「六三二年」に「唐使」「高表仁」が倭国に来た際に「倭国王子」と「礼」を争って、結果「朝命を宣べずして還る」、という事態が起きたという記事が『旧唐書』にあります。
通常外国からの外交使節と面会・交渉する役は外務官僚か「宰相」の地位にあるものであり、国王の前に必ず王子が会う、ということが決まっているわけではないと思われます。このことから考えて、このときの「倭国王子」が「宰相」的地位にいたものと考えることができるでしょう。
それ以前「隋使」「裴世清」が倭国に来た際の来た際の記録が『隋書』にありますが、倭国王の名前(「阿毎多利思北孤」)と同時に王子の名前(「利歌彌多仏利」)も記録されています。国王の名前及び称号は「国書」にあったものと思われますが、その「太子」の名前は「隋」の「高祖」から「風俗」を問われた「倭国」からの使者が口頭で返答したものを「官吏」が書き留めたものが原資料となったものと推量されます。
ここで「使者」が「太子」の名前を答えているのは、「太子」の「倭国内」における重要さを示すものとも考えられ、それは「太子」の名として書かれている「利歌彌多仏利」という「文字列」が、「阿毎多利思北孤」と同様「佳字」が使用されていることから考えても、正式名称であるという可能性が高いものと考えられます。
また、この時代「倭国」は南朝文化の元にあったものとみられ、漢語は「呉音」で発音していたと考えられます。つまり「阿毎多利思北孤」というのは自署名ですからその「漢字」は「呉音」で発音されるべきものですが、「利歌彌多仏利」は「倭国」からの使者の発音を「隋」の官僚が聞き取ったものであり、その表記されたものについては「漢音」で発音すべきものと考えられます。
そうすると「利歌彌多仏利」は「りかみたふつり」と発音されるべきものとなりますが、「ふつ」も「り」も「剣」に関係する言葉であることが注目されます。
「ふつ」は古語で「剣」そのものを意味する言葉ですし、「利(り)」は「武器」(剣)の鋭いことを指す言葉ですから、「太子」である「利歌彌多仏利」という名称は「剣」という「武器」を身につけた「武人」を意味するとも考えられます。
このように「使者」により「わざわざ」「太子」の名前まで述べられ、それが記録されていることから考えて、「利歌彌多仏利」が「倭国王」である「阿毎多利思北孤」と同格またはそれに準ずる地位にいたという想定が可能と考えられ、「摂政」であったという可能性が示唆されます。
このことと関連して想起されるのは、『書紀』などで「聖徳太子」が「摂政」であったと書かれていることです。「推古天皇」から全権を与えられて、「摂政」として国政全般を見ていたものと思われますが、このように描かれているのは倭国王「阿毎多利思北孤」の王子「利歌彌多仏利」が「摂政」であったからではないでしょうか。これをモデルとして「聖徳太子」という人物像ができていると考えられるのです。
ところで、本来「摂政」というのは、君主が幼少、病弱、不在などの理由でその任務を全うできないとき、それに代わる人物が君主に代わって行うことですが、「利歌彌多仏利」の場合はどうであったのでしょう。
「利歌彌多仏利」は「太子」とされていますが、上で見たように「天子」に準ずる立場にいたと考えられ、それは「阿毎多利思北孤」が仏教(「法華経」)に「帰依」し、「出家」したため、「利歌彌多仏利」が「俗世界」の「最高権威者」として存在していた事を示すと考えられるものです。
「九州年号」を見ても、この時期「法興」年号が「端正」以降の年号と「並列」しており、明らかに「二重権力」構造化しているのがわかります。
「主幹系列」としての年号群は以下の通りです。
端政(五八九〜五九三)/告貴(五九四〜六〇〇)/願転(六〇一〜六〇四)/光元(六〇五〜六一〇)/定居(六一一〜六一七)/倭京(六一八〜六二二)/仁王(六二三〜六三四)/
これに対し「別系列」と考えられるのが、以下のものです。
端正(五八九〜五九〇)/始哭(始大)(五八九〜五九〇)/法興(五九一〜六二二)
これは「阿毎多利思北孤」による「宗教的」な権力者と彼の出家による「法号」が「年号」のように使用され、「弟王」である「難波皇子」による「実務的」権力者としての「行政」に基づく「年号」とが「並列的使用」とされ、「権力」の「二極化」という政治情勢であったと見られます。
「法隆寺」は各種伝承によれば「六〇七年」の創建とされていますが(これは「元興寺」としてのものか)、その「様式」は「四天王寺形式」ではありませんでした。「四天王寺」は「阿毎多利思北孤」と関係が深い寺院であり、この当時「寺院建築」の模範となっていたと考えられますが、(現「法隆寺」の「前身寺院」(若草伽藍)も「四天王寺式」であった模様です)「法隆寺」ではその形式を踏襲せず「新形式」である「塔」と「金堂」を並列に配置し、「金堂」を「東面」して配置する「東面金堂」の形式を採用しているのです。(これは後に「観世音寺式」と呼ばれるようになるものです)
このことから、この「法隆寺」の創建で主体的な立場にいた人は「阿毎多利思北孤」ではなく、「弟王」である「難波皇子」ではなかったかと推察されます。
「阿毎多利思北孤」は「法華経」の講義を受けて「出家」し「法王(法皇)」という地位にいたと考えられ、また「仏教布教」などで不在になることが多く、特にその治世晩期には「難波」に仮宮を設け、常駐していたように考えられますので、「太子」(あるいは「弟王」か)が「太宰」(というより「摂政」)として「筑紫」で「留守居役」を努めていたのではないでしょうか。
元々「倭の五王」のころ、南朝が健在であったときには南朝からの授号の中にもあるように、倭王は兼都督(大将軍)であったのですし「密かに開府」しているのですから、倭国内に「都督府」があったのは自明ですが、「太宰」ではありませんでした。「太宰」は「南朝」のキにいて皇帝の側近くに仕える、「家臣」の中の最高位にある人物でしたから、倭国にいるはずがなかったのです。
しかし、「隋」が南朝を滅ぼし、「阿毎多利思北孤」が「天子」を名乗る体制になってから、倭国体制を大きく変貌したと考えられます。
「倭国王」が「天子」の位置に座るようになると「弟王」を「太宰」として任命していたと考えられ、その後「阿毎多利思北孤」が仏教の布教に専心するようになると「弟王」は(昇格して)「倭国王」の仕事を代理で実行する「摂政」になったのではないでしょうか。そして、彼の配下に別に「太宰」を置いたのではないかと考えられるのです。
この様な体制であれば「実質的」には最高権力者は「弟王」である「難波皇子」であることとなります。
「聖徳太子」という人物の伝説は「倭国王」である「阿毎多利思北孤」と「弟王」である「難波皇子」、さらに「太子」である「利歌彌多仏利」の三者の「事績」が混然として伝えられているように思われます。実際には「権力」が二分されていたことを推定させるものであり、彼らの行動が「聖徳太子」という人物一人に集約されているのではないでしょうか。
これは「卑弥呼」と「壱與」の二人の事績が「神功皇后」という人物一人にまとめられていたことを連想させるものであり、『書紀』の常套手段かもしれません。
また『書紀』の「六三二年」の年次の項に書かれている「高表仁」の「王子と礼を争った」という一件は(これについては「六四一年のことであったと考えられますが)、「法隆寺」の「釈迦三尊像」の「光背銘文」からは、すでに「六二二年」に「上宮法皇」(これは「阿毎多利思北孤」と考えられる)は死去していると見られることから考えて、この時代は「利歌彌多仏利」が跡を継いで正式に「倭国王」であったと考えられますが、彼の「王子」についても同様に「摂政」の位置にいたのではないでしょうか。
それは「利歌彌多仏利」も後半は「阿毎多利思北孤」と同様「難波」に常駐していたように考えられるからです。
(このことが「利歌彌多仏利」が死去した時点で、彼の王子が難波を「副都」とする決定を行う素地となったのではないかと考えられます)
また、このことについて「王」と「王子」と二種類の記録が中国史書にある(『旧唐書』と「冊府元亀」など)のは、この「摂政」である「王子」を「王」とみなすかそうでないかの「差」であると思われます。既に「利歌彌多仏利」が「聖徳法王」として「倭国王」の実権を「太子」である「伊勢王」に譲渡していたとすると、「伊勢王」は「王」とも「王子」とも言えるわけであり、その認識の差が記事の混乱につながっていると考えられます。
(この項の作成日 2011/06/06、最終更新 2014/11/26)