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筑後の「正倉院」と「崇道天皇」


 奈良の「正倉院」の中には「東大寺」が「写経」を奉納したものが多く保存されていますが、それは「朝廷」から払い下げられた「公式文書」で保存期間を過ぎたものの「裏紙」が使用されており、そこに当時の公的記録が記されているという点で貴重なものとなっています。(紙背文書という)
 これを通常「正倉院文書」と言っていますが、その中に各国の「正税帳」が含まれており、その中の「筑後国」に関わる部分では、「調」として「鷹狩のための養鷹人と猟犬、白玉、青玉、縹玉などの玉類」などと記載されているのが注目されています。通常各国からの「調」は、稲、塩、酒、粟などを納めるのが普通であるのに対し、「筑後国」の貢納物はこれと著しく異なっているのです。
 このような「玉類」である「白玉、青玉、縹玉などの玉類など」を「筑後国」から貢納していると言うことは、それ以前には「筑後国」のどこかに保管されていたこととなりますが、そのような貴重なものを保管する場所があったのでしょうか。これは通常の「屯倉」などでは保管しない性質の物品ではないかと思われるのです。
 これについては『筑後国交替実録帳』( 一二四一年) という文書が残っており、この中には「筑後」に「正倉院」があったという記事があるのが注目されます。
 通常各国には朝廷に納めるべき「正税」を保管する「正倉」があったとされますが、「正倉『院』」となると「奈良」の都にしかなかったとされているのです。しかし、この記録によれば「正倉院」が「筑後」にあったことになります。これが「筑後」独自のものであるのは重要であり、ここが「旧王朝」である「倭国」の中心領域であり、そこに「正倉院」を造り、数々の財宝の収集保管がされていたこととなります。
 (「正倉院」は一般に各国府所在地にあったという説もありますが、それは「大君の遠の朝庭」があちこちにあったという説と五十歩百歩の根拠のない主張です)
 しかもこの「正倉院」を造ったのは「崇道天皇」であるとされているのも無視できません。

「生葉郡
正倉院
崇道天皇御倉一宇
西ニ屋一宇《五間》


〈不明〉郡
正倉院
崇道天皇御倉一宇
東三屋一宇
…」
『筑後国検交替使実録帳』(「宮内庁書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」より)

 このように「実録帳」という正式な報告書に「崇道天皇御倉」というような表記がされているのは、現地では確かにその「倉」が「崇道天皇」に関わるものという記録なり伝承があったことを示すものであり、それはそのような「事実」についての「信憑性」を著しく高めるものといえます。
 しかし通常「崇道天皇」というのは「桓武天皇」の弟「早良親王」を追号したものとされています。ただし「早良親王」は知られている限り、筑後に「正倉院」など建ててはいませんし、基本的には九州や筑紫には関係のない人と捉えられています。この現地に残る「崇道天皇」伝承は何を意味しているのでしょうか。

 そもそも彼の名前に使用されている「早良」というのは「筑紫」の中心部の地名です。このことは偶然とは考えられず、彼の出生と関連があるものと考えられるでしょう。
 これについては彼の母の「高野新笠」の出身母体である「百済王氏」が勢力を近畿に伸ばす前は「筑紫」に本拠があったものではないかと考えられ、そこで生まれたため「早良」という名を付けられたものではないでしょうか。
 つまり、「早良親王」という名前は「母親」を通じて「筑紫」との関連が感じられるものです。
 また「早良親王」の生年である「七五〇年」は、「大仏開眼」の二年前であり、母の「高野新笠」達は「筑後からの献上の技術や品々」に関わって近畿にやってきたと考えられるものです。

 この「正倉院」に集められた「玉」類は、「全国」の「屯倉」などに集められたものをさらに集積したものと考えられます。そもそも「屯倉」それ自身が「王権」直属の物資集積場所であり、そこに集められた物資(特に貴重なものなど)は「王権」に直送されるものであり、それが貯蔵・保存される場所が「正倉院」であったと思われる訳です。そして「筑後」(生葉郡など)に「正倉院」が存在しているというのは、そこが「権力中心」であった証左とも言えるわけです。つまりその時点で強大な権力が「筑後」を中心に展開していたことを物語るものですが、それはその時期として「倭国」を統一した時期が措定されるものであり、「七世紀」の始めというのが最も適切なタイミングと考えざるをえないものです。

 「正倉院」が「筑後」に造られたとすると、当然「宮殿」もその至近に存在していたと見られ、この場所に「都城」を造る一環として「肥の国」から「筑後」に相当する領域を割譲・編入した時期が想定されます。この時期は「六十六国分国」という事業が行われる段階の「直前」の事として想定されるものであり、最初に「肥後」という地名が『書紀』で見られる「七世紀初め」ないしはそれをやや遡る「六世紀末」が考えられます。
 この時点で各国の「屯倉」から「調」が送られてくるようになったと見ることができそうですが、それはこの時点付近で「天下立評」つまり「評制」を全国展開したと見られることと深く関係しているでしょう。つまり「評制」が広い地域に施行されたとすると「評」が「屯倉」を基にした制度と見るべきことを視野に入れると、「評」の広範な地域への展開は即座に「屯倉」の展開ともいえ、そこから集積される物資の大量化に結び付くことが推定できます。そしてそれらを集積する建築物として「正倉院」が「筑後」に造られたとすると、それに強く関わった人物として「崇道天皇」がいたとした場合、彼は「遣隋使」を派遣した「阿毎多利思北孤」あるいはその「太子」とされる「利歌彌多仏利」と近しい関係にあったことが推定できます。

 「物部」という反倭国勢力、反肥後勢力を打倒した後、国内体制の改革を進めた「阿毎多利思北孤」と「弟王」「難波皇子」は国内を「六十六国」に分割・再編成し、そのための「官僚」を任命するなどして「倭国」で初めての「中央集権体制」の構築を進めたと考えられます。
 それはもちろん「不完全」「不十分」ではあったものの、日本列島最初の「統一倭国王」として広範囲に「倭国王」の「権威」を透徹する体制を整えていったものであり、その結果「全国」から「調」として各地域の「名産品」が献上されるようになったものでしょう。これらは諸国に設置された「屯倉」に集積され、それを「官道」を通じて「倭国中央」に上納していたと考えられるわけです。(このような体制は「宣化天皇の詔」などでも明らかです)
 このように全国の「屯倉」から「多量」の物資が送られてくるようになると、それらの中には「特に価値の高い物品」もあったものと考えられ、それらを収納するためのものとして「正倉院」が造られたものと思料します。
 『実録帳』から確認される「玉類」もそのような「屯倉」からの直送物資であったと思われる訳です。

 「早良親王」は「兄」である、「桓武天皇」から「謀反」を疑われ、これに抗議して断食し、その結果「死去」したわけですが、その後「祟り」と受け取られるような事件が続発したため、「桓武天皇」はその「祟り」を鎮める措置を講ずることが必要と考えたもののようです。
 生前「早良親王」は兄「桓武天皇」の片腕として非常に有能ぶりを発揮していました。それ故に「桓武天皇」に子供ができると「疎まれる」事となったのです。それがエスカレートした結果の「謀反」の疑いであったものでしょう。 しかし、彼は「なぜ」「崇道天皇」と諡(おくりな)されたのでしょうか。
 彼の「霊」を慰めるためには「崇道天皇」でなければいけなかったし、それが一番適切な「諡」であったと考えられたからでしょう。そう考えると、この「崇道天皇」という名前には「隠された意味」があると言うことになりそうです。

 「兄」である「桓武天皇」はこの「名称」を亡き弟に贈ることで「慰霊」になり、また「祟り除け」となると考えたのです。このことは「崇道天皇」という名称は「桓武天皇」には「覚え」がある名称だったと考えられ、「過去」にそのような「諡」を名付けるのが必要で、なおかつ、また、それにより「祟り」が防ぐことができたという事例があったものと推測されます。しかし、「天皇家」の歴史の中にはそのような前例が見あたりません。つまり、「近畿天皇家」の中を見ている限り「なぜ」「崇道天皇」なのか全く理解できないのです。
 「近畿天皇家」に前例がないのであれば、「他王朝」に前例があったとみるべきであり、そうであれば「倭国王権」の中にそのような例があったと考えるべきでしょう。可能性としては「難波王」あるいは『隋書』に云う「利歌彌多仏利」とその「兄弟」の場合がその前例として考えられます。
 つまり「桓武天皇」と「早良親王」はいわば「兄弟統治」を行っていたものであり、そのはるか先例は『隋書俀国伝』に書かれた「阿毎多利思北孤」とその弟王にあったものです。
 つまり「阿毎多利思北孤」に擬される「難波王」は「兄」である「押坂彦人大兄」とともに「弟王」として「兄弟統治」を行っていたものと思われますが、「押坂彦人大兄」の死後は同じく弟王である「春日王」などと『兄弟統治』を続けていたと思われます。しかし「阿毎多利思北孤」(「難波王」)に子供(太子「利歌彌多仏利」…これは「栗隈王」か)が生まれ、「春日王」が「邪魔」になり(後継争いが複雑になるため)、これを「亡き者」にするという事件が起きたのではないかと推察します。
 そして、彼が亡くなった後「祟り」と考えられることが起き、その「鎮魂」のため「崇道天皇」と追号したものとすると、「桓武天皇」が、この故事を知っていてこれに倣い、「早良親王」に「崇道天皇」と追号したと見ることが出来そうです。

 つまり「早良親王」というのは「春日王」の別名であるとも思われ、彼の業績として「筑後」に「正倉院」などを造ったと考えられるわけですが、そうすると彼はこの当時「筑紫太宰」として存在していたという可能性も考えられるでしょう。
 後に「栗隈王」が「筑紫大宰」として「壬申の乱」の記事中に登場しますが、彼の弟たちや子供達もほぼ全員「筑紫」にいてそこに本拠を持っていたことが推定されており、この事は「押坂彦人大兄」を初めとする「押坂王家」全体とした彼ら一族が「筑紫」に非常に縁の深い氏族であったことを想定させるものでもあります。


(この項の作成日 2011/10/11、最終更新 2019/05/12)