「阿毎多利思北孤」と「弟王」の時代(実年代)は「六世紀末」から「七世紀初め」であり、これは『書紀』で言う「推古天皇」の時代に重なっており、「聖徳太子」の業績とされるものは「阿毎多利思北孤」とその弟王(これは「難波皇子」に擬された人物)の業績と対応していると考えられます。
その「聖徳太子」に関わる伝承の中に「六十六国分国」というものがあります。それによれば彼は「成務天皇」により「三十三国」に分国されていたものを更にその倍の「六十六国」に分けたとされています。(「古賀達也氏」の論文「続・九州を論ず−国内資料に見える『九州』の分国」「九州王朝の論理」所収二〇〇〇年五月二十日明石書店を参照してください)
これに関しても同様に「阿毎多利思北孤」と弟王(難波皇子)の業績と考えるべきでしょう。
この「六十六国分国」という事業は全国(陸奥を除く)を「法華経世界の具現化」のために、既に「広域行政体」としての「国」が成立していたところでは「前・後」などに「強制分割」するなどし、まだ成立していなかった地域では各「クニ」を統合するなどして無理に「六十六」という数字に合わせたものです。そして「六十六国分国」の実態というものは「倭国中央」とその「直轄領域」に施行された「国県制」と全く同一の事業と考えられ、それを示すのが『常陸国風土記』の冒頭の記事であると思われます。
「古者 自相模国足柄岳坂以東諸県総称我姫国 是当時不言常陸 唯称新治筑波茨城那賀久慈多珂国 各遣造別令『検校』(実際にはいずれも「てへん」)」「其後 至難波長柄豊前大宮臨軒天皇之世 遣高向臣中臣幡織田連等 総領自坂已東之国 于時 我姫之道 分為八国 常陸国 居其一矣所以然号者 往来道路 不隔江海之津済 郡郷境堺」
上の文章からは「古」は「我姫国(道)」が「唯称新治筑波茨城那賀久慈多珂」という国々で構成されていたことがわかります。そしてそこには「造」や「別」など派遣されていた、という事のようです。しかし、この文章にある「相模国足柄岳坂以東」という表現からわかるように、「我姫国」は「広大」とも言える広さがあったものであり、(現在の「関東」とほぼ同じか)このような広さの領域に対して、個々の「国」に「別」や「造」を個別に配置するだけでは、「統治行為」の執行が甚だしく不十分であるのは明らかであると思われます。この様な状態は「個々の」「国」(ないし「県」)の主体性が強くなりやすく、「倭国中央」の「権力者」の意志が「透徹」しにくい体制であると考えられ、この段階では少なくとも「常陸」の領域に権威を及ぼすことのできる「強い権力者」つまり「統一王者」と言うべき「存在」がまだ発生していなかった事を示唆します。
そして、これが「其後」「難波長柄豊前大宮臨軒天皇之世」になって「我姫之道 分為八国」となり、「新治筑波茨城那賀久慈多珂」はまとめて「常陸」の国となったというわけですから、この段階で「強い権力者」が発生したものであり、「統一王者」の出現となったものと考えられます。
ところで、この「其後」以降の記事については従来「難波長柄豊前大宮臨軒天皇」というものが「無条件」に「孝徳天皇」のことと考えられ、ここに書かれた「我姫之道 分為八国」という事績も「孝徳天皇」のものと考えられており、従来は「大化の改新」により「律令制」が施行され、「国郡制」が始められたことを指すものとされていたようですが、これについては「大化の改新」そのものに疑義が発生している現状と、また「木簡」その他から「評」の存在が確定した現在、この文章の解釈は変更になったものとみられ、これは「孝徳天皇」の時代(「難波朝廷」)に「評制」が始まったことを意味する記事と考えられるようになったようです。
しかし、それでは「難波朝廷」(つまり七世紀半ば)まで「強い権力者」は現れなかったことになってしまいますが、この解釈は『常陸国風土記』の別の部分に書かれている以下の記事から考えて疑義があります。
「『筑波郡』 東茨城郡南河?郡西毛野郡北筑波岳
古老曰 『筑波之縣』古謂『紀國』 美万貴天皇之世遣采女臣友屬筑?命於紀國之國造時 筑?命云欲令身名者著國後代流傳 即改本號更稱筑波者 風俗諺云握飯筑波之國 以下略之」
ここは「筑波郡」の記事であり、この「郡」は「八世紀時点」の「郡」であると思われます。そして「古老」が言う「筑波之県」というのが「郡制」以前の制度であると考えられ、更に過去に遡ると「古謂紀国」というわけです。
上の例で見ると「県」が使用されていた地域は、それ以前「国」(クニ)であったと言う事が解ります。そして、これはその後(八世紀)「郡」となる、という流れと理解されるものです。
ところで、「評制」施行については多くが「七世紀半ば」という時点を想定していますが、私見では「七世紀」以前にすでに「評制」は施行されていたと見るべきと思われます。さらにその上部組織である「国」制がどうなっていたのかについても議論がかなり紛糾しているようですが、たとえば「評制」施行以前に既に広域行政体としての「国」が成立していたという意見も少なからずあるのに対して、「評制」が施行された時点において「国」制も施行され、いわゆる「国−評制」が成立したと見る見方もあります。さらには「評制」施行時点ではまだ「広域行政体」としての「国制」はなかったと見る考え方もあります。これは以前の「クニ」がそのまま「評」になったと見る見方です。
このように「評」と「国」との施行時期の組み合わせとしたいくつかあるわけですが、私見では「評」が成立した時点ではまだ「広域行政体」としての「国」はなかったと考えます。つまり「国県制」の施行は「評制」に遅れると思われるのです。
「木簡」の解析によると「評」から書き始められるタイプのものがかなりあり、「国−評−五十戸」というような書き出しのものよりはるかに多いことが確認されています。これは「国」の成立以前に「評」が施行されていたことを示すものと思われ、後の「令制国」に相当する広域行政体としての「国」の成立は「屯倉」に付随して発生したと思われる「評」より遅れると思われることとなります。ただしその「評制」は全面的に施行されていたわけではなく、「屯倉」に付随するという初期の特徴から局所的存在であった可能性が高いものと思料します。
「倭国」の本国とその「直轄地」とも言うべき地域には以前から(諸国と違って)「国郡県制」が施行されていたと思われます。それはその「国郡県制」というものが「中国」の正統な行政制度であり、「南朝」に臣事していた倭国王がそのような権威と伝統のある制度を導入していなかったはずがないと思われるからです。
「倭国」は「武」の上表文からもわかるように「開府」しているのであり「官職」などを「倭国王」が中国に倣って(真似して)施行していたとされます。このようなことから「秦漢以来」の伝統のある「国郡県制」を採用していたと見るのは不自然ではないと思われます。但し、それが「列島全体」に及んでいたかというのは疑問であり、上に述べたように「倭国」の本国である「九州島」を中心とした「限定的領域」への施行に留まっていた可能性が高いと思料します。
そして、「評制」の「天下」への施行という状況になっても、「倭国」の本国とその直轄地域ともいえる場所には「評制」ではなく「国県制」が(国郡県制から変更されて)施行されたものであり、そこでは「郡」がなくなり、「国」が「縣」を直接統治する形へと変更されたものと見られます。しかし、それ以外のいわゆる「諸国」では「クニ」(広域行政体ではなく)が「評」へ変更される形で「評制」が「全面的に」施行されたものであり、それと併せ「広域行政体」としての「国」が成立したものと見られます。つまり「諸国」では「国評制」が施行されることとなったものです。
『常陸国風土記』の冒頭の記事は「我姫之道 分為八国」となっており、明らかに「国」のレベルの再編成を示していますから、ここに書かれた事業は、「国県」制あるいは「国評制」の施行段階を示すものではないかと考えられます。
「我姫」が「八国」に分割された時点で、その下層には「評」が造られたと思われますが、この「常陸」という国に限っては「県」が作られたものであり、その「県」はそれまで「国」(クニ)であったものを再編成したものと推察されます。これは「常陸」が「倭国王権」の直轄領域であったものであり、ここに「アヅマ」全体を統治する「総領」を配置していたと思われます。そして、その「評」及び「県」は後に「郡」へと変わったものです。(ただしそれは「呼称」だけの変更ではなかったことは確かであり、領域そのものとその「性格」も変化したことが窺えます。)
また、ここで施行されたと考えられる「国県制」は、明らかに「隋」の「州県制」に関連があると考えられるものです。これ以前に中国に対し「制度」導入などの意図を持って使者を派遣した記録は、「倭の五王」以降に限れば「遣隋使」しかないわけですから、そのことは即座に「国県制」が「遣隋使」によりもたらされたものであると推測されるものです。
「国県制」の施行は「隋」においては「初代皇帝」(文帝)の治世下のことでしたが、早速その次代の「煬帝」の即位以降それが廃されることとなり、再び「郡」を復活させることとなったとされています。
(隋書/帝紀第一/高祖 楊堅 上/開皇三年)
「(開皇)三年十一月…甲午,『罷天下諸郡』。」
(隋書/帝紀第三/煬帝 楊廣 上/大業三年)
「(大業)三年夏四月…甲申,頒律令,大赦天下,關?給復三年。壬辰,『改州為郡』。改度量權衡,並依古式。改上柱國已下官為大夫。」
これで見ると「開皇三年」(五八三年)に「罷天下諸郡」とされ、「大業三年」(六〇七年)に「改州為郡」とされていますから、「倭国」に「国県制」が伝わったのは、結局上記期間に限定されることとなります。この間に「遣隋使」が派遣されたものであり、彼らが持ち帰った知識の中にこの「国県制」があったと見られることとなるわけです。このことは「大業三年」に派遣されたと言う『推古紀』の「遣隋使」記事がもし正しかったとしてもその派遣月が「十一月」とされていることから、この「郡制復活」以降のこととなってしまい、彼らが「国県制」を学んで持ち帰ることはできなかったであろうと推測されることとなります。そうであれば「遣隋使」が派遣されたのは「六〇〇年代」以前のことであった可能性が非常に高いと考えざるを得ないものであり、「我姫」が「八国」に分けられたのはその時点付近の「六世紀末」であったという可能性が高いものと思料します。
ところで『三大実録』の「貞観三年十一月十一日条」に「國造之号永從停止」という記事があります。
『三大実録』
「貞観三年(八六一)十一月十一日辛巳。…
書博士正六位下佐伯直豊雄疑云。先祖大伴健日連公。景行天皇御世。隨倭武命。平定東國。功勳盖世。賜讃岐國。以爲私宅。健日連公之子。健持大連公子。室屋大連公之第一男。御物宿祢之胤。倭胡連公。允恭天皇御世。始任讃岐國造。倭胡連公。是豊雄等之別祖也。『孝徳天皇御世。國造之号。永從停止。…」
この記事は「孝徳天皇御世」の時のこととして書かれています。一見これは「七世紀半ば」の出来事であるかのようですが、この「記録」の「原資料」には「孝徳天皇」とあったわけではないと思われ、(このような「漢風諡号」が付されたのは後代のことですから)それは「別の呼称」から「翻訳」されて「孝徳天皇」と見なされたものと思われます。つまり元々は「■■治天下天皇」のような表記であったものと思われますから、考えられるものとしては「難波治天下天皇」というような呼称が書かれてあったものと見られますから、本来「阿毎多利思北孤」ないしは「弟王」の「難波皇子」にかかる呼称であったと考えられますから、「六世紀後半」から「七世紀始め」の頃のことと推測されることとなります。(それは『常陸国風土記』にも表れていると見られるわけです)
さらに『日本後紀(逸文)』にも以下のような文章があります。
「日本後紀卷廿一弘仁二年(八一一)二月己卯(十四)」「詔曰。應變設教。爲政之要樞。商時制宜。濟民之本務。朕還淳返朴之風。未覃下土。興滅繼絶之思。常切中襟。夫郡領者。難波朝庭始置其職。有勞之人。世序其官。逮乎延暦年中。偏取才良。永廢譜第。…」
ここでは「郡領」という職掌が「難波朝廷」が始めて置いたものという認識が示されていますが、この見解は『書紀』などとは異なっています。
『書紀』などでは「郡制」は遙か以前から継続していたかのように書かれていますから、「難波朝廷」からというように時期が限定されてはいませんでした。しかしここでは「難波朝廷」というように明確にそれが始められた時点が書かれています。
これは「詔」ですから「天皇」の言葉であり、その解釈は恣意的であってはなりません。この事からここに書かれた「郡制」施行の時期は「難波朝廷」の事であったことが確実と見られることとなるわけですが、この記事は上の「三大実録」とも重なるものであり、一見これらは、「七世紀」半ばの「孝徳天皇」の時代に「国造」が停止され、代わりに「郡領」が置かれたことを意味するというように考えられそうですが、実際には『常陸国風土記』の書き方と同様、「阿毎多利思北孤」の時代である「七世的始め付近」のことと見るべきです。
上の『隋書』記事でわかるように「煬帝」即位以降「郡県制」が復活しています。この時点で「煬帝」の布いた制度に則ったとすると倭国内でも(特に「直轄領域」)国県制から国郡県制へと逆コースをたどった可能性が高く、「県主」から「郡領」へと呼称替えが行われたものと見られます。このことは「改新の詔」の中で「郡県制」が示されていることにもつながります。つまり『書紀』が示すように「改新の詔」は「難波朝廷」の時代に出されたものであり、その実年代としては「阿毎多利思北孤」の時代がそうであったと考えられるわけです。
彼らはこの時点で「国内統一」を果たすわけですが、そのために重要だったのが仏教であり「法華経」であったと考えられます。彼らはこれを「武器」(あるいは「ツール」というべきでしょうか)として国内諸国の再編成・再統合・分割という事業を行ったわけですが、その様な事業を行う「動機」というものには「隋」という存在が非常にインパクトがあったものと推測されます。
「五八一年」「隋」王朝が成立すると、「新羅」はすぐに使者を送り「隋」に対し「服従」の姿勢を見せると共に「隋」の皇帝をただ一人の皇帝と認めます。「隋」はその見返りに「楽浪郡新羅公」という称号を授けます。これにより「新羅」は「隋」の「柵封下」に入ったわけですが、他方「倭国」も「隋」に「使者」を派遣し、それまでの「南朝」偏倚から方向転換をしたものと見られます。つまり、「筑紫」を奪還し国内体制をさらに強固にする必要があった「倭国王権」はそのために「隋」から「文物」を導入することを企図したものと見られますが、「遣隋使」が語った内容について思いがけず「訓令」を受けることとなってしまい、その結果、「隋皇帝」(文帝)の仏教治国策に準じて「法華経」によって国内政策を進めることとなったものと見られます。
このように仏教導入を(結果的に)本格的に行うこととなった「阿毎多利思北孤」はその「六十六国分割」において、「倭国」本国とそれ以外の「諸国」という分け方自体を否定したかったのではないでしょうか。
「法華経」の教義に則り分割した「六十六国」について、これらの国々は「遍く仏の御威光の照らすところ」であり、彼には(「宗教的」には)それらについて、「倭国」の本国であるとか「属国」だとかと「区別」する意義を見いだせなかったのでしょう。このことが「意識」されて「全国統一」という動きの下地になったものではないかと考えられます。
それまでは、「倭国」と言えばそれは「倭国」の「本国」である「九州島」のその近辺に限定されていたものであり、それ以外については「諸国」であり「属国」であったものです。つまり、「倭の五王」以来その版図に入った国々とそれ以前から「倭王」の居する近辺の国々とは明確な区別があったものでしょう。
一種の「エリート意識」かもしれません。そのような意識の差を無くしたのが「法華経」講義であり、それに感化された「阿毎多利思北孤」は国内を「平等」に扱おうとし、そういう「意識」の上から「六十六国分割」を実施し、(「筑紫」でさえ前後に分けられたことがそれを示しているようです)「統一倭国王」というものを目指したものと思料されるものです。
(この項の作成日 2011/07/26、最終更新 2015/10/04)