『書紀』の「仁徳即位前記」に「屯田制」というものについて書かれています。
(仁徳天皇即位前紀)
「(応神)四十一年(庚午三一〇年)春二月。(中略)是時額田大中彦皇子。將掌倭屯田及屯倉。而謂其屯田司出雲臣之祖淤宇宿禰曰。是屯田者。自本山守地。是以今吾將治矣。爾之不可掌。時淤宇宿禰啓于皇太子。皇太子謂之曰。汝便啓大鷦鷯尊。於是淤宇宿禰啓大鷦鷯尊曰。臣所任屯田者大中彦皇子距不令治。大鷦鷯尊問倭直祖麻呂曰。倭屯田者元謂山守地。是如何。對言。臣之不知。唯臣弟吾子篭知也。適是時。吾子篭遣於韓國。而未還。爰大鷦鷯尊謂淤宇曰。爾躬往於韓國。以喚吾子篭。其兼日夜而急徃。乃差淡路之海人八十。爲水手。爰淤宇往于韓國。即率子篭而來之。因問倭屯田。對言。傳聞之。於纒向玉城宮御宇天皇之世。科太子大足彦尊定倭屯田也。勅旨。凡倭屯田者。毎御宇帝皇之屯田也。其雖帝皇之子。非御宇者不得掌矣。是謂山守地非之也。時大鷦鷯尊遣吾子篭於額田大中彦皇子而令知状。大中彦皇子更無如何焉。乃知其惡。而赦之勿罪。(以下略)」
この「屯田」と言う用語は中国史書にすでに「先例」があり、(「称制」と同様)既に「定義づけ」がすでに済んでいる「用語」です。当然『書紀』中に現れた場合、そのような「伝統的」使用法をまず想定すべきでしょう。例えば「三国時代」の「魏」の時代に「曹操」により行われた「屯田」を利用した地方統治が知られています。これは地方統治の方法として「兵士」に開墾させ、糧食を確保させると共に一旦急あれば「武器」を取って戦うという体制を築いたものです。
このように「屯田」が歴史的用語であると考えた場合、ここにおける「屯田」も「明治時代」の「北海道」への「屯田兵」の例と同様の使用法であったと思われ、「武力」と「墾田」という両面を行う事を使命とした「武装植民」であったと考えられます。
「魏」の例では「流浪民」を集めて「武器」や「農具」を与えた「民屯」と、そもそも「軍隊」として訓練を受けた人員を「国境」などに派遣し、「守備隊」として活動すると共に「食糧確保」のため、農耕も行うという「軍屯」とがあったとされていますが、推測によれば「倭国」の場合には全て「軍屯」の形式であったと考えられ、「倭国中央」から「派遣」された軍隊が「当地」の勢力と時には衝突しながら、「農耕」もするという形のものであったと考えられます。
また、この「屯田」から確保した「物資」(「余剰」農耕生産物)を収蔵するための「倉」が「屯倉」であり、「屯倉」が展開された場所には「屯田」があったと考えるべきでしょう。
この「屯倉」は以上のように「屯田」が収穫したものですが、「中国」の例でも「屯田」は「直轄地」とされ、そこからの収穫は基本的に「国庫」に入るのが当然でした。倭国においてもそれが「ミヤケ」という名称で「倭国中央」に上納されるものという意義を持っているのも当然であると思われます。
このような「武装植民」と「屯倉」設置は「倭の五王」時代の領土拡大政策とはやや次元が異なると考えられます。
「倭の五王」時代は「倭国王」の「権威」を知らしめ、「臣下の礼」を取らせるのが第一義であったと思われ、それは「中国」の皇帝の元に「諸王」が存在し、「権威」と「大義名分」を認めさせていたことと「同様」のことを「倭国」でも行う事を目指したものと考えられます。そこでは何よりも「力」と「権威」を認め「倭国王」に対し「敬意」を払うことを要求したと考えられ、そのため、「馬」と「剣」という二大武器を示し、これに「畏怖」の念を持たせ、「臣下」として「服従」した証明として「墓制」と「祭祀」を中心として「倭国中央」と同形式のものを使用させることまでが彼等の目的であったものです。
つまり、そこからの「物資」の収奪と言うことは「目的」の中には入っていなかったと考えられるものです。しかし、「屯田」のような「武装植民」という、一種の「実力行使」はそれとはかなり「趣」を異にするものであり、これはより明確な統治行為の透徹とそれに伴う「収穫物」の収奪という面が強調された政策と言えます。
つまり、このような「武装植民」が行われた時点というのは「倭の五王」の時代からかなり時間が経過した時点が想定され、また、同時にかなり強力な「王権」の存在を仮定する必要があるでしょう。
この「屯田」は『書紀』の上の文章の中では「因問倭屯田。對言。傳聞之。於纒向玉城宮御宇天皇之世。科太子大足彦尊定倭屯田也。」というように「垂仁」と目される「天皇」の時代に「太子」が「倭屯田」を定めたとされています。この「垂仁」は「仁徳」から「五代」前であり、かなり時間が経過していることとなっています。
(しかしそもそも『垂仁紀』にも『景行紀』にも「屯田」が実施されたという記事はありません)
このような事情から「仁徳」の時代にはその経緯などについて「忘却」されていたものと考えられますが、「仁徳」が「利歌彌多仏利」の「表象」であることを考えると、「利歌彌多仏利」までの時代までの間、「屯田」の意義がやや見失われていたように見えるわけであり、それは「磐井の乱」以来の「物部」による「筑紫」制圧という事情がこの間にあることが一番の理由であったと思われます。
「利歌彌多仏利」以前に「屯田」が行われていたとすると「倭の五王」の最後の王である「武」と次代の「磐井」の時点と想定されます。それが『書紀』では「垂仁」とその太子「大足彦」に擬されていると考えられ、彼等により「郡県制」が施行されたという事があったと見ることが可能です。それは『風土記』によって「磐井」が「律令」を制定・施行していたらしいことと重なります。
後でも述べますが、「律令」の制定と「法治国家」の実現には「郡県制」が必須であり、決して「諸国」に「王」がいるという体制の元では実現することはできません。
「権力中枢」とその意志を末端に伝える階層的行政制度というのは必須の組み合わせであり、そうであれば、その時点で「屯田」と「屯倉」の大量設置があったと見られる訳ですが、それはまた「諸国」の王にとって「死活問題」でもあるわけです。なぜなら彼等の存続基盤がそれによって崩壊することとなるわけですから。そのため、中央がわの権力の存在基盤としては還って脆いものになったという可能性もあるでしょう。
『書紀』などに伝えられる「磐井の乱」の発生する素地というものは、そのような半ば強圧的政策の反動と言うこともできるのではないでしょうか。(磐井の乱の収束時点で条件として「糟屋屯倉」が出てくるのはその意味で当然ともいえるでしょう)
いずれにしろ、「磐井の乱」という事件が発生したことで、全てが「頓挫」したと推察されます。そのため「屯田制」が再度復活するのは、「筑紫」を奪還した時点以降と考えられ、このような時点は拙論でも述べたように「六世紀」後半から「七世紀」前半の「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」の時代が想定されるものであり、そう考えた場合「仁徳」の時代は即座に「利歌彌多仏利」の時代と重なることとなるでしょう。
つまり、このような「武装植民」記事が『仁徳紀』に集中しているのは、統一王朝を確立した「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」の時代を彷彿とさせるものであり、「我姫」諸国に「権力」を及ぼし、各国を再編成し、「国県制」を施行した段階にこの「屯田」制度が再制定、拡大されたことを示すと考えられます。
(この「屯田」が「中国」の例に倣ったとするならば、これらの「屯田」は「兵戸」という別の戸籍に属する集団であったと思われ、この当時存在していたとされる「西晋」以来の戸籍制度には載せられていなかったと考えられます)
そして、「屯田」が「利歌彌多仏利」に関係していると考えるならば、「屯倉」も同様と思われ、「安閑紀」の「屯倉」大量設置も実は「利歌彌多仏利」の時代のことであったと考えるべきであり、それらから収奪した物資が「筑紫」の「官家」に収められたとする記事も実際には「利歌彌多仏利」の元へと集められたものと思われます。
このような「田」を開墾しつつ、その地の軍事的制圧と治安の維持という事業の実施を各諸国に及ぼした結果、「国県制」の施行と「六十六国分国」という事業が可能となったものと思料します。
(この項の作成日 2012/06/10、最終更新 2017/02/26)