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「国宰」の成立について


 倭国における行政制度については『隋書俀国伝』の記事から判断する事も可能です。つまり「国宰」という職掌の発生については「隋使」が「来倭」したとされている「開皇二十年」段階以降であると推測することも可能と思われるわけです。(この実際の年次については二十年ほど遡上することが推定されます)
 この『隋書俀国伝』には「国宰」以前、つまり「国造」の治める「クニ」が多数国内に分立している時代のことが描写されていると考えられ、その後、これらの状態から進展して「行政制度」の「再編成」が行われたと考えられますが、ここで「行政制度」再編成に応用された制度は「国県制」であったと思料されるものであり、この制度のモデルとなったものは「隋代」の州県制であると思われます。
 「隋代以前(つまり「隋」の高祖が皇帝の座につく前)には「魏晋」以来の「国郡県制」であったものであり、それを「隋代」になって「県」を「国」が「直轄」するように変更したものですが、これは彼の後継である「煬帝」によってすぐに「郡」が再度復活することとなりました。この「制度」の変遷を考えると「国内」に「国県制」が導入されるのは「遣隋使」による情報以外にはないと考えられ、そうすると「行政制度」改定時期は、「遣隋使」が帰国した時点からそう遠くない時期であることを推察させるものです。そう考えると「難波朝廷」の時代や、ましてや「天武朝」などでは余りに遅すぎるものであり、「制度」として「反映」させるのにそれほどの「時間」がかかったと想定するのは「恣意」に過ぎると言うものです。これは派遣された「遣隋使」の帰国後十年以内程度に改定が行なわれたものと推察するのが「自然」な理解というものであり、「遣隋使」の帰国がいつ行なわれたかは定かではありませんが概ね「派遣期間」として十年程度を想定するべきでしょうから、「隋」から「唐」に変わってすぐ程度の時期に帰国したというのが下限の時期と思われます。

 そもそも「僧」などとは違い、「制度」等を学ぶのが与えられた使命の人間ならば、その学んだ制度を国内に適用・応用するという段階まで進めて当然であり、そうであれば可及的速やかな帰国が彼や彼等に求められていたと見るべきであり、十年程度以上の滞在はその派遣趣旨から多くはずれるものと思われます。
 つまり、この『隋書俀国伝』記事からは、「広域行政体」としての「国」が成立し、その「主」(責任者)として「国宰」という「官僚」が任命・派遣されるようになったのは「七世紀前半」という時期しか想定できない事を意味するものであり、それは上で行った想定とも合致すこととなります。
 
 ところで「国宰」という表記は『書紀』にはありませんが「宰」単独ならば『神功皇后紀』と『敏達紀』に存在します。

「十二月戊戌朔辛亥(中略)一云,禽獲新羅王詣於海邊,拔王?筋,令匍匐石上,俄而斬之埋沙中.則留一人為新羅宰而還之. 」(仲哀)九年

ここでは「新羅」に残してきた「留守居役」のような立場の人物について「宰」と表現されています。

「夏五月癸酉朔丁丑。遣大別王與小黒吉士。宰於百濟國王人奉命爲使三韓。自稱爲宰。言宰於韓。盖古之典乎。如今言使也。餘皆倣此。大別王未詳所出也。
冬十一月庚午朔。百濟國王付還使大別王等。獻經論若干卷并律師。禪師。比丘尼。咒禁師。造佛工。造寺工六人。遂安置於難波大別王寺。」(敏達)六年(五七八年)

 この記事では「百済」への使人を「宰」と称したと書かれており、これを『書紀』編纂者の「注」では「古之典」にあるものであり、今は「使」というと書かれています。
 これらの「宰」の用例は「百済」や「新羅」という「半島」の「諸国」に対する「倭国王」の「代理者(代弁者)」という意味があると思われますが、これを「拡大解釈」して「国内」にも適用したというのが「国宰」ではなかったかと推察されます。
 一般に「国宰」が「一時的」に派遣される立場の官僚であり、「常駐」ではなかったという理解がされているのは、このような用例から帰納したものであると考えられますが、しかしそのような「古之典」の用法から「脱却」したのがこの「七世紀前半」ではなかったかと推察されるものです。
 それについて念頭に置くべきものとして「牧宰」があります。「漢代」以来「牧宰」と「刺史」は「州」の長官を意味するものであったものであり、軍事権のあるなしで名称が異なっていたとされています。
 『隋書俀国伝』においても「軍尼」という「官職」名について「牧宰の如し」と書かれています。
 「倭国」は「行政制度」の改定においても「隋」を模範としたと推定されるものであり、そこに「牧宰」とその職掌が共通していると考えられる「役職」が「国宰」という名称で制定されたと考えるのはそれほど不自然ではないと思えます。
 この「牧宰」は基本的に「常駐」するのが普通であり、臨時に派遣されるような役職ではありません。「国宰」がこのような「牧宰」との類似からの発想で定められたとすると、同様に「臨時」の役職ではなかったという可能性が高いと思料され、「古之典」にある「宰」が遺存したというより、それに「新しい意味」が吹き込まれたのが「七世紀」の初めのことであったと思料されるものです。


(この項の作成日 2012/07/16、最終更新 2016/08/27)