十戸制」として考えるとちょうど良くなるのは「偶然」であり、あくまでもこの段階では「八十戸制」であったと見られるわけです。
 このことからこの「癸丑」という干支の指し示す年次はやはり「六〇〇年以前」であるところの「五九四年」であるという推定が有力と思われます。

 この「五十戸制」がさらにどこまで遡上するのかが明確ではないわけですが、上に見た『隋書俀国伝』に記されている「八十戸制」とおぼしき表現からは、この時点で「五十戸制」であったとは考えるのは困難であることを示します。
 このことから「五十戸制」が施行される以前に「八十戸制」が施行されており、それが『隋書』の解析から「六〇〇年」以前とは考えられますが、「隋制」に基づくとすると「隋」との国交が開始されたと見られる「開皇年間」つまり「五八〇年代」以降であることもまた確かであるわけです。
 上に見たように「木簡」からは「六〇五年」段階ではすでに「五十戸制」となっていると考えても不自然とは言えず、「遣隋使」が「六世紀末」(開皇年間)に派遣され、その帰国後すぐに「制度」が改定されたことが示唆されます。
 つまり、「隋初」段階で「遣隋使」が派遣され、彼らが「隋」の諸制度を持ち帰り、それは「間を置かず」導入されたと考えられることとなります。そのような中に「国県制」があったものであり、また「五十戸制」も導入したと考えるのは自然な事です。(そもそも「使者」を派遣する意義が「制度」等の研究であることを考えると、それらを学んで帰国してから数十年も施行されなかったとするとそれこそ不自然であり、不審なことではないでしょうか)

 「隋」「唐」の行政制度の末端には「里制」と「村制」の二つがあり、「里制」は元々「漢制」にあったものですが、「隋・唐」のような「鮮卑族」が主体となった王権では元々はなかったものであり、租税徴集のために「人工的」に組織されたとみられ、戸数は「百戸」と決められていました。それに対し「村制」は「北朝」では以前からあったものであり、「自然発生」した集落をそのまま「制度」として組み込んだものであり、これはおおよそ「五十戸」程度あった模様です。
 「遣隋使」からこのような「隋」の制度の詳細を知った倭国では、これらの制度を模倣し、導入するにあたって、人口密度等の違いもあり、「里」としての「百戸制」ではなく、「村」としての「五十戸制」を導入したものと推察されます。 つまり「国-県-村」という階層制度がこの段階で構築されたものと見られるわけです。
 そして、これは後に「格上げ」され「里」として変更されたものと見られます。

 また『播磨風土記』に「上野大夫」という人物が「三十戸」を「結」んだと言う記事があります。

「越部里旧名皇子代里 土中々 所以号皇子代者 勾宮天皇之世 寵人但馬君小津 蒙寵賜姓 為皇子代君而 造三宅於此村 令仕奉之 故曰皇子代村 後至上野大夫結三十戸之時 改号越部里 一云 自但馬国三宅越来 故号越部村…」

ここに出てくる「上野大夫」は同じく『播磨風土記』に「庚寅年」に事跡が書かれている人物でもあります。

「少川里高瀬村豊国村英馬野射目前檀坂御立丘伊刀島 土中々本名私里 右号私里者 〓志貴〓島宮御宇天皇世 私部弓束等祖 田又利君鼻留 請此処而居之 故号私里 以後庚寅年 上野大夫為宰之時 改為小川里 一云 小川 自大野流来此処 故曰小川」

 つまり「三十戸」を結んだという時点も「庚寅年」付近の年次が想定される訳ですが、この「三十戸」を結ぶというのが何を意味するかというのは「八十戸制」から「五十戸制」への変更ということを考えると判りやすいものであり、旧来の「八十戸」を「五十戸」体制にしようと思えば「半端」の「三十戸」が出てくるのは避けがたいものであり、隣接して他の里や村があればそちらの合体させることも可能でしょうが、孤立していた場合は「三十戸」の村(ないし里)ができてしまうこととなります。
 この『播磨風土記』の記事がそのことを示すとすれば、「庚寅年」という干支の示す年次は「六九〇年」ではなく、「六三〇年」を示すものであるという可能性があることとなります。この年次付近である種の改革が行なわれたという可能性を示唆するものと言えるでしょう。
 そのことと「六三〇年」に行なわれた「遣唐使」派遣という事業がリンクしているという可能性が考えられる事となります。後でも述べますが、この時点で「日本国」王権へ禅譲されたものであり、国内的制度改革などの事業を行なったことを裏付けとして「唐」との関係を再構築する考えでいたのかも知れません。

 これら『隋書俀国伝』に示された「官職制度」や「戸数制度」については明確な「国内資料」(「金石文」、「木簡」)などがいまだ発見されず、「五十戸制」の始まりの時期と共に「八十戸制」の詳細は「不明」となっているわけですが、「隋」との関係についてもっと早期に構築されていたと言うことが強く推定されることとなったわけであり、「五十戸制」の開始が「六世紀代」まで遡上すると考えることに支障はなくなりました。つまり、この「五十戸制」が「六世紀末」という時点で「阿毎多利思北孤-利歌彌多仏利」の時代に行われた「諸改革」の一環であったと考えることにそれほど不自然はなくなったわけです。

 ところで、『皇太神宮儀式帳』には「八十戸制」とおぼしき表現が出てきます。

(『皇太神宮儀式帳』)
「難波朝廷天下立評給時、以十郷分、度会山田原立屯倉、新家連珂久多督領、磯連牟良助督仕奉。以十郷分竹村立屯倉、麻績連広背督領、磯部真夜手助督仕奉。(中略)近江大津朝廷天命開別天皇御代、以甲子年、小乙中久米勝麿多気郡四箇郷申割、立飯野(高)宮村屯倉、評督領仕奉」
 
 さらに『神宮雑例集一伊勢国神郡八郡事』には「飯野多気渡会評也」とあり、「己酉の年を以て始めて度会郡を立つ」とあります。(同書には「評ハ郡ノ誤。評ハ郡ノ俗字也」という注がついています。)

 上の資料を見ると「十郷」で一つの屯倉に充て、そのために「督領」を置いたとされていますが、前記したように『隋書俀国伝』においても、その後の「評」の制度等においても戸数としては「七百-八百戸」程度あったと考えられるわけですから、「一郷」は「七十-八十戸」程度あることとなり、これは上に見る『隋書俀国伝』に言う「八十戸制」と強い関連が考えられるものです。そう考えるとこの「己酉」という干支は「六四九年」ではなく「五八九年」であるという可能性が高いといえるでしょう。(つまり「五八九年」ではまだ八十戸制であったと言うわけです)


(この項の作成日 2013/05/04、最終更新 2015/04/07)