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倭国の六世紀
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「阿毎多利思北孤」王朝
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隋書たい国伝
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遣隋使と遣唐使
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『推古紀』に書かれた「隋」の「煬帝」からの国書というものについて古田氏は「唐」の高祖からのものが年次移動されて書かれているとされました。改めてその点について考察し、この「遣隋使」がやはり「遣隋使」であって「遣唐使」ではないこと、ただしその時代は「煬帝」の時代ではなく「高祖」(文帝)のものであったことなどを考察します。
「寶命」の意義
「寶命」− 「唐」の「高祖」の場合
「寶命」について−-「隋の文帝」の場合
「宣諭」という用語について
「行程」記事の存在との関係
「隋」の「琉球」侵攻事件について
「唐」という国名の存在理由とは
古田氏指摘のその他の事項について
「裴世清」の肩書きの矛盾について
「元興寺縁起」に書かれた「裴世清」について
「国書」の文言の検証
「裴世清」を迎える儀礼の違いについて
「大業三年」記事について
「開皇二十年」記事について
「天子在東京」について
高麗大興王とは誰か
「隋」皇帝からの「訓令」について
「天子」自称の理由
「智蔵」法師の真の時代
「隋」の改元と「倭国」の改元
「七弦琴」と「五弦琴」
「七弦琴」と『源氏物語』
「五行」と「納音」(音律と音数)
尺八と遣隋使
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