既に見たように「唐」は「武徳五年」(六二二年)に「高麗」に対して「国書」を提出しています。その中に「寶命」という言葉が使用されており、それは『書紀』にある「唐皇帝」からの国書というものと酷似していたわけです。
「倭国」と「高麗」への双方の「国書」の中に「寶命」という用語が使用されているというわけであり、それは共に「禅譲」を受けて「新王朝」を創始したという意味を持っていたこととなるわけですが、実際にはそれが一方は「隋帝」であり、もう一方は「唐帝」であったこととなるわけです。この両者はいずれも「禅譲」により「初代皇帝」として即位した「皇帝」であり、その「即位」に至った「事情」を述べるために使用していると考えられます。そのような「国書」を「唐」の「高祖」は「高麗」には出したものの、「倭国」には出さなかったこととなるわけですが、それは既に述べたように「倭国」の「無礼さ」に原因があったものと思われます。
『書紀』の「六〇八年」に訪れたという「隋使」「裴世清」は、実際にはそれをかなり遡上する「隋初」に「倭国」へ訪れたものと理解できることとなったわけですが、「古田氏」を始め「多元史観論者」の多くが彼「輩清世」は、このとき「近畿王権」へ訪れたと考えているようです。つまり最初は「隋使」として「倭国」に来たが、後に「初唐」の時期に「唐使」として「近畿王権」に来たというものです。しかし、既に検討したように「大業三年」(六〇七年)の「倭国」からの「遣唐使」が持参した「国書」は外交儀礼を無視したあるいはそのことに対して「無知」であったものと考えられるわけであり、そのような「倭国」に対するイメージは「唐王朝」にも引き継がれたものと推量します。
もし仮に『書紀』に書かれた「使者と国書」が「唐」からのものであったとすると、「唐」は「隋代」に「無礼な国」というレッテルが貼られた「倭国」に対して「国書」を提出し、しかもその中で「友好的言辞」を書きしたためたこととなります。しかし、それは「あり得ない」こととなるのではないでしょうか。
「高麗」には「国書」がもたらされているわけですが、「高麗」は「唐」の「前王朝」である「隋」の攻撃を跳ね返し、「隋」滅亡のきっかけを作ったわけであり、また「国境」を接しているわけですから、「強国」として意識せざるを得ないものであったと思われます。そのような国に対しては何らかの外交的「アプローチ」を行う必要があったと考えるのは相当であつたものです。
つまり「唐王朝」成立後間もない時期に使者を(特に)「高麗」に派遣し、「建国」の事情というものを説明すると共に、国情などを視察させたとするのは蓋然性の高い想定であると考えられます。しかし「倭国」については「隋代」に「宣諭」があって以降関係が特に良好となったとは見られず、また「唐」成立後本格的な国交回復を「唐」側が図るという事情には特になかったとみられます。そうであれば、この時点でまだ「国交」もないような「近畿王権」に対して「国書」を出すようなことを想定することは困難でしょう。
『旧唐書』等見ても「日本国」についての情報を「唐」が入手したのはかなり後のことと考えられますから、この「七世紀初め」というような時点で「近畿王権」(日本国王権)が独自に外交活動を行なっていて、それを「唐」が承知していて、しかも「国書」をやりとりしていたというのは全く想定できるものでは ありません。その意味からも『書紀』に書かれてある「唐」「大唐」という表記は不自然であり、ここに出てくる「唐」という国名に惑わされる必要性はないと思われます。
『書紀』によれば「裴世清」の帰国に合わせ、「倭国王」は「返書」を提出していますが、その中では「久憶方解」という語を使用しています。
(以下返書の内容)
「爰天皇聘唐帝。其辭曰。東天皇敬白西皇帝。使人鴻臚寺掌客裴世清等至。久憶方解。季秋薄冷。尊何如。想清悉。此即如常。今遣大禮蘓因高。大禮乎那利等徃。謹白不具。」
この「久憶方解」という表現は「中国王朝」との交渉が回復したことを指し、「南朝」の「梁」に遣使したのが最後となっていたものが「解消」されたということからくる「喜び」の表現であったと考えるべきでしょう。
これは「近畿王権」などとの間の国交確立を意味するものではないと考えられます。なぜならその「玄関」とも言える「筑紫」を経由しない通交がこの段階ではあり得なかったと思われるからです。
『書紀』の記事でも「隋使」や「遣隋使」は「半島」を経由しその後「対馬」から「筑紫」を通過しているようです。(これは「三世紀」の「卑弥呼」の頃から変わらないようです)しかし「筑紫」に「倭国王権」の中枢がある限り、「諸国」たる「近畿王権」が「単独」で「隋」や「唐」などと国交を結ぶことなど出来るはずがないと考えられます。その様な事を「倭国王権」が許容するとは考えられず、そうであるとすると「筑紫」以東への「中国」からの「使者」の移動、進行については「阻止」されたであろうと考えられます。(これもまた「三世紀」と同様と思われます)
また、ここに書かれた「天皇」という称号は「中国」の「神話的存在」である「三皇五帝」の一人であり、「人間」ではなく「神」であるとされていました。しかし、「皇帝」は「秦」の「始皇帝」以来、その「三皇五帝」を上回る存在であるとされ、その後の「歴代」の中国王朝の「王」の称号となったものです。このことから、「唐」にとっては「皇帝」は「唯一絶対」であるのに対して「天皇」はそれよりは「下」の存在であり、これならば「許容」出来るものであったと考えられます。だからこそ彼らの「国書」にも「倭皇」という表現が使用されたものなのでしょう。
(この「国書」中の「倭皇」および「知『皇』介居表撫寧民庶」という部分を後代の書き換えとする立場もあるようですが、もしその様な事が行われたとするなら、同様に「文中」に存在する「達脩朝貢」という文言も書き換えの対象となって然るべきと思われます。これは明らかに「中国皇帝」に対して「臣従」する立場の表明の文言ですから、これを「対等」な立場の用語に書き換えるべきであったはずですが、これは変えられていないと思われ、それは即座に「倭皇」という表現なども書き換えられていないと見るべき事を示しています。)
つまりこの時点では「倭国」側は「皇帝」や「天子」を名乗ることを考えていなかったものであり、あくまでも「隋皇帝」を最上の位置に置く姿勢であったものと見られます。以降「姿勢」が変化して「天子」を名乗ることとなった模様ですが、それは国内統治実績の確立・強化が下敷にあったものではないでしょうか。「西日本」だけではなく「東日本」全体を自分達の統治領域として確立したという意識が、「天子」を名乗る動機付けとなったという可能性があると思われます。
「倭国」が「天子」の多元性を主張したのは、ただ「中央集権国家」を造るために「北朝」を「範」としようとしただけであったものと見られ、「強い権力者」たらんと欲しただけであったものと考えられます。「天子」称号は単にその一環であったのでしょう。
「対等外交」というような言い方をよく見ますが、その様な意図は一切なかったのではないでしょうか。それは「行動」が示しています。「倭国」は「隋」など「北朝」から「諸制度」その他宗教・文化等あらゆるものを取り入れようとしていたものであり、また一部実行していました。それら大胆な策を実行しようとすると「強い権力」が必要であったものであり、そのために「北朝」に真似て「天子」称号を使用したものであって、それほどの意気込みであったと言う事を伝えたかっただけではないかと思料されるのです。しかし、それらは「裏目」に出て、「文帝」からも「煬帝」からも「歓迎」されると言うことはなく「警戒」の目で見られるようになってしまったという流れではなかったでしょうか。
(最終作成日 2011/11/23、更新 2014/08/10)