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「魏晋朝短里」(周の古制)の使用されていた時期


 『万葉集』の中に「短里」が存在しているという指摘が、古田武彦氏の研究(「よみがえる卑弥呼」駸々堂)によってなされています。(再掲)

「万葉集八一七番歌」(以下読み下しは『伊藤博校注『万葉集』「新編国歌大観」準拠版』によります)
「筑前国(つくしのみちのくに)怡土(いと)郡深江村子負(こふ)の原に、海に臨(のぞ)める丘の上に二つの石有り。大きなるは長(たけ)一尺二寸六分、囲(かく)み一尺八寸六分、重さ十八斤五両、小さきは長一尺一寸、囲み一尺八寸、重さ十六斤十両。ともに楕円(まろ)く、状(かたち)鶏子(とりのこ)の如し。その美好(うるは)しきこと、勝(あ)げて論(い)ふベからず。いはゆる径尺(けいせき)の璧(たま)これなり。…深江の駅家(うまや)を去ること二十里ばかり、路の頭(ほとり)に近く在り。公私の往来に、馬より下りて跪拝せずといふことなし。…」
  
 この「鎮懐石」が祭られていたという「丘」は以前「鎮懐石八幡宮」が鎮座していたという「深江町」の高台を指すと考えられますが、上の「序詞」の表現からも「古代官道」沿いにあったと考えられ、「駅舎」からの距離表示は正確であると思われます。
 ここに出てくる「深江駅家」というのは現在の「糸島市二丈深江」にあったものとされており、また「鎮懐石八幡宮」は同様に「深江町内」にあったと見られるわけですから、それらの距離は、ほんの目と鼻の先と云うこととなり、「二十里ばかり」というのが「長里」で理解できるものではないことは明白です。
 このように「里」という「測地系」の単位に関して、それが「短里」であるとすると、同様に「短里系」のシステムの「一環」として理解すべきではないかと考えられるのが、この歌の「序詞」に書かれている「鎮懐石」のサイズと重量です。

 この「基準尺」については、『万葉集』の他『風土記』にも現れています。
(以下の読み下しは『秋本吉郎校注「日本古典文学大系 風土記」岩波書店』によります)

「筑紫の風土記に曰く、逸覩(いと)の縣、子饗(こふ)の原に石兩顆(りょうか)あり。一は片長一尺二寸、周は一尺八寸、一は長一尺一寸、周一尺八寸。色白くして、圓(まろ)きこと磨(みがき)成せるが如し。俗傳へて云う、息長足比賣命、新羅を伐(う)たんと欲し、軍を閲(けみ)するの際、懷娠(かいしん)漸(ようや)く動く。時に兩石を取りて裙腰(もこし)に插(さ)し著(つ)け、遂に新羅を襲う。凱旋の日、芋?野に至りて、太子誕生す。此の因縁有りて芋?野と曰う。産(うむ)を謂いて芋?野と為すは、風俗の言詞のみ。俗間の婦人、忽然(こつぜん)として娠動(しんどう)すれば、裙腰に石を插(さしはさ)み、厭(まじな)ひて時を延べしむ。蓋(けだ)し此に由るか」

 ここにも「寸法表示」があり、それは『万葉集』の表記とほぼ一致していますから、(重量表示はないものの)原資料が共通していることが推定されます。しかしすでに見たように「薄葬令」段階では「隋」の「度量衡」が導入されたものと見られ、この時点で「六尺一歩」制が行われるようになったものと見られるわけです。つまり上の「万葉歌」や『風土記』の時代は「薄葬令」以前であると見られるわけであり、主に六世紀末以前の状態を示すものと考えられます。
 またそこに書かれた「寸法」及び重量表示として最も合理的な理解ができるものは「周・魏晋」代の単位であり、一尺として19.7cm程度が該当すると思われます。
 つまり『風土記』や『万葉集』には「周・魏晋」の古制が表れているわけであり、その『風土記』編纂が「八世紀」であるという点を捉え、「魏晋朝」の「古制」が「八世紀」段階においても(筑紫付近では)使用されていたと見なす古田氏などの考え方もありますが(※)、当然そうとは考えにくいこととなります。それは、上の『万葉集』の「序詞」が一見「山上憶良」が実見した「大きさ」や「距離」であったと見なせるようですが、実際にはそうではなく、既に成立していた「記載」からの「引用」であったという可能性が強いと思われるからです。
 それはこの歌の「左注」に現れていると思われます。そこには「右事傳言那珂伊知郷蓑嶋人建部牛麻呂是也」とあり、この「序詞」の部分は「山上憶良」ではなく「地元」の人とされる「建部牛麻呂」によるというわけですが、そこでは「傳言」という表現がされています。つまり「建部牛麻呂」はこの「神功皇后」に関わる伝承を口伝によって継承していたものであり、それはこの「序詞」に書かれた全体がそのような性格のものであったという可能性が高いものと思料します。ここに書かれた記事の全体が「建部牛麻呂」が伝承し来たったものであったとすると、そこに現れている「単位」についても「伝承」の中のものであり、「山上憶良」達が生きていた時代のものではなかったという可能性があるでしょう。

 そもそもこの「鎮懐石」が奉られていた「鎮懐石八幡神社」は、かなり古式ゆかしい神社と考えられ、「鎮懐石」はそこで「ご神体」と崇められていたわけですから、そのようなものを「山上憶良」など外部のものが手にとって眺めたり、まして、その寸法を測ったり、重量を測定するなどと言うことが可能であったとは考えられません。それは「建部牛麻呂」にあっても同様であったと思われ、いくら地元の人間であったとしてもやはり「ご神体」について直接測定などができたとは思えませんから、これは「建部牛麻呂」の語った内容全体が彼の経験したことではなくあくまでも「傳言」であったということを示していると思われ、それを「山上憶良」が聞き取りしたものであると見られるのです。
 「山上憶良」は彼から聞き取りしたものに基づいてこの「鎮懐石」について歌を歌ったという可能性が考えられます。
 このような「神社」に伝わる伝承というものの淵源はかなり古いものと考えられますから、これが「神社」に伝わっていた資料に基づくとすると、「八世紀」をはるかに遡る時期に書かれた可能性が高いものと思料されます。これらの数字が「神功皇后」につながる伝承として伝えられてきたことを考えると、少なくとも「六世紀」以前までは遡上するという可能性が高いでしょう。(そう考えるとこの歌が収められている『万葉集』そのものの成立もかなり早かったという可能性が出てくる事となりますがそれは後ほど触れることとします。)
 ただし「はるくさ木簡」の出現により、「和歌」が造られるようになった時代というのが従来の想定よりはるかに遡上することとなったと思われ、『万葉集』の成立時期も同様に早まると推定されます。

 この「はるくさ木簡」が書かれる時代には既に多くの人達により「万葉仮名」を用いて「和歌」が書かれていたことを示すものであり、それを「まとめた」ものとしての「原・万葉集」とでも言うべきものがこの時代に一旦成立していたと考えて不自然ではないといえるでしょう。
 またそれは、いわゆる「縣(県)風土記」の存在からも言えると思われます。この「縣(県)風土記」については「国県制」が「六十六国分国」と併せ成立した時点における「編纂」と推定されるものであり、例えば『常陸国風土記』において「古老」が「今」として語る場面がありますが、そこでは「縣(県)」が「今」の制度として語られており、明らかに「七世紀初め」の「利歌彌多仏利」の改革の時点における用語であったものと推量されます。

「筑波郡 東茨城郡南河?郡西毛野郡北筑波岳.
 古老の曰へらく、筑波の縣は古、紀國と謂ひき。美万貴天皇のみ世、采女臣の友屬(ともがら)筑?命を紀國の國造に遣はしき。時に、筑?命いひしく、「身(わ)が名をば國に着けて、後の代に流傳へしめむと欲(おも)ふ。即ち、本の號(な)を改めて、更に筑波と稱ふといへり。(以下略)」

 ここは「筑波」という「郡」に関する記事であり、この「郡」は「八世紀時点」の「郡」と考えられます。そして「古老」が言う「筑波の縣は古、紀國と謂ひき」という言い方は、「今は」「筑波の縣」だが「古は」「紀國」という意味と理解されますから、古老の生きている時代には「縣」が(後の郡の代わりに)使用されていたこととなります。
 つまり「郡」の時代ではない時代に「古老」は生きているわけであり、それは(評制ではなく)「県制」が施行されていた時代であるとすると、「六世紀末」から「七世紀初頭」付近という時期が相当することとなるでしょう。
 そのような内容を含んでいる『風土記』が「八世紀」になって「新日本国王権」による「新・風土記」編纂という事業の際に「再利用」されたものである可能性が高いものと思われます。
 「元明」の『風土記』撰進の詔の内容は「各地の風俗」「名産」「山河の名前の由来」などを「国司」がまとめて報告せよというものであり、当然その「由来」や「伝承」が「古くからのもの」であるのは当然であると思われます。そのようなものを既にまとめたものが手元にあり、また利用できるのであれば、それを取り込んで「報告書」として書くのもまた当然とも言えるでしょう。
 このようにして、一度作られていた『風土記』が再度「換骨奪胎」され、『新・風土記』に転用されたものであり、そうであればそこに現れる「短里」などが「古制」によって表記されているのは当然であると言え、「鎮懐石」伝承も既にその段階で書かれていたと考える事ができると思われます。つまりこの「伝承」はそれ以前の時代に属するものと推察されるものであり、そこに使用されている「度量衡」についてもかなり以前の倭国(特に北部九州)の状況を示すものではないかと推量されます。

 上に見るようにこの『筑紫風土記』には「古制」であるところの「寸法」と「重量」が表記に使用されていたわけですが、また「縣(県)」が現在の制度として使用されているようにも見えます。(さらに「短里」も見える)これらは関連しているものでありいわば「セット」と思われますから、「八世紀」段階で「縣(県)」という行政制度については明らかに使用されていなかったとみられることから、「寸法」「重量」などの「古制」についても「八世紀」という段階ではすでに使用されなくなっていたと見るべきこととなるでしょう。つまり、いずれも「八世紀段階」の真実ではなく、それをかなり遡上する時期のものであって、「周代」以前の「古制」が「八世紀」に至ってなお使用されていたとは言えないということになると思われます。

 「倭国」は「隋」と通交して以降「隋制」を多く取り入れたものであり、その中に「単位系」の導入と旧来の単位系の棄却ないしは変更というものがあったと見るべきであり、『万葉集』と『風土記』に見る「古制」はその始源がその「隋制」導入以前のものであることを示すものであって、「六世紀末」付近が最も想定できるでしょう。
 この「周代」以前と推測される「古制」は、「阿毎多利思北孤」の改革により「改定」され、命脈が尽きることとなったのではないでしょうか。


(※)古田武彦「九州における短里」(『シンポジウム 邪馬壹国から九州王朝へ』所収 新泉社 古田武彦編 一九八七年)
邪馬壹国から九州王朝へ


(この項の作成日 2012/12/17、最終更新 2017/02/24)