『隋書』(『北史』にも)「隋」が「煬帝」の時「琉球」に侵攻したという複数の記事があります。
「(大業)三年…三月辛亥,車駕還京師。…癸丑,遣羽騎尉朱寬使於流求國。」(『隋書/帝紀 第三/煬帝 楊廣 上/大業三年』より)
「(大業)六年春正月癸亥朔,旦,有盜數十人,皆素冠練衣,焚香持華,自稱彌勒佛,入自建國門。監門者皆稽首。既而奪衞士仗,將為亂。齊王?遇而斬之。於是都下大索,與相連坐者千餘家。丁丑,角抵大戲於端門街,天下奇伎異藝畢集,終月而罷。帝數微服往觀之。己丑,倭國遣使貢方物。
二月乙巳,武賁郎將陳稜、朝請大夫張鎮州?流求,破之,獻俘萬七千口,頒賜百官。」(『隋書/帝紀 第三/煬帝 楊廣 上/大業六年』より)
「…大業元年,海師何蠻等,?春秋二時,天清風靜,東望依希,似有煙霧之氣,亦不知幾千里。三年,煬帝令羽騎尉朱寬入海求訪異俗,何蠻言之,遂與蠻?往,因到流求國。言不相通,掠一人而返。明年,帝復令寬慰撫之,流求不從,寬取其布甲而還。時倭國使來朝,見之曰:「此夷邪久國人所用也。」帝遣武賁郎將陳稜、朝請大夫張鎮州率兵自義安浮海?之。至高華嶼,又東行二日至?嶼,又一日便至流求。初,稜將南方諸國人從軍,有?崘人頗解其語,遣人慰諭之,流求不從,拒逆官軍。稜?走之,進至其都,頻戰皆敗,焚其宮室,虜其男女數千人,載軍實而還。自爾遂?。」(『隋書/列傳 第四十六/東夷/流求國』より)
「…煬帝即位,授驃騎將軍。大業三年,拜武賁郎將。後三?,與朝請大夫張鎮周發東陽兵萬餘人,自義安汎海,?流求國,月餘而至。流求人初見船艦,以為商旅,往往詣軍中貿易。稜率?登岸,遣鎮周為先鋒。其主歡斯?剌兜遣兵拒戰,鎮周頻?破之。稜進至低沒檀洞,其小王歡斯老模率兵拒戰,稜?敗之,斬老模。其日霧雨晦冥,將士皆懼,稜刑白馬以祭海神。既而開霽,分為五軍,趣其都邑。?剌兜率?數千逆拒,稜遣鎮周又先鋒?走之。稜乘勝逐北,至其柵,?剌兜背柵而陣。稜盡??之,從辰至未,苦?不息。?剌兜自以軍疲,引入柵。稜遂填塹,攻破其柵,斬?剌兜,獲其子島槌,虜男女數千而歸。帝大悅,進稜位右光祿大夫,武賁如故,鎮周金紫光祿大夫。…」(『隋書/列傳 第二十九/陳稜』より)
上のように「帝紀」「列伝」のいずれにも同様の記事があり、これは史実と見られています.この中で「琉球」を「慰撫」するため派遣された「羽騎尉朱寬」が持って帰った「布甲」について「居合わせた」「倭国使」が実見して「夷邪久國」の人が用いるものという判断をしたと言うことが書かれています。これは「大業三年」の「明年」のこととされており「大業四年」がその年であると推測できますが、その年に「倭国」からの使者が来たことが「帝紀」に書かれています。
「(大業)四年春正月乙巳,詔發河北諸郡男女百餘萬開永濟渠,引沁水南達于河,北通?郡。庚戌,百僚大射於允武殿。丁卯,賜城?居民米各十石。壬申,以太府卿元壽為?史令,鴻臚卿楊玄感為禮部尚書。癸酉,以工部尚書衞玄為右候衞大將軍,大理卿長孫熾為民部尚書。
…三月辛酉,以將作大匠宇文愷為工部尚書。壬戌,百濟、倭、赤土、迦羅舍國並遣使貢方物。」(『隋書/帝紀 第三/煬帝 楊廣 上/大業四年』より)
しかしすでに述べたように、これ以降の「大業六年」にも「倭国」からの使者が来たことが書かれているのに対して「伊吉博徳」の記録では「洛陽」を「東都」ではなく「東京」と記しており、年次移動の疑いが考えられるところです。そもそも「倭国」(俀国)関係の記事については全て「開皇年間」のものと考えられます。なぜなら「倭国」は「宣諭」事件以来「隋」との外交活動を控えた可能性が高いからです。そう考えると、この「大業四年」記事についても実際には「開皇年間」の記事であることが推察されます。
『隋書俀国伝』では「大業三年」に倭国から使者が「隋」に派遣され、その使者の携えた国書の中で「天子」を自称するという迂闊な言動をしたことから、その翌年つまり「大業四年」に「文林郎」「裴世清」は「倭国」に「宣諭」のため派遣され、その後帰国の際に「倭国」の使者が同行したとされます。
大業三年,其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不悅,謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者,勿復以聞。」明年,上遣文林郎裴清使於倭國。
…其後清遣人謂其王曰:「朝命既達,請即戒塗。」於是設宴享以遣清,復令使者隨清來貢方物。此後遂?。
これを見ると「大業三年」の明年に「裴世清」の帰国に併せ「使者」を派遣していますが、この使者は「宣諭」という事案を生ずるに至ったことについての隋皇帝に対する謝罪が主たる目的であったのでしょう。
しかしこの時「隋皇帝」つまり「高祖」は(これらの実際の年次が開皇年間であり、「隋」の「高祖」の時代である可能性についてはすでに言及しています)「裴世清」派遣と同時に「琉球」へ使者を出し、「慰撫」(というより威嚇が主たるものであったでしょう)することにより倭国の南方地域に対して影響力を行使しようとしたものと思われます。そこには「倭国」の範囲がかなり南方まであったという地理的誤認も含んでいたものではかったでしょうか。(いわゆる「会稽東冶の東」という理解です。)そのため、琉球国がその辺境にあたると理解してそこを制圧することにより「倭国」に対して相当の影響を与えうると考えたものではないでしょうか。このため「対琉球」においては「裴世清」とは違い最初から「羽騎尉」という軍人であるところの「朱寬」を派遣し、「宣諭」と共に間接的に軍事的圧迫を加えることを目指したものと思われます。
そもそもこのような琉球への軍事的圧力が単発的に行われたと見るより対「倭国」という観点で考えたときに初めて意味のあるものと思われるわけです。「倭国」が友好的であったならこのような軍事的行為を積極的に行う理由は薄くなりますが、倭国が「天子」を標榜するなどの(「隋」にとって見ると)非友好的雰囲気にあると見た可能性が強く、その場合「宣諭」すると共に「軍事的圧力」を加えることが事態を有利に展開する上で必要と考えたに違いありません。(「琉球」への侵攻という情報は間接的にも伝わるはずですから、それだけでも威嚇としては有効であったはずです)
さらに偶然(というべきか計算されたものかは不明ですが)謝罪として訪れていた「倭国」からの使者の前に戦利品とでも言うべき「布甲」が提示されたわけであり(これは彼らの帰国そのものがほぼ同時であったことを示し、その行程全体も似たような期間であったことが推察されますから「長安」(大興城)からの距離と時間も同様であったこと示すものです)使者が「謝罪」が上っ面なものなら必ず倭国本体に対する軍事行動があるに違いないと言うことが実感されたものではなかったでしょうか。 そもそも「布甲」とは戦いのための武具であり、これが「隋」の手に渡っている事実を知って「倭国」の使者は驚愕したはずです。
ところで、倭国からの使者は「南方」地域の風俗等についてこれをよく知っていたと言うこととなりますが、「阿蘇山」について知識があるなら、九州南方の諸島についても知識があって不思議ではないこととなります。ただし、倭国はこれを「夷邪久国」のものと言ったものの「琉球」のものとは言いませんでした。この段階では「夷邪久国」までしか「知見」がなかったものか、当時「琉球」と「夷邪久国」など南方諸島は(言語も含め)同一文化圏であった可能性がありますから、そのため誤認したと言うことも考えられます。
その後の『書紀』の中の南方諸国についての記事でも「琉球」は出てきません。「奄美」が南限となっているように見えます。そのため「倭国」は「夷邪久国」が制圧されたと考えたかもしれません。もしそうであれば政治的行動の一つでも間違えば「倭国」にも同様のことが起きうることを知ったものと思われます。「使者」はとりあえず改めて「謝罪」を行い、「臣」として仕える立場を強調した後、帰国しすぐに防衛体制の強化策を提言したものと思われることとなります。それが具体的には「難波遷都」であり、「隼人」及び「蝦夷」と呼ばれる周辺(辺境)の人たちに対する隷属の圧力であったものではないでしょうか。とくに南方は「琉球」から北上してくる可能性のある「隋」に対して防衛線を構築する必要があり、「鞠智城」を中心とした防衛体制を急ぎ築く必要があったかもしれません。(これらについては後述)
(この項の作成日 2016/06/11、最終更新 2016/06/11)