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「前方後円墳」の築造停止と「薄葬令」


 「七世紀」に入ってすぐの頃に「全国」で一斉に「前方後円墳」の築造が停止されます。正確に言うと「西日本」全体としては「六世紀」の終わり、「東国」はやや遅れて「七世紀」の始めという時期に「前方後円墳」の築造が停止され、終焉を迎えます。
 西日本(特に北部・中部九州地域)では「六世紀」を通じて徐々に減少していたものではありますが、この時期になり、「前方後円墳」に限って全く作られなくなるわけです。
 この列島の「東西」での「時間差」の原因は、この「築造停止」の「発信源」が「近畿」ではなく「筑紫」であったことと、「東国」の「行政組織」が「未熟」であったことがあると思われます。
 この時の「権力中心」が「近畿」にあるのなら、列島の「東西」に指示が伝搬するのに「時間差」が生じる理由がやや不明ですが、「発信源」が「筑紫」にあったと考えると「時間差」はある意味必然です。
 当然「権力」の及ぶ範囲が「西日本」側に偏ることとなるものと思われ、「倭国」の本国及び近隣の「諸国」と「遠距離」にある「諸国」との「権力ベクトル」(向きと力)の「差」がここに現れるものとなったと考えられます。
 当初「西日本」が先行するのは「阿毎多利思北孤」の仏教行脚の影響と思われますが、その時点(五九二年前後)東国には「行政組織」が未熟で、倭国王の指示が貫徹されなかったものと思われると同時に、東国の各地域の王達との間に強力な「統治-被統治関係」がまだ構築されていなかったという可能性があるでしょう。
 
 このような「令」を出すこととなった背景としては、一般には「盗掘」を恐れたこと、墳墓の造成に伴う多大な出費と人民の労力の負担を哀れんだ為であるとされているようですが、その実は仏教推進のためであり、それまでの「王族」クラスの「墳墓」であった「前方後円墳」に付随する伝統的な「祭祀」を禁止するためという目的もあったと考えられます。そしてそれは「隋」の高祖「文帝」からの「訓令」によるものであったとみられるのです。
 既に考察したように初めての遣隋使が「文帝」に問われるままに答えた倭国の風俗(慣習)の中に「倭国王」の統治の体制について述べた部分があり、そこで「兄弟統治」と理解される内容を答えたところ「無義理」つまり「道理がない」とされ、「訓令」により「改めさせられた」という記事が『隋書』にあります。この「訓令」の中身の考察から仏教の国教化と古典的祭祀の停止というものがそこで示されたと考えられることとなりました。それを具体的に示したものが「薄葬令」であったと思われるわけです。

 「薄葬令」は『書紀』では「七世紀半ば」の『孝徳紀』に現れるものですが、従来から「薄葬令」に適合する「墳墓」がこの時代には見あたらないことが指摘されています。そのため、より遅い時期である『持統紀』付近に出されたものではないかという見方もありました。
 しかし、考古学的に見て「六世紀末」という時期に「西日本」を中心として「前方後円墳」の築造が停止されるという事象が存在しているわけであり、その年次と「薄葬令」とは「三十年」ほどの時間差があることとなりますが、それが何によるものかは理由として「説明」できていませんでした。実際にはそれは『書紀』編纂者による「潤色」という資料操作によるものであると考えられるわけです。

 この「薄葬令」の中身を見てみると、「前方後円墳」の築造停止に直接つながるものであることが分かります。

「甲申。詔曰。朕聞。西土之君戒其民曰。古之葬者。因高爲墓。不封不樹。棺槨足以朽骨。衣衿足以朽完而已。故吾營此丘墟不食之地。欲使易代之後不知其所。無藏金銀銅。一以以瓦器合古塗車蒭靈之義。棺漆際會。奠三過飯。含無以珠玉無。施珠襦玉■。諸愚俗所爲也。又曰。夫葬者藏也。欲人之不得見也。迺者我民貧絶。專由營墓。爰陳其制尊卑使別。夫王以上之墓者。其内長九尺。濶五尺。其外域方九尋。高五尋役一千人。七日使訖。其葬時帷帳等用白布。有轜車。上臣之墓者。其内長濶及高皆准於上。其外域方七等尋。高三尋。役五百人。五日使訖。其葬時帷帳等用白布。擔而行之。盖此以肩擔與而送之乎。下臣之墓者。其内長濶及高皆准於上。其外域方五尋。高二尋半。役二百五十人。三日使訖。其葬時帷帳等用白布。亦准於上。大仁。小仁之墓者。其内長九尺。高濶各四尺。不封使平。役一百人。一日使訖。大禮以下小智以上之墓者。皆准大仁。役五十人。一日使訖。凡王以下小智以上之墓者。宜用小石。其帷帳等宜用白布。庶民亡時收埋於地。其帷帳等可用麁布。一日莫停。凡王以下及至庶民不得營殯。凡自畿内及諸國等。宜定一所。而使收埋不得汚穢散埋處處。凡人死亡之時。若經自殉。或絞人殉。及強殉亡人之馬。或爲亡人藏寶於墓或爲亡人斷髮刺股而誄。如此舊俗一皆悉斷。或本云。無藏金銀錦綾五綵。…」

 この「薄葬令」は中国に前例があり、最初に出したのは「魏」の「曹操」(武帝)ですが、それは子息である「曹丕」(文帝)に受け継がれ、彼の「遺詔」として出されたものが『三國志』に見られます。この『孝徳紀』の「薄葬令」の前段にもそれが多く引用されているのが確認で、当時の倭国でもこれを踏まえたものと見られます。但し、それがこの時期に至って参照され、前例とされているのには理由があると思われ、仏教の拡大政策が始められることと関係していると思われます。
 このような「令」を出した背景としては、一般には「盗掘」を恐れたこと、墳墓の造成に伴う多大な出費と人民の労力の負担を哀れんだ為であるとされているようですが、実際には「隋」の「文帝」から「訓令」を受け、前時代的な風俗を改めるべきこと、仏教を国教として統治を進めることなどの指示を受けたため「前方後円墳」に付随の「祭祀」も禁止されることとなったという経緯が考えられます。
 この「孝徳」の「詔」では、たとえば「王以上」の場合を見てみると、「内」つまり「墓室」に関する規定として「長さ」が「九尺」、「濶」(広さ)「五尺」といいますからやや縦長の墓室が想定されているようですが、「外域」は「方」で表されており、これは「方形」などを想定したものであることが推定される表現です。「大系」の「注」でも「方形」であると明言しています。もっとも、この「方~」という表現は「方形」に限るわけではなく、「縦」「横」が等しい形を表すものですから、例えば「円墳」等や「八角墳」なども当然含むものです。
 「易経」によれば一から十までの数字を「奇数」と「偶数」に分け、「奇数」が「陽」であり「天」であるとされました。「九」は「天数」の中の最大であり「極値」です。このため「最大値」を表す意味で「長径」を「九」という数字で表していると思われます。
 ちなみに「方」で外寸を表すのは以下のように『魏志倭人伝』にも現れていたものです。

「…又南渡一海千餘里、名曰瀚海。至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。『方可三百里』、多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。…」

 このような表現法はこの「島」の例のようにやや不定形のものについても適用されるものです。ただし、「墳墓」が不定形と言うこともないわけですが、かなりバリエーションを含む表現であることは確かでしょう。
 ただし、主たる「墳形」として「円墳」を想定しているというわけではない事は、『倭人伝』の卑弥呼の墓の形容にあるように「径~」という表現がされていないことからも明らかです。大きさに「径」を用いる表現は「円墳」に特有のものと考えられますから、このような表現がされていないこの「詔」の場合は「円墳」を想定したものではないと思われます。またいずれにせよ、明らかに「前方後円墳」についての規定ではないことも分かります。
 この「薄葬礼」に従えば「墳墓」として「前方後円墳」を造成することは「自動的に」できなくなるわけですが、「前方後円墳」の築造が最終的に停止されるのが考古学的に見て「七世紀前半」と考えられるわけですから、この「墳墓」の形と大きさを規定した「薄葬令」が出されたことがその直接の「理由」ないし「原因」と考えるのが自然です。つまり、実質的にこれが「前方後円墳禁止令」であったものと思われるわけです。

 この「前方後円墳」で行なわれていた「祭祀」の内容については初期の「竪穴式石室」を伴う古墳の場合、「円頂部」で行なわれていたものであり、その後「横穴式(横口式)石室」に変化して以降は「くびれ部」(方形部と円形部の接続部分)に作られた「造り出し部」で行われるように変更されていたものですが、内容としては「前王」が亡くなった後行なわれる「殯」の中で「新王」との「交代儀式」を「霊的存在の受け渡し」という、「古式」に則って行なっていたものと考えられ、仏教的観念からは遠く離れたものであったことが推測できます。そのためこのような祭祀が行われていることが、「隋」から見て「無義理」とされるものであったものと思われ、仏教の国教化の障害と見なされた可能性が高いものと推量します。
 このようなことを考えると、「前方後円墳」があり、そこでが行われていた「古典的な祭祀」というものが、「訓令」によって改められるべき「祭祀」に該当したという可能性が考えられます。そのため、「古墳造営」に対して「制限」(特にその「形状」)を加えることで、そのような「古式」的呪術を取り除こうとしたものと推測され、そのため「前方後円墳」が「狙い撃ち」されたように「終焉」を迎えるのだと考えられます。
 そのことは「埴輪」の終焉が同時であることからも言えそうです。「埴輪」の意義については各種の議論がありますが、「前方後円墳」で行われていた「祭祀」に伴う重要な要素であるという事と、「墓域」を「聖域」化するためのパーツであるというものがあります。これらについても「前方後円墳」の築造停止と共に消滅するものであり、これは「祭祀」が停止(というより否定)されたことに付随する現象であると考えられるものです。

 さらにこの「薄葬令」では「殯」について「王以下」はこれを営んではいけないというように禁止規定が設けられています。「殯」(の期間)が設定されなければ、「前首長」から「次代」の首長へと「霊」の受け渡しという「古典的」な祭祀が執り行えないこととなります。これは「地域首長」にそのような祭祀の長たる性格を認めないという意志が見えるものであり、そのような祭祀そのものを否定すると同時に「祭祀的首長」というものの存在を否定するものともいえます。
 このように「形状」についての制限と「殯」についての制限というように二重に枠をはめることにより「前方後円墳」とそれに付随する「祭祀」をもろともに禁止する趣旨であったと見られるわけです。

 ところで、『隋書俀国伝』では「殯の期間」として「貴人は三年」と表現されているのに対して、この『孝徳紀』の「薄葬令」を見ると「凡王以下及至庶民不得營殯。」とされており、ここでは「王」以下については「殯」そのものが否定されています。さらに『隋書俀国伝』では「八十戸制」であると考えられるのに対して、「薄葬令」では「五十人」の定数倍の人数が「役」(えだち)として決められており、ここでは「五十戸制」である可能性が強いと思われます。
 これらの点などから見ても「薄葬令」の中身は「遣隋使」により持ち帰られた制度にヒントを得たものであり、本来は「北朝」の制度にその源流があると思われます。
 既に見たように「遣隋使」の派遣時期についての考察から、「六世紀末」の「隋初」段階で「遣隋使」が派遣され、「隋」から大量の文物が流入していたらしい事が推察されることとなりましたが、そのことから「墓制」についても「隋」に倣ったという可能性も考えられます。
 「薄葬」は「唐代」に入って「厚葬」に漸次替わっていきますが、「南北朝」時代は「魏晋」以降の「薄葬」が継続していたと見られ、「隋」においても同様であったものと見られます。
 「隋代」の高官の遺詔にも「薄葬」を述べたものが確認され、まだこの時代は「薄葬」が標準的であったものと思われますし、「隋」の「高祖」(文帝)もその遺詔の中で「…但國家事大,不可限以常禮。既葬公除,行之自昔,今宜遵用,不勞改定。凶禮所須,纔令周事。務從節儉,不得勞人。…」としており、基本的には「葬儀」を簡便にし、大規模な墳墓の造成や副葬品の埋納を禁止しているようです。実際に彼の墳墓なども発掘されていますが、副葬品は同時代の諸国の王とさほど変わらないという報告もあります。
 また「中国」では「王」クラスの墳墓は「方墳」が一般的であり、それが「薄葬令」に影響していると考えられるものでもあります。(ただし、北魏以来の北朝では国王の喪としては三年間という期間が設定されていたらしく、その意味では「薄葬」とはいえないという可能性もあります)
 これらのことから「阿毎多利思北孤」の治世期間と思われる「隋初」という時期に「隋」の皇帝から「訓令」が出され、それに基づき「阿毎多利思北孤」は国内諸国に「薄葬令」を出し、その影響で「前方後円墳」の築造が停止されたと考えられる事となります。

 これを『書紀』の記述の時期として「七世紀半ば」と想定すると明らかな「矛盾」があると考えられます。それは、この「薄葬令」の後半に書かれている「人や馬」などについての「殉死」禁止の規定に明らかです。

「…凡人死亡之時。若經自殉。或絞人殉。及強殉亡人之馬。或爲亡人藏寶於墓或爲亡人斷髮刺股而誄。如此舊俗一皆悉斷。…」

 ここでは「殉葬」(あるいは「殉死」)等の「旧俗」の禁止が明確に書かれているわけですが、そもそも「殉葬」は「卑弥呼」の頃から「倭国」では行なわれていたものと考えられるものの、出土した遺跡からは「七世紀」に入ってからそのような事が行なわれていた形跡は確認できていません。「陪葬」が即「殉葬」とは限らないものの、「殉葬」と「明確」に考えられる例や「馬」を「追葬」したと考えられる例などは「六世紀後半」辺りが時期的に限度であり、それ以降は見あたらないとされます(※1)。
 このことから考えて、この「詔」が出されるにふさわしい状況は「六世紀後半」段階までであったことが推定されます。少なくとも「七世紀半ば」にこのような内容の「詔」が出されたり、またそれにより「禁止」されるべき状況(現実)が存在していたとは考えられないのは確かでしょう。それが「七世紀終わり」ならなおさらであると思われるわけです。
 このように「馬」などを「殉葬」する事が適わなくなったため、代わりに登場したのが「土製」の「馬」です。これは最も早く発生するのが「河内地方」であり、五世紀代からあるものの七世紀後半頃からその製作が本格化するとされます(※2)。それに遅れて「出雲」「筑紫」などの地域で「六世紀後半」には「土製馬」が見られるようになります。
 このように「土製馬」の分布の概要としては「二つの地域」にまとめることができそうであり、一つは大和を中心とする機内周辺、もう一つは九州北部を含んだ日本海沿岸地方です。このことから「薄葬令」で禁止しなければならない状況が長く続いていたのは「近畿」というより「筑紫周辺地域」であったと見ることができるものであり、この「薄葬令」そのものが「筑紫」を中心とした領域に対して意識して出されたものと解することができるものです。


(※1)
(※2)木村泰彦「古代日本の土製馬祭祀」(『龍谷大学大学院紀要』文学研究科第六集 1985)


(この項の作成日 2011/08/28、最終更新 2015/04/19)