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古田氏指摘のその他の事項について


 古田氏はこの『推古紀』記事が実際には「初唐」の時期のものである「傍証」として以下の『舒明紀』にある「百済」の「義慈王」が「王子」である「豐章(扶余豊)」を「質」として「倭国」に派遣したという記事に疑いを持たれ、これを十年以上繰り下げた「六四一年付近」へと移動させて理解され、それは「遣隋使」記事と同じ「ずれ方」であるとして、「遣隋使」が実際には「遣唐使」であるという論の補強とされました。

「(舒明)三年(六三一年)三月庚申朔条」「百濟王義慈入王子豐章爲質。」

 確かに、「義慈王」が「百済国王」となったのは「六四一年」であり、それから考えると「扶余豊」が「質」とされたのは「義慈王」がまだ「皇太子」時代のこととなりますから不審といえばその通りです。人質はそれなりに位の高い人物でなければならず、現国王の「孫」というのではそれこそ多数に上る訳ですから「質」としての価値はそう高くないこととなるでしょう。そもそも相手国から見てある程度「質」を差しだした国の政治的行動範囲を制約せざるを得なくなるほどの近親の人物でなければ「質」としての意味がないと思われます。そう考えると、「義慈」が「百済王」となった時期(六四一年)という段階以降に「倭国」へ「人質」を差しだしたと仮定した方が合理的であると言えるのは理解できます。その場合であれば「新百済王」としての「倭国重視」というその後の大動乱につながる政治的スタンスも良く理解できることとなるでしょう。そう考えると、「百済王子豐章爲質」という記事は「義慈王」即位時点付近の記事という可能性も考えられることとなります。そして、その場合は「十~十二年ほど」の年次移動が行なわれているという可能性があることは確かであると推測できます。その意味では古田氏の見解については首肯できる部分はあるものの、問題は、その「ずれ方」がどの年次付近まで遡及するものかということではないでしょうか。
 それは「隋代」と「唐代」というように時代区分が違うことでもわかるように年次として大きく離れていることもからも、そのような「義慈王」記事と「遣隋使」記事とを同一に扱うことの難しさを示しています。『書紀』の記事移動があったとしてもそれは『隋書』の網羅する年代に留まるのではないかという可能性がある事を示すものです。

 「倭国側」では『書紀』の編集段階において明らかに『隋書』を見ていると思われます。しかし、当然『旧唐書』を見ることができたはずはありません。『旧唐書』は「八九五年」の完成とされていますから、『書紀』の編纂時期とは大きく異なります。そうであれば、「初唐」の時期の外交資料は純粋に国内に残存していたものに依存せざるを得なかったこととなります。つまり、『書紀』が『隋書』を見て書かれたとすると、それから続く「唐代」の時期の記事には参照すべき「中国資料」が存在していないこととなります。(「六四八年」以降は「起居が通じた」とされますから、それなりに参照資料があったでしょうけれど、それ以降については参照すべき資料がないということとならざるを得ません)
 それに対し上に見たように『書紀』の「隋代」の記事は『隋書』に「合わせる」ために年次を変更して書かれていると考えられますが、そのことはそのような「年次移動」が「初唐」の時代まで及ぶとは思われないことを示します。
 このことから、『書紀』の編纂段階では「初唐」の資料と「隋代」の資料とはそもそも「セット」として考えられていたとは思われないこととなります。もし「扶余豊」の「質」の記事が本来の年次ではないところに書かれていたとしても、それが「隋代」まで遡及すべきものかは別途証明が必要なのではないかと推察されます。
(これについては後にも書きますが、『隋書』の編集がほぼ完了した「貞観年間」時点ではまだ「倭国」との国交が回復していなかったと見られることから、「倭国」からの遣唐使とそれに対する「返答使」としての「高表仁」派遣はそれ以降であったと見られることとなり、自動的に「扶余豊」の来倭日時も十年程度下る位置がその本来の年次であったことが推定されています。つまりこの「移動」は『隋書』の編集とは関わりないこととなり、『隋書』に連動していると思われる『推古紀』の年次移動とは関係がないこととなるでしょう。)

 さらに古田氏は『推古紀』に「呉国」記事があることもその論の傍証とされています。

「(推古)十七年(六〇九年)夏四月丁酉朔庚子。筑紫大宰奏上言。百濟僧道欣。惠彌爲首一十人。俗人七十五人。泊于肥後國葦北津。是時。遣難波吉士徳摩呂。船史龍以問之曰。何來也。對曰。百濟王命以遣於呉國。其國有亂不入。更返於本郷。忽逢暴風漂蕩海中。然有大幸而泊于聖帝之邊境。以歡喜。」

 この記事について古田氏は、「初唐」の時期の「江南付近」に起きていた混乱の中で「呉」という国が当時存在していた事を挙げて「唐」の高祖からの国書である傍証としていますが、ここに出てくる「呉国」は「武徳二年」に「李子通」という人物が「皇帝」を名のり「国号」を「呉」と号したとされているものですが、これは僅か二年間の短命政権であったものであり、しかも「大義名分」も何もない山賊のような人物が興した国でしたから、この「呉」がそのような「泡沫」的な国であったとした場合、そこに「百済王」が遣使しようとするものかということを考えると、傍証とするには無理があると思われます。
 またその時「乱」があって入れなかったとされますが、そもそも「呉国」だけではなくこの当時江南地方にはいくつもそのような新王朝が発生していたものであり、これに対し「唐」は軍隊を差し向け片端から討伐を試みていました。当然混乱の渦中に江南全体があったものであり、「呉国」が創建されたことが「百済」に伝わったかどうかさえ怪しいとさえいえます。
 「百済」は「北朝」と「南朝」の両方に遣使して均衡外交を展開していましたが、それは「高句麗」の南下圧力を減らすためであり、「南朝」が滅ぼされ「高句麗」と「隋」との関係が友好的に継続した場合「百済」は「高句麗」からの圧力を真剣に危惧しなければならない事情がありました。そのような彼等ですから、「南朝」の存否に無関心であったとは考えられません。「呉国」が成立しそれが「隋」に対抗しうるとわかれば遣使することもあったかもしれませんが、そのような確固とした王権ではない可能性が強いとしたら、急ぎ遣使するとも思われないこととなります。
(古田氏は「江南」から「長安」へ行くという理解をしていますが、『書紀』にはそのような記述はありません。そこには明確に「百濟王命以遣於呉國」とされており、この「呉国」が最終目的地であることを示しています。)
 そう考えた場合、この「呉国」という表現が『書紀』の中で「南朝」を指して使用する例に限られたていることに気がつきます。それは『書紀』編者が(前項でも述べたように)「唐」の大義名分に全面的に同意・共鳴していることを示すものですが、その意味からもこの「呉国」とは「南朝」を指すと考えるべきではないでしょうか。 ただし、もしそうであるとすると、これが「初唐」の頃であったとした場合「隋」成立とそれに伴う「南朝」の滅亡という「六世紀末」の時勢の推移を「百済」が知らなかったか、全く無視していたと言うこととなってしまうと思われますが、それはあり得ないといえるでしょう。なぜなら「南朝(陳)」が滅びた際に(五八九年)「隋皇帝」に対し「陳」が平らげられたことを賀す使者を派遣している事実があるからです。

「…平陳之?,有一戰船漂至海東〔身+冉〕牟羅國,其船得還,經于百濟,昌資送之甚厚,并遣使奉表賀平陳。…」(隋書/列傳 第四十六/東夷/百濟)

 これによれば「〔身+冉〕牟羅國」(これは今の済州島か)に漂着した「戦船」(軍艦)が「百済」を経由して帰国した際に「使者」を同行させ、その「使者」が「平陳」を賀す表を奉ったとされているのです。つまり「百済王」は「南朝」が亡ぼされたことを知っているわけですから、「初唐」の時期に「南朝」に遣使する、というのは「あり得ない」こととなるでしょう。このことから、「百済」が「呉国」へ使者を派遣したとすると、この記事は「南朝」が滅びて間もない頃でまだ「百済」がそれを「認識」していなかった「五八九年以前」のことと想定せざるを得ないこととなります。
 またこの想定はこの時の「百済僧」達の中に後の「福亮」という人物がいたのではないかと考えられていることにもつながります。
 「福亮」については「呉僧」「呉人」とされていること、「元興寺」に住していたとされていること、元々は「民間人」であったらしいことなどが知られており、それらの伝えられていることから、彼が「倭国」に来たのはまだ「呉」の国が存在していた時期であったのではないかと考えられます。上に見る「肥後」に流れ着いたという「百済僧」達はその後「本国」に還らず「元興寺」に住んだとされていますから、その意味でも「福亮」という存在とつながるものといえるでしょう。
 このように「呉国記事」がその本来の年次である「隋初」から移動されているとすると、それに先立つように並べられて書かれている「裴世清」来倭記事についても「隋代初期」の頃のことを記したものという「疑い」が生じることとなるでしょう。
 つまり、この「国書」は「隋」の「高祖」である「文帝」が出したものという解釈が有力ではないかと思われるのです。またそう考えるとこの「隋初」という段階で「裴世清」が「鴻臚寺掌客」として存在していたと言うこともあながち不自然な発想ではありません。

 「隋」の「高祖」が「高句麗」に宛てて出した国書には「天命」が使用されていました。しかし上に推察したように『推古紀』の国書が「文帝」からのものであるという可能性が考えられることとなったわけですが、その場合「倭国」に対しては「寶命」が使用され、しかもその内容は友好的な言辞に終始していて、「高句麗」の場合と対照的な内容となっていることがわかります。それはなぜでしょうか。
 「高祖」(文帝)にとって「寶命」という用語はまさに「前朝」などからの継承を意識した言葉と思われ、「倭国」と「歴代中国王朝」の関係を今後も同様に継続するという意義で使用されていると推測できるものです。それが「高麗」に対する「天命」使用との「差」になっているのではないでしょうか。
 「倭国」は歴代「南朝」との関係が継続していたものの「北朝」とは「国交」がなかったわけですが、それがこの「隋」成立という事態を承けて「使者」を派遣してきたものであり、「隋」にとって見ると「格別」の喜びがあったのではないかと思われます。それは「倭国」が「周」「漢」の時代から「遠路」朝貢してきていた伝説の国であり、その朝貢は「皇帝」の徳の高さを示す例として長く記憶されていたものと思われ、その「倭国」から「自分」の元へ「朝貢」の使者が訪れたことは、彼(文帝)にとって見ると、それらの偉大な皇帝や天子と自分が並び称せられる位置に到達したというある種の感慨に似たものもあったのではないでしょうか。
 『隋書俀国伝』の冒頭にも「自魏至于齊、梁,代與中國相通。」と表現されており、南朝の各国への朝貢を「中国と通ず」と表現しており、大義名分にも鷹揚です。「歴代」の南朝諸国との通交を正当なものと認めることでその「倭国」と隋の関係もその流れの中の一環であると認識していることを示す意義があったものと思われます。このようなことから「倭国」との間にあえて「天命」は使用せず「寶命」を使用して、従前から倭国と中国の間に続いていた関係を自らの王朝と再度「緊結」する姿勢を示したものと思われます。
 以上のことから、この「国書」は「初代皇帝」ではあっても「唐の高祖」ではなく「隋の高祖」であると考えるべきこととなったわけです。


(※)榎本淳一「『隋書』倭国伝の史料的性格について」(『アリーナ 2008』、2008年3月)


(この項の作成日 2004/10/03、最終更新 2017/01/29)