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謡曲「岩船」と「遣隋使」


 「謡曲」に『岩船』というものがあります。この舞台背景となっているのは「摂津国住吉の浦」であり、「天の探女」が「如意宝珠」を「帝」に捧げる為にやってくるとされます。
 以下『岩船』の「抜粋」です。

「…げに治まれる四方の国。/\。関の戸さゝで通はん。そも/\これは当今に仕へ奉る臣下なり。さても我が君賢王にましますにより。吹く風枝を鳴らさず民戸ざしをさゝず。誠にめでたき御代にて候。さる間摂州住吉の浦に。始めて浜の市を立て。高麗唐土の宝を買ひとるべしとの宣旨に任せ。唯今津の国住吉の浦に下向仕り候。何事も。心に叶ふ此時の。/\。ためしもありや日の本の。国豊なる秋津洲の波も音なき四つの海。高麗唐土も残なき。御調の道の末ここに。津守の浦に着きにけり/\。」
(中略)
「不思議やなこれなる市人を見れば。姿は唐人なるが。声は大和詞なり。又銀盤に玉をすゑて持ちたり。そも御身はいかなる人ぞ。さん候かゝる御代ぞと仰ぎ参りたり。又是なる玉は私に持ちたる宝なれども。余りにめでたき御代なれば。龍女が宝珠とも思し召され候へ。これは君に捧物にて候。ありがたし/\。それ治まれる御代の験には。賢人も山より出で。聖人も君に仕ふと云へり。然れば御身は誰なれば。かゝる宝を捧ぐるやらん。委しく奏聞申すべし。あらむつかしと問ひ給ふや。唐土合浦の玉とても。宝珠の外に其名は無し。これも津守の浦の玉。心の如しと思しめせ。心の如しと聞ゆるは。さては名におふ如意宝珠を。我が君にさゝげ奉るか。運ぶ宝や高麗百済。唐船も西の海。檍が原の波間より。現れ出でし住吉の。神も守りの。道すぐに。こゝに御幸を住吉の。神と君とは行合の。目のあたりあらたなる。君の光ぞめでたき。」
(中略)
「又岩船のより来り候。そも岩船のより来るとは。御身は如何なる人やらん。げに旅人はよも知らじ。天も納受喜見城の。宝を君に捧げ申さんと。天の岩船雲の波に。高麗唐土の宝の御船を。唯今こゝに寄すべきなり。今は何をか包むべき。其岩舟を漕ぎよせし。天の探女は我ぞかし。飛びかける天の岩船尋ねてぞ。秋津島根は宮柱住吉の松の緑の空の。嵐とともに失せにけり/\。」
(中略)
「久方の。天の探女が岩船を。とめし神代の。幾久し。我はまた下界に住んで。神を敬ひ君を守る。秋津島根の。龍神なり。或は神代の嘉例をうつし。又は治まる御代に出でて。宝の御船を守護し奉り勅もをもしや勅もをもしや此岩船。宝をよする波の鼓。拍子を揃へてえいや/\えいさらえいさ。引けや岩船。天の探女か。波の腰鼓。ていたうの拍子を打つなりやさゞら波経めぐりて住吉の松の風吹きよせよえいさ。えいさらえいさと。おすや唐艪の/\潮の満ちくる浪に乗つて。八大龍王は海上に飛行し御船の綱手を手にくりからまき。汐にひかれ波に乗つて。長居もめでたき住吉の岸に。宝の御船を着け納め。数も数万の捧物。運び入るゝや心の如く。金銀珠玉は降り満ちて。山の如くに津守の浦に。君を守りの神は千代まで栄ふる御代とぞ。なりにける。」

 ここに出てくる「如意宝珠」は「律」(小乗)の教典にも出てくるものですが、宇佐八幡宮に伝わる『八幡宇佐宮御託宣集』の中にも書かれています。

「彦山権現、衆生に利する為、教到四年甲寅(四七四年)〔第二九代、安閑天皇元年也〕に摩訶陀國より如意宝珠を持ちて日本国に渡り、當山般若石屋に納められる。」

 これによれば「如意宝珠」は「宇佐」にあったとされています。『岩船』ではこれを「摂津」にいる「君」に捧げるために「摂津」の「住吉」にやって来るというわけですが、それは九州「宇佐」から「女官(巫女)」がやってくる、という状況がその背景になっているのではないかと考えられるわけです。(ちなみにここに出てくる「探女」は実際には「てへん」ではなく「おうへん」ではなかったと思われ、それであれば「寶」を意味する言葉ですから、「如意寶珠」を捧げてくるという役割にマッチしているといえます。しかもその表記は「寶王」と同義ともいえ、「皇極」「斉明」の本名である「寶王」の本来の意味と役割が推定される事となるでしょう)

 ところで、ここでは「衆生に利するため」とされており、「大乗」の精神が表されています。このことは『法華経』の伝来と関連していることを示していると思われます。
 『法華経』は「大乗」の最もポピュラーな経典ですが「如意寶珠」が含まれる経典はその多くが「小乗」の経典です。
 『隋書俀国伝』中にも「如意宝珠」は登場しますが、特に「倭国王」との関係が語られるわけではありません。「俗」つまり、一般庶民の風習という形で「如意宝珠」についての信仰が存在していたものであり、それは「阿蘇山」の噴火に対する「畏怖」が底流にあったようです。
『隋書俀国伝』には倭国の名勝として「阿蘇山あり」と書かれ、その噴火の様が「火起こり、天に接する」と書かれています。また、「祷祭を行う」と書かれており、宗教的な儀式がそこで行われていたようです。そして、この「祷祭」に使用されているものとして「如意宝珠」があるのです。
仏教の経典によれば「如意宝珠」とは「大魚の脳中」にあるものであり、「隋使」が実見したところ「魚の眼精であった」という『隋書』の記事と符合しています。
 『隋書俀国伝』にもあるように、当時倭国の一般の人々は「卜筮を知り、最も巫覡(ふげき=男女の巫者)を信じている」と書かれています。
 そして、ここでいう「巫覡」が「宇佐」の神官である、という可能性もあるでしょう。それであれば、宇佐にあったという「如意宝珠」を「俗」として信仰している事と整合するのではないでしょうか。

 この「如意宝珠」記事は『隋書』によれば「六〇〇年」に派遣された遣隋使により語られた内容とされているわけですが、既に述べたようにこの『隋書』記事については「年次移動」という手法が使用されている可能性が強く、実際には「隋初」つまり「五八〇年代」のことであったと思われます。そしてその時点の「君」という人物は「阿毎多利思北孤」であるわけですが、これは「押坂彦人大兄」の「弟王」である「難波王」ではなかったかと考えられ、彼は「摂津難波」に居を構えている事が判明します。(「難波王」の名称の由来とも思えます)

 「法華経」の「提婆達多品」という経文には以下のようにあります。

「文殊師利言。我於海中。唯常宣説。妙法華経。(中略)娑竭羅龍王女。年始八歳。智慧利根。善知衆生。諸根行業。得陀羅尼。諸佛所説。甚深秘蔵。悉能受持。深入禅定。了達諸法。於刹那頃。発菩提心。得不退轉。辯才無礙。慈念衆生。猶如赤子。功徳具足。心念口演。微妙廣大。慈悲仁譲。志意和雅。能至菩提」

 以上のように「竜神」の「童女」の成仏説話が語られていますが、この「竜女」に関連しては『平家物語』中に「厳島神社」の創建と関連して語られています。(前述)そこでは、この創建の主役となった人物について「竜女には妹、神功皇后にも妹、淀姫には姉」という関係が語られています。
 「愚管抄」にも「コノイツクシマト云フハ龍王ノムスメナリト申ツタヘタリ」とあり、また、『平家物語』の別の部分でも(「卒都婆流」)「宮人こたへけるは、是はよな、娑竭羅龍王の第三の姫宮、胎蔵界の垂迹なり」としています。 また、「厳島神社」の祭神は(「伊予三島神社」なども)「宗像三女神」が祭神となっており、ここで「竜神」と「宗像氏」が同一視されているのがわかります。
そして、「岩船」の中では「摂津住吉」の浦に「金銀宝玉」を満載した「岩船」が到着する、というわけですが、この船は「龍神」が守護しており、このことは「龍神」つまり、「宗像」の「海人族」が守護して「瀬戸内」を航行してきたことを示しているようです。
 「如意宝珠」は「魚の脳中にある」とされているわけですから、これを「海中」に入って持って還って来ることができるのは「海人族」だけであり、この信仰が彼らに強く結びついている事も当然と言えるでしょう。

 「岩船」という名称も「高天原」から下りてくるときに乗ってきた、という船「天磐樟船」と同義と思われ、「天孫降臨の地」が「筑紫の日向の襲のクシフル岳」と書かれているように「筑紫」であることは言うまでもないことですが、「天」つまり「筑紫」からやってくる「聖なる船」(筑紫王朝の船)を「岩船」と呼称するものと思われ、その船が金銀宝玉を満載して、「龍神」と共に現れる、という話の進行となるわけですから、それが表すものは「直接」「唐」や「百済」の船が「難波」に来たわけではなく、すでにその前に「筑紫」の港で交易が成立しており、それを「運搬」してきた、という事と考えられます。その途中を「宗像」の海人族が護衛してきたという事でしょう。(これは『倭人伝』で「一大率」の職掌として書かれた内容と見事に重なるものではないでしょうか。そのことは「一大率」の後裔と「宗像氏」とが深く関係しているという可能性も示唆するものです。)
 これは「唐」などと「交易」が「筑紫」で行なわれていたことを示し、それにより「買い付けられた」「名品」「珍品」などが「国内」に流入してきたことを示すものと思われ、それらの購入に必要となったために用いられたのが後に触れるように「銀銭」(無文銀銭)であったと思われます。(これは「新羅」等から「銀」地金として貢上されたものと思われます)

 「住吉」という地名自体も元々「筑紫」に連結しているものです。「岩船」の中でも、「運ぶ宝や高麗百済 唐船も西の海 檍が原の波間より 現れ出でし住吉の神も~」と詠われているように、「檍が原」という地名と「住吉の神」が一体で考えられていますが、(別の謡曲「香椎」でもほぼ同様に歌われています)「イザナキイザナミ神話」でもみそぎをした場所を「筑紫の日向の橘の小戸の檍が原」と書かれているように「檍が原」という地名が「筑紫」のものであるのは間違いないところです。
 つまり、元々「住吉」は「筑紫」の地名であったものを「倭国王」が「摂津難波」に仮宮を作る際に(その「難波」という地名も含め)「住吉の神」を祀る社をこの地に作ったものでしょう。(分社したわけです)それが可能となったのは途中にある瀬戸内海にすでにそれ以前に「宗像」氏が勢力を伸ばしていたからと考えられます。
 「厳島神社」などの「宗像三女神」を祭神とする「社」の創建年次は『推古紀』、つまり「阿毎多利思北孤」の時代とされています。(五九二年か)このことは、かなり早い時期に「瀬戸内」に勢力を広げていた「宗像」などの「筑紫」の海人族がいたものであり、彼らが「隋」からもたらされた「竜女伝説」を含む「法華経」を受容した結果、その当時の倭国の民衆が信仰していた「土着的」な神と融合し受け入れられていったものと考えられます。そして、これ以降瀬戸内海の「制海権」を「宗像」氏が握ったものでしょう。このことが前提となって、筑紫からの船を「竜神」つまり、宗像氏の海人族が護衛できることとなるのです。

 「難波」の仮宮としては「小郡」というものが『書紀』に書かれています。この「小郡」は「筑紫」にもあり、同様のものを「難波」にも造ったと言う事と考えられ、「離宮」様のものであったと思われますが、「難波」には「政庁」がなかったため、必然的に「難波小郡」は「政庁」的機能もある程度兼ね備えたものとなったことと推察されます。それを示すように『書紀』には「難波小郡」の宮における「礼法」についての規定が定められた記事があります。

 「六四七年」(常色元 大化三)年 是歳、小郡を壊ちて宮營る。天皇、小郡宮に處して、禮法を定めたまふ。其の制に曰はく、「凡そ位有ちあらむ者は、要ず寅の時に、南門の外に、左右羅列りて、日の初めて出づるときを候ひて、庭に就きて再拝みて、乃ち廳に侍れ。若し晩く參む者は、入りて侍ること得ざれ。午の時に到るに臨みて、鍾を聴きて罷れ。其の鍾?かむ吏は、赤の巾を前に垂れよ。其の鍾の臺は、中庭に起てよ」

 また、「摂津志」にも「西成郡、上古難波小郡。日羅墓在二大阪天満同心町一」とあります。
 この宮は「前期難波宮」ができるまで「倭国王」の「難波」滞在の居所であり、政治を司っていた場所でもあります。そのためにはかなりの数の官人が同行していなければなりませんが、上で見たように行政を執行するに足るかなりの数の官人がいたと考えられ、前期難波宮殿の周囲から発見される「大規模官衙遺跡」の先蹤となるものであったと考えられます。
 そしてここには「前期難波宮」ができる以前から「摂津職」がいたものと考えられます。つまり、「仮宮」における責任者であり、「倭国王」が首都「筑紫」に戻っている間の「留守」を預かる役目でもあったと思われます。
また、この時点ではまだ「副都」ではなく、あくまでも「仮宮(行宮)」であり、「副宮殿」であったものと考えられますが、在留期間が長かったことと、東国の中の「直轄地域」であるため、その「宮域」を司る「大夫」をおいていたものでしょう。


(この項の作成日 2011/04/26、最終更新 2015/04/12)