ところで、『書紀』で確認される「筑紫」の多くは「小筑紫」とでも言うべき「福岡県」程度の広さを指していると考えられます。古田氏が『盗まれた神話』の中で指摘したように「天孫降臨の地」も「福岡県を指す「狭義」の「筑紫」でした。(日向峠付近か)
また、同様のことは「磐井」の記事からも言えることです。
「磐井」については「筑紫国造」とされ、また「筑紫君」ともされています。(「子」とされる「葛子」も同様)そして、『書紀』の記載を見ると「肥」「豊」の二つの国に「拠点」があるというように書かれており、この事からも「筑紫」の領域と「肥」の領域や「豊」の示す領域は異なっている、と分かります。
他にも「宣化元年の詔」などでも「夫筑紫國者遐邇之所朝届」という表現があり、それに加えて「修造官家那津之口又其筑紫肥豊三国屯倉散在県隔運輸遥阻儻如須要難」ともあります。これらを見ると、ここに出てくる「筑紫」が「肥」「豊」と同格的に表示される「狭義」のそれであるのは明白です。
実際「筑紫」の領域を『書紀』から拾い出すと以下の「二例」を除き全て「狭義」の筑紫であることが分かります。
①「神武天皇即位前紀甲寅年(前六六七)十月辛酉(五)行至『筑紫國』菟狹。菟狹者地名也。此云宇佐。時有菟狹國造祖號曰菟狹津彦。菟狹津媛。乃於菟狹川上。造一柱騰宮。而奉饗焉。一柱騰宮。此云阿斯毘苔徒鞅餓離能瀰椰。」
②「景行天皇十二年(壬午八二)九月甲子朔戊辰(五)天皇遂幸筑紫。到『豐前國』長峽縣。興行宮而居。故號其處曰京也。」
上の二つの例が「狭義」の「筑紫」ではない例であると考えられますが、ここに「豊前国」という表記があるのが注目されます。さらに『書紀』中には下に見るような「筑紫後国」などと言う「後代表記」(既に分国された後の表記)が「景行紀」という「古い時代」に使用されていることからも、「八世紀」以降の編集の跡が歴然であり、これらの「広義」の「筑紫」表記が「八世紀」の潤色である可能性が高いものと思料されます。
「景行天皇十八年(戊子八八)秋七月辛卯朔甲午(四)到『筑紫後國』御木。」
現在「肥前」と「肥後」はつながっておらず、「筑後」により分離されています。また「筑紫」の本来の領域はいわゆる「筑前」に相当する部分であり、「筑後」は元々「筑紫」ではなかったと考えられます。この領域は以前は「肥の国」の一部であったと考えられますが、「ある時点」で現在の「筑後」に相当する部分が「筑紫」側に割譲・編入されたものと推察され、それは「六世紀末」という時点が最も考えられるものです。そしてその段階で成立したのが、例えば『筑後風土記』などや、上に示した(二)の『筑紫國風土記』であったと考えられ、その時点以降「筑紫」とは「筑紫国」と「筑紫後国」で構成されることとなったものでしょう。
それまで「大」「肥の国」であったものが、「何らかの」理由により政治的比重が低下し、それにより「領域」が分割され、「筑紫」に割譲・編入されることとなったものです。 そもそも「肥」が「肥前」と「肥後」に完全に分離されたことからも明確なように、「肥」の持つ政治的意味は著しく低下したものであり、また相対的に「筑紫」の政治的比重が著しく高まった事を示唆するものです。
その理由としては当然「倭京」の構築、つまり「筑紫」に「都」が造られたことがあると思われます。例えば、『隋書俀国伝』時点では「阿蘇山」についての記載があり、「噴火」に対する「形容」であったり、それにまつわる「信仰」についての記述があるなど、「肥の国」が「倭国」の中心としての地であることを意識した文章であると考えられ、この時点での政治的位置の高さを示しているようです。ただし、『隋書俀国伝』ではこれが「六〇〇年」の記事とはされていますが、実際にはそれをかなり遡上する時期の情報と思われ、「隋」の「開皇年間」時点ではまだ「肥」は分割されていないものとみられるわけです。その後「阿毎多利思北孤」の「太子」という「利歌彌多仏利」により「改革」が行われ、その時点で「筑紫」の「拡張」が行われたと推察されます。
その「契機」となったのは「文帝」から「宣諭」されるという事態の発生であり、その時点において「倭国王」の地位に変化があったことから「太子」へ「権力」の移動があり、彼により「肥」から「筑紫」へという「都」の移動があり、それにともない「筑紫」と「有明海」を結ぶルート確保のため「肥」の一部が「筑紫」へ分割されることとなったと思われます。その時点以降「筑紫」という領域を示す言葉の内容が、元々の「筑紫」と新たに編入された「筑後」とを併せたものを指すものに変わったと考えられ、「筑紫」の指す領域が拡大はしたものとは思われますが、いずれにしてもその時点では「全九州」を表す意味はなかったと考えられます。
これらのことを考えると、「筑紫」(「筑紫國」)という表記で「全九州」を表している(一)の『筑紫國風土記』が書かれたのは遙かに下る時期の事ではないかと思料されるものです。つまり「筑紫」という名称で「全九州」を示す例が現れるのはずっと後の「近畿王権」が「列島」の主役になった時点以降ではないかと考えられ、『大宝令』などで「筑紫大宰府」が「九国二島」を総監する、という立場が「近畿王権」により明確に与えられたことがその遠因ではないかと推察され、そのことにより「筑紫」=「全九州」というような等式が成立する余地が発生したと言えるものでしょう。それは「鎮西」あるいは「西」という一語で「九州」を指すという用法と軌を一にしている可能性が高く、ほぼ同時代のことではなかったかと考えられます。
ところで「阿蘇」に関する記事は『書紀』にはいくつか出てきますが「山」の名か「人名」などとして出てくるだけであり、「阿蘇神社」のような形では『書紀』には全く出現しません。また『続日本紀』に至っては「阿蘇」関連資料は全く姿を現さず、『続日本後紀』に「九世紀」に入ってまもなく「阿蘇神社」として記事が初めて出てきます。その後はかなりの頻度で「史書」に現れることから考えて、実質的に「阿蘇神社」として「近畿王権」からその存在を認められるのは「九世紀」のことであったと考えられます。そのことは「能(謡曲)」の「高砂」という演目にも現れています。
この「高砂」という演目は「世阿弥」が古伝からアレンジして作ったものと考えられており、そこでは「九州阿蘇神社の神主友成の一行」という者達が登場し、その時代も「醍醐天皇」の頃(在位は「八九七年」から「九三〇年」)とされていて、彼らの「上洛」の途中に「播磨」で「住吉大神」の化身である老夫婦から「歌道」についての「話」を聞くというストーリーですが、これは、このころになって「阿蘇神社」と「政権中枢」との間の関係が深まった、あるいは「認知された」と言うことを示しているものと思料されます。
「阿蘇神社」資料にもこの「友成」は登場し、彼の時代から以降の資料の信憑性はかなり高いとされているようです。
これらのことから、この『釈日本紀』に引用された『筑紫國風土記』とされる資料は「筑紫國風土記に曰く」とありながら、その実「阿蘇神社」に関わる史料であると考えられるものであり、それはその「奇形沓々(とうとう)、伊(これ)天下之無双。地心に居在す。故に中岳と曰う。所謂閼宗神宮、是なり」というように「阿蘇山」の偉容を形容する文章に「閼宗(阿蘇)神宮」が直結されていることや、明らかに「肥後」を中心としているその書き方からも判別できると思われます。
一般にはここの「阿蘇神宮」とは「阿蘇山」の事という理解がされているようですが、それは甚だ不審と云わざるを得ません。そこには「所謂」という言い方がされていますが、そのようなことはどの史書などにも見られないわけですから、この「所謂」が何の根拠もないのは確かであり、また「阿蘇山」そのものが「神宮」であるというのは「神宮」の使用例の中に「阿蘇山」が見られないという点でやはり否定的と云わざるを得ません。
そもそも「神宮」という形容は「史料」の中では限定的にしか使用されておらず、その中には「阿蘇」がありません。あくまでも「阿蘇山」であり、また「阿蘇神社」なのです。
上に見たように「阿蘇神社」が歴史上姿を現してくるのは「九世紀」のことと考えられ、この『筑紫風土記』を引用した形の「阿蘇資料」はその時代ないしはそれ以降のものではないかと考えられます。「阿蘇」に関しては「神宮」という表記は歴史上全く見られないものであり、『異本阿蘇系図』の中にさえも「神宮」とは出てこないようです。それがここに書かれているのは、この「神宮」がこの当時一時的に自称したか、あるいは『釈日本紀』の編者である「卜部兼方」の独断(誤断)かもしれません。
そもそもこの『風土記』を逸文として集録している『釈日本紀』はその編集開始が「十三世紀」付近と考えられ、その時点で収集可能であった各種の文書を集大成したものと考えられますが、この時点では確実に「元明天皇」の詔により「撰定」された『風土記』であると確定できなくなっていたものも多数あったものと考えられます。それは『風土記』といわれるものが「公式文書」であり、「国司」に対して「中央」への回答を求めたものという性格があったものだからです。
つまり、『風土記』そのものは『書紀』などと違い「宮廷内」で「広く講義が行われた」というような性質のものでもなかったわけであり、保存年限を過ぎたら「廃棄」されるという運命であったものです。ですから、一般に広く出回るはずもなく、写本は「志」のある特定の個人などによって行われたものであり、年月の経過と共に「信憑性」に疑いのあるものも出回り、自家の宣伝広告のために「捏造」されたようなものもあったのではないかと推察されます。そのようなものの中に「阿蘇神宮資料」としての「私製風土記」があったのではないかと思料され、それが『釈日本紀』に『風土記』の「逸文」として引用されたという可能性を想定します。
ただし、「阿蘇神宮家」は長い歴史があり、「秘伝の資料」があったと考えても不思議はありません。そのため「評督」関係資料という貴重なものも遺存しているものと考えられ、「私製」とは云いながら、それを生かしたものとなっていると思われ、「資料」としては大変貴重なものであることは当然ですが、『風土記』という観点で見ると「元明天皇の詔」による編纂「以降」の時点で作成された「別資料」という性格と考えられるものです。
(この項の作成日 2012/02/08、最終更新 2016/08/15)