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「宣諭」という用語について


 既にみたように『書紀』に記された「裴世清」が持参したという「国書」は「初代皇帝」が出したものとは即断できないこととなりました。しかし、別の理由によりこの「国書」はやはり「煬帝」からのものではないと考えられるものであり、それについて以下に示すこととします。それは「宣諭」という用語についてです。

 『隋書俀国伝』の「大業三年(六〇七年)記事」によれば、「倭国」から「使者」が派遣されたその翌年(六〇八年)「皇帝」は「裴世清」を使者として「俀国(倭国)」に派遣したとされ、「俀国王」に面会した「裴世清」は以下のように答えたとされます。

「…清答曰 皇帝德並二儀澤流四海、以王慕化故遣行人來此『宣諭』。」

 この中では「宣諭」という用語が使用されています。この「宣諭」というのは「皇帝」の言葉を「口頭」で伝えることにより「教え諭す」意です。(上に見るように「清答曰」とされ、「口頭」で「宣」しています。)つまり、この「大業三年」の「隋使」(裴世清)の派遣は、その前年に行われた「倭国」からの遣唐使が持参したという国書があまりに「無礼」であったため、それを「宣諭」するために行われたとみられるわけです。

 この前年の「遣唐使」がかの有名な「日出ずる国の天子…」という有名な国書を提出したものです。
(以下『隋書俀国伝』の当該部分)

「大業三年其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰 聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法。其國書曰 日出處天子致書日沒處天子無恙云云。帝覽之不悅謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者勿復以聞。」

 このように「倭国」からの国書に対して「皇帝」は「蠻夷書有無禮者、勿復以聞」と「無礼」であるとして「不快」の念を示したとされています。
 この「不快」の原因については「天子」が複数存在しているような記述にあるとするのが一般的です。「皇帝」にとってみると「身の程を知らない」言辞であると考えられたものと思われ、そのような「隋皇帝」の「大義名分」を犯すような言辞に対して憤ったものであると理解できます。(いわば「帝」を「僭称」したものと理解された可能性さえあります。)
 『隋書』の記事配列においても「無禮」という言葉に対応するように「宣諭」という語が置かれていると見るべきでしょう。つまり、「隋皇帝」に対して「無礼」を働いたこととなるわけですから、そのことをいわば「説教」するために「裴世清」は派遣されたものと見られることとなります。

 『隋書』や『旧唐書』他の資料を検索すると多数の「宣諭」の使用例が確認できますが、それらはいずれも「戦い」や「反乱」などが起きた際あるいは「夷蛮」の地域などに派遣された使者(「節度使」など)の行動として記され、「宣諭」が行なわれるという事自体が既にかなり「穏やかではない」状況がそこにあることを示すものです。
 以下に例を示します。

例一)「…其後突厥達頭可汗與都藍可汗相攻,各遣使請援。上使平持節宣諭,令其和解,賜?三百匹,良馬一匹而遣之。平至突厥所,為陳利害,遂各解兵。可汗贈平馬二百匹。及還,平進所得馬,上盡以賜之。」(隋書/卷四十六 列傳第十一/長孫平)
 
 ここでは「突厥」内部の「可汗」同士の争いの際に双方から援軍要請があったものであり、その際に使者を派遣して「宣諭」して和解させたとされます。

例二)「…及征遼東,以本官領武賁郎將,典宿衞。時?軍圍遼東城,帝令?詣城下宣諭,賊弓弩亂發,所乘馬中流矢,?顏色不變,辭氣抑揚,卒事而去。…」(隋書/卷六十八 列傳第三十三/閻?)

 ここでは「遼東」に遠征した際(これは「高麗」との戦いを指す)、「城」を敵軍に囲まれた際に、皇帝(煬帝)は「閻?」という人物に命じて彼らを「宣諭」したとされます。
 このほかの例も非常に緊迫した場面で使用されており、このような用語が「倭国」に対して使用されているということは、相当程度の「緊張」状態が「隋」と「倭国」の間に発生していたことを示すものと言え、それは『書紀』に書かれた国書の内容とその意味で大きく「齟齬」していると言えるでしょう。
 さらに言えば「宣諭使」が「国書」を所持していた例もありません。ただし、以下の例では「赦書」が至って「宣諭」したとされているようですが、これは「罪はあるが許す今後戒めとせよ」という趣旨のものであって、いわゆる「国書」ではありませんし、単にその場で「読み上げられ、頒布された」ものです。

「…貞元初,李抱真入朝,從容奏曰:「陛下幸奉天山南時,『赦書至山東,宣諭之時,士卒無不感泣,臣即時見人情如此,知賊不足平也。』」(『舊唐書/列傳第八十九/陸贄』より)

 これに関連して『書紀』によれば「小野妹子」は「裴世清」の「来倭」に同行して帰国した際に「百済国内」で「皇帝」からの「書」を盗まれたと説明しています。

「(六〇八年)十六年夏四月。小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。即大唐使人裴世清。下客十二人。從妹子臣至於筑紫。…
六月壬寅朔丙辰。…爰妹子臣奏之曰。臣參還之時。唐帝以書授臣。然經過百濟國之日。百濟人探以掠取。是以不得上。」

 ここに書かれた事は(もちろん事実という可能性もなくはないですが)、「隋使」が「宣諭」だけを行ない、「国書」を持参していないということの「取り繕い」として、いわば「でっち上げた」という可能性もあるでしょう。
 そもそも「国書」は「使者」(この場合「裴世清」)が中国を発して以降「身につけていた」とみられ(それこそ「盗まれては大変」ですから)、「倭国王」に面会するという段で初めてそれは取り出されるというものであったと思われます。『書紀』でも「時使主裴世清親持書」と書かれており、「国書」は「裴世清」が肌身離さず持っていたことを推定させます。当然「遣隋使」であった「小野妹子」に持たせて帰国させるというようなことは考えられません。彼と共に「隋使」が同行しているわけですから、「隋使」が当然保持すべきものなのです。
 このように『書紀』によれば「国書」は確かに「裴世清」が持参してきたものであり、これとは別に「唐帝」からの「書」があって、しかも道中において盗まれたというのは明らかな「矛盾」であり、相容れない状況と思われます。
 従来からこの出来事を整合的に説明しようとして各論者が意見を提出していますが、あまり見るべきものがあるとはいえない状態ですが、その原因は、この「裴世清」の「来倭」と「小野妹子」の帰国とが同一時点のこととして『書紀』に「潤色」されて書かれていると考えていないことだからと思われます。しかし、実際には「裴世清」の「来倭」はずっと以前の出来事であり、「小野妹子」の帰国とはその事象としての年次とは異なっていたと思われ、それが「合体」されて書かれているとみられることからの混乱であるとみられるわけです。つまり「小野妹子」は「文林郎」であるところの「裴世清」と同行帰国したのであり「鴻臚寺掌客」としての「裴世清」に同行したものではなかったと見られる訳です。(「鴻臚寺掌客」としての「裴世清」は「国書」を持参していたもの)
 「小野妹子」にとってみると、「使者」としての交渉能力に関わる話でもあったと考えていたとみられ、「国書」をこちらから提出しながら相手からは期待した応答がなかったわけですから、その事実を粉塗する必要が「小野妹子」にはあったと見るべきではないでしょうか。
 ただし、「皇帝」の怒りの原因は「国書」の内容にあったわけですから、「小野妹子」の責ではないと言えるかも知れませんが、それをうまく取りなすことができなかったという意味で「使者」の責任も免れがたいという部分もあったでしょう。どう言い訳しても自分に責が及ぶことになりそうだと判断した結果、「盗まれたことにする」という選択となったのではないでしょうか。


(この項の作成日 2014/02/28、最終更新 2014/02/28)