「二〇〇八年四月」に旧百済の地である、「韓国」双北里の農耕地である木簡が発見されました。それはその後解析によって「貸稲制度」に関するものであることが明確になりましたが(そこには「貸食」とあった)、そこに「戊寅年」という表記があり、共に発掘された土器から見て「六一八年」より新しくはないだろうとされています。(※)
このような「播種期」に穀物を貸与し、「秋収期」に元本と利子を回収するという制度は古くからあるとされますが、それが「百済」の地で実際に「官」が主体となって機能していたことが明らかとなったわけです。
このような制度は、後の朝鮮時代には「還穀」と呼ばれたものであり、それと同じものが「百済」の時代に存在し「貸食」と呼ばれたことが確認されたのです。
「倭国」の例では『孝徳紀』の「改新の詔」に「貸稲」という表現が出てきますが、明らかにこの制度との共通性が考えられるものです。
この「貸稲」の制度は『養老令』下では「出挙」と名が変わったものの、その『養老令』に規定された「出挙」の利息などの記載とこの木簡に記載された内容が合致しており、制度の根本が共通であったことを示しています。
このことから「日本側」の制度と「百済」の制度とが関連しており、相互の交流の結果であると理解するべきという論調があるようです。たしかにそれはその通りと思われますが、その際問題になるのは『書紀』の記述の年代ではないでしょうか。
『書紀』で最初に「貸稲」に関する記述が出てくるのは『孝徳紀』の「六四六年」であり、「東国朝集使」の報告に対する応答の中で出てくるのが初見です。(但し、ここではそれが始めて適用されたというような文脈ではないことに注意すべきでしょう。)
「(六四六年)大化二年三月癸亥朔辛巳条」「詔東國朝集使等曰。…宜罷官司處々屯田及吉備嶋皇祖母處々『貸稻』。以其屯田班賜群臣及伴造等。又於脱籍寺入田與山。」
「百済」における「貸稲」の制度の時期と内容から考えて、それに深く関係していると思われる「日本側」の制度に関する記述が、このように『孝徳紀』というかなり遅れた時期に登場する理由が必要となるでしょう。
このような情報がもし「百済」から「倭国」へと伝来したなら、『孝徳紀』にそれが採用されるまで数十年要するということは考えにくいと思われます。
この当時「倭国」は別に「鎖国」をしていたというわけではありませんし、「百済」との間には通常の儀礼の範囲ではあったものの、使者が往来していましたから、文化や制度についての情報が途絶していたないしはそのことに無関心であったということは考えにくいと思われます。というよりこの当時「倭国」は「隋・唐」との関係を深めていた時期ですから、「評」などと同様「七世紀前半から半ば」という時期において「百済」から制度を導入するあるいは学ぶというようなことは行なわれなくなっていたと考えるべきではないでしょうか。
つまり、「倭国」においてもこの「貸稲」制度がもっと早期から機能していたと考えられるわけであり(それは「百済」から伝来したものとは断定できませんが)、この「木簡」に書かれた年次である「六一八年」と近い時期に施行されたあるいはそれ以前に既に導入していたというようなことも想定すべきと思われます。
この『孝徳紀』に書かれた「吉備嶋皇祖母處々『貸稻』」というものがどのようなものなのか、いつからのものなのかは一切不明な訳ですが、上に見るように少なくとも「七世紀前半」には「倭国」にそれが制度として存在していたことを窺わせます。
「改新の詔」の中ではその「屯倉」についても「止める」とされていますから、その意味では同内容と言っても良いと思われます。
また「貸稲」についても「吉備嶋皇祖母」が保有していた広大な領地の存在を前提にした表現であると考えられ、それらを「食封」代わりに、「群臣及伴造等」に「班賜」するというものと推定されています。
このような措置が示すことは、この当時「貸稲」という形態が、「一般化」していたことを示すものですが、さらに「吉備嶋皇祖母」の権力の大きさを示すものでもあります。
この「吉備嶋皇祖母」というのは『書紀』では「皇極(斉明)」の「母」とされている人物です。その「吉備嶋皇祖母」については詳細は『書紀』には書かれていませんが、「皇極」の年齢から考えて、その主な活動時期は「七世紀初め」であったと思われます。その彼女の「財産」として「貸稲」とその背景としての広大な領地があったことが推定される訳です。
つまりこの「詔」の解釈としては「官司」の「屯田」とは「王権直営の田」であり、そこには「田部」が置かれ収穫した「稲穀」は「屯倉」に収納された後、「王権」に直送されるというシステムであったと思われますが、それに対し「吉備嶋皇祖母」の「貸稲」の方は「王権」というより「吉備嶋皇祖母」個人の所有に帰するものと思われ、広く貸し付けられて利を稼いでいたものであり、その利益は彼女個人の収入となったと思われ、それを背景として絶大な権力行使が行われていたであろう事が推察されます。もちろんこれは彼女自身が形成したと言うよりは彼女の「父祖」から継承したものと考える方が筋が通っていると思われます。その彼女の父は「茅濡王」とされ、彼は「押坂彦人大兄」の子供とされています。
この「押坂彦人大兄」は『書紀』の「改新の詔」では「皇祖大兄」という至上の敬称を奉られており、絶大な権威を所有していたことが推定されます。またそれを示すように「詔」の中では多数の「御名部入部」を保有していたらしく、それを「献」する、つまりそれを継承・保有していた人物についてその所有権を放棄させられるということが行われています。
「(六四六年)大化二年三月癸亥朔壬午。皇太子使使奏請曰。昔在天皇等世。混齊天下而治。及逮于今。分離失業。謂國業也。屬天皇我皇可牧萬民之運。天人合應。厥政惟新。是故慶之尊之。頂戴伏奏。現爲明神御八嶋國天皇問於臣曰。其群臣連及伴造。國造所有昔在天皇曰所置子代入部。皇子等私有御名入部。『皇祖大兄御名部入部。謂彦人大兄也。及其屯倉』。猶如古代而置以不。臣即恭承所詔。奉答而曰。天無雙日。國無二王。是故兼并天下。可使萬民。唯天皇耳。別以入部及所封民簡死仕丁。從前處分。自餘以外。恐私駈役。故獻入部五百廿四口。屯倉一百八十一所。」
この文章中にもあるように「皇祖大兄」とは「(押坂)彦人大兄」とされていますが、ここで特にその「御名部」が問題となるということは、それが多数・多量であるという事実の反映とも思われます。それが取るに足らぬほどの少数であれば、その帰趨をここで取り上げるほどのことではないのですから、かなりのウェイトを占めるものだったのでしょう。しかし、『書紀』からは一見「押坂彦人大兄」という人物について大きな権力を持っていたようにはとても見えません。このあたりの事情は全く不明であるわけですが、少なくともかなり多数の「御名部」がいたのは事実であると思われますから、そのことは何らかの事情によって「隠されている」というべきでしょう。(後述するように彼の御名部は「押坂部」であり、これは「刑部」とも表記されたものであり、また以前は「解部」であったものと見られます)
この「改新の詔」に僅かに遅れて「東国国司詔」が出されているわけですから、『皇祖大兄御名部入部。謂彦人大兄也。及其屯倉』という中の「屯倉」については「吉備嶋皇祖母處々貸稻」を調達するための「屯倉」が含まれていたとみるべきではないでしょうか。
ところで、「舒明」の「母」は「嶋皇祖母」とされており、この人物と「皇極」の母である「吉備嶋皇祖母」は「同一人物」という指摘もあります。(※)そう考えると、「吉備嶋皇祖母」は「押坂彦人大兄」の妻であったこととなるでしょう。もしそうなら、「皇極」は「押坂彦人大兄」の「子供」であり、また「舒明」とは「兄妹」の関係であったこととなります。それを示すように『日本帝皇年代記』にはこの二人が同じ年次に誕生したという記述があり(つまり双子か)、「同年齢」であったことがその「即位」の年齢などから窺えます。
このような思惟進行は、「吉備嶋皇祖母」がその広大な領地を「夫」である「押坂彦人大兄」から継承した事を推定させるものであり、そこで「貸稲」を蓄え、それを民衆に貸し付けて巨大な財源としていたと考えられる事となります。それはその後「子供達」である「舒明」と「皇極」に相続されたものですが、後年「日本国」王権に奪取されるということとなったのではないでしょうか。
「改新の詔」では、「押坂彦人大兄」とその妻である「吉備嶋皇祖母」の「財産」としての「御名部入部」と「貸稲」について、それを国家(天皇)に献上し、「天皇」はそれを「各群臣及び伴造」へ「班賜」するとされています。
しかし、その「詔」を出した「天皇」である「孝徳」は「皇極」の「同母弟」とされますから、「押坂彦人大兄」と「吉備嶋皇祖母」は彼の「両親」であることとなってしまいます。これを「天皇」に帰属させるというのはある意味「当然」のことであり「改新」でも何でもないこととなってしまうでしょう。彼が彼等の子供であるなら、(しかも男子です)彼に財産の継承権があるのは当然と考えられるからです。
このような施策は、ここに書かれた「天皇」というものが「皇極」「舒明」と血縁のない人物であるか、正当な「財産継承権」を有していない人物の時始めて意味を持つ「詔」であると考えられ、そのような人物がそれを自分のものにするための「大義名分」として出されたものと考えるべき事を示します。
また、これらのことは「貸稲」という制度そのものがかなり早い時期から行なわれていたことを示すものであり、「六世紀後半」には存在していたとしても不思議ではないこととなるでしょう。
少なくとも「皇祖大兄」とされる「押坂彦人大兄」も「吉備嶋祖母」もその生存年代は「六世紀後半」を想定できますから、「御名部」も「貸稲」も同様の時代を想定するのは当然ともいえます。
元々「貸稲」(出挙)という制度は『倭人伝』の時代から「村落」(里)には相互扶助の制度としてあったものと見られます。
すでに述べたように「春耕秋収を計えて年紀とする」という語の解析から、この期間は「貸稲」の「利息」をとる期間として考えられたものではないかと推測したわけです。さらに後の「律令制」の元の「村落」においても、国家の政策とは別個に「出挙」のような制度が行われていたと見られ、またその期間もやはり「春耕秋収」というものに実態があったものであり、これは明らかに『倭人伝』に遡上しうる制度がその時点でまだ機能していたことを示すものです。
このような「貸稲」という制度は『倭人伝』の例もそうであるように「租」と深く関係しているものであり、決められた「租」が収穫できなかった場合などに「稲」を借りて収めなければならないという、制度としての前提があったことを反映していると考えられます。
単に「食べられない」からというより、「租」という負担を賄うためのものと考えるのが正しいのではないでしょうか。(貧窮した者達への救済策として始まったという考え方もあるようですが、それはやや違うと思われ、基本としては「租収入」の確保という国策に対応するものとして自主的に始まったものが後に国家的な制度となった(公出挙と称する)ものではないかと考えられます。)
この「六世紀末」という時点で行われていた「貸稲」という制度は、一見「私出挙」つまり個人的に貸し付けているものであり、「租」との対応がないように見えますが、それが「詔」として出されたという意味において「出挙」が公的なものへと変質したものと思われ、当然「国家」が関与しているものであり、そう考えればこの「六世紀末」という段階で「班田制」が施行されていたという可能性を強く示唆するものでもあります。つまりこの「貸稲」という制度は「六世紀末」という段階で「班田制」の導入と一体で進められたものであり、「国家」が貸し付ける「公出挙」としての「貸稲」の供給基地が「吉備嶋祖母」の領する土地であったと考えられる事を示すものです。
またこの「改新の詔」では「貸稲」を「止める」とされているわけですが、それは当然「貸稲」の「利息」「元本」について、これを「放棄」するという「徳政令」の実施でもあったと考えることが出来るでしょう。このような措置は「貸稲」についてその権利を継承していた人物にとっては大打撃であり、それが「特定」の人物であり、また「国家」の中枢にいる人物であることが重要であると思われます。この「改新の詔」はその意味で「革命」であり、前政権がそれ以前から「正当」に継承していた全ての権利を一切放棄させ、それを奪取するという宣言でもあると思われます。
(※)李鎔賢「百済木簡 ─新出資料を中心に」 国立扶余博物館 2008/8/10
(この項の作成日 2013/05/20、最終更新 2015/04/30)