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尺八と遣隋使


 すでに見たように「七弦琴」は「遣隋使」(あるいは(来倭した「隋使」)によってもたらされたと思われますが、同様にこのとき伝来したと推定されるものに「尺八」があります。
 従来「尺八」は「唐」の「呂才」(漏刻の改良を行ったとされる人物)による発明とされているようですが、それは実際には「改良」であったものであり、彼はそれまで基音として「黄鐘」だけであったものを、十二音律すべてに対応する「尺八」を作製したものであり、さらにその「黄鐘」についても「音律」からわずかに狂いがあったものを彼が長さと「孔」の位置を改めて定めた結果、音律が全て基準(三分損益法)に則った、つまりどの「運指法」によっても「音」が「音律」に正確なものとなったと言う事と理解できます。(ここでいう「音律」とは、「三分損益法」により導かれる「十二」の音階をいいます。)

「呂才,博州清平人也。少好學,善陰陽方伎之書。貞觀三年,太宗令祀孝孫増損樂章,孝孫乃與明音律人王長通,白明達遞相長短。太宗令侍臣更訪能者,中書令温彦博奏才聰明多能眼所未見,耳所未聞,一聞一見,皆達其妙,尤長於聲樂,請令考之。侍中王珪,魏徴又盛稱才學術之妙,徴日「才能爲尺十二枚,『尺八』長短不同,各應律管,無不諧韻」太宗即徴才,令直弘文館。」(『旧唐書』巻七十九「呂才傳」)

「才製『尺八』凡十二枚,長短不同,與律諧契。即召才直弘文館,參論樂事」(『新唐書』巻一百七「呂才傳」)

 これらの記述では「尺八」という単語が説明抜きで使用されており、彼以前に既に「尺八」というものがあったことを示唆しています。また彼の「尺八」がこの「貞観三年」をそれほど遡る時期に造られたものではないこともまた確かと思われ、少なくとも「隋末」あるいは「唐初」を上限とすべきものと思われます。

 ところで「法隆寺」に元あったとされ現在国立博物館に保存されている「宝物」に「尺八」が存在します。この「尺八」について学術的調査を加えた結果が公表されており、それによれば「長さ」及び「孔」の位置や発せられる音などから、この「尺八」が「呂才」が改良を加える以前のものであることが明らかとなっています。(※)
 それによれば「法隆寺」の尺八は「宋尺」により造られており、それは中国南朝(劉宋、斉,梁,陳 )の各代で使用され、「楽律」もまたこれによって定められたとされます。また中国北朝においても「北周」「隋」「唐」と歴代用いられたものであり、隋代では,開皇の始めに「鐘律尺」として制定され、その後の「唐」も「唐小尺律」(正律)として使用が継続されていたものです。

 ところで「法隆寺」に関する伝承の中にはこの「尺八」に関するものがあり、例えば『古今目録抄』(聖徳太子伝私記)には以下のような記述があるのが確認できます。

「尺八,漢竹なり。太子此笛を法隆寺より天王寺に御ますの道,椎坂にして吹き給いしの時,山神,御笛に目して出て御後にして舞ふ。太子奇みて見返し給ふ。爰に山神,見奉りて,怖れて舌を指出づ,其様舞ひ伝へて天王寺に之を舞ふ。今に蘇莫者と云ふなり。」

 ここでは「漢竹」とされ「唐」とは書かれていません。この記事が書かれた年代から考えると、「唐」とする方が常識的であるにもかかわらず、「漢」と表記されており、これはその伝来の年代をおよそ推定させるものであり、少なくともその伝来が「唐」以前を推定させるものです。
 また上の伝承の中では「山神」が「笛」の音につられて「舞」ったとされていますが、「天王寺」に伝わっているという「舞」の名称が「蘇莫者」とされている点については、「龍鳴抄』下(『羣書類従』)にある「蘇莫者」の項には「まひのてい。金色なるさるのかたち也。ばちをひだりにもちたり。きなるみのをきたり。」と記され、「猿」の格好をして舞うものとされており、「尺八」の演奏と「猿」が関係しているとされています。

 ところでこの「蘇莫者」については『旧唐書』あるいは『新唐書』に関連する記事があります。

「…時又有清源尉呂元泰,亦上書言時政曰:「國家者,至公之神器,一正則難傾,一傾則難正。今中興政化之始,幾微之際,可不慎哉?自頃營寺塔,度僧尼,施與不?,非所謂急務也。林胡數叛,?虜?侵,帑藏?竭,?口亡散。夫下人失業,不謂太平;邊兵未解,不謂無事;水旱為災,不謂年登;倉廩未實,不謂國富。而乃驅役飢凍,彫鐫木石,營構不急,勞費日深,恐非陛下中興之要也。比見坊邑相率為渾脱隊,駿馬胡服,名曰『蘇莫遮』。旗鼓相當,軍陣勢也;騰逐喧譟,戰爭象也;錦?夸競,害女工也;督斂貧弱,傷政體也;胡服相歡,非雅樂也;渾脱為號,非美名也。安可以禮義之朝,法胡虜之俗?詩云:『京邑翼翼,四方是則。』非先王之禮樂而示則於四方,臣所未諭。書:『曰謀,時寒若。』何必?形體,灌衢路,鼓舞跳躍而索寒焉?」書聞不報。…」(『新唐書/列傳第四十三/呂元泰』より)

 ここでは八世紀に入って「唐」の勢威がやや衰え始めた時点において臣下が皇帝に向け諫言しているわけですが、その内容としては都においてさえも「西方」から伝わった習慣に染まっている現実を憂えているわけであり、そこでは「胡服」「駿馬」が描かれていますから、西方から北方にかけての異民族の風習が描写されているようであり、それは「非雅樂也」とされています。「唐」から見て夷蛮とも言える地域の風習であるというわけですが、それを「蘇莫遮」と呼称するとされています。これは『古今目録抄』時点で「今に蘇莫者と云ふなり」とされる「蘇莫者」と同じものであると思われますが、それはまた「渾脱の舞」と呼称されるものと同一と思われ、一種の「剣舞」であり、「軍事」的色彩を帯びた舞であるとされます。
 「蘇莫遮」については『一切経音義』(『慧琳音義』)では「胡語 巻四十一「蘇莫遮冐: …「蘇莫遮」西戎胡語也。正云「?麿遮」。此戯本出亀茲国、至今由有此曲。此国渾脱・大面・撥頭之類也。」とされており、「亀茲国」を発祥とする「西方」の国の言葉であるとされています。このようなものが「聖徳太子」の時代に倭国にあったというわけですが、一般には後代の脚色として扱われていますが、「北朝」(北魏)は「亀滋国」などを制圧しその勢力下においていましたから、唐代以前にそれら胡族の風習が全く伝わっていなかったとするとそれもまた不審と言えます。そう考えると、この「唐代」の「蘇莫者」の流行は一種のリバイバルではないかと思われます。
 このような「西方」の国の風習が「倭国」に伝わったとすると、考えやすいのは「則天武后」が死去した直後付近であり、その時期が流行のピークであったと思われるわけであり、その時点付近で派遣された遣唐使がもたらしたと言えるかもしれませんが、そのような想定の場合「聖徳太子」や「初唐」以前の規格でつくられた笛と関連していると考えられることを別に説明する必要がありますが、それはかなり困難なのではないでしょうか。

 「蘇莫遮」(渾脱の舞)とともに「法隆寺」の「尺八」として「聖徳太子」との関連が書かれていることや、その「蘇莫遮」が「剣舞」であり「軍楽」と関係していると考えられること、その「尺八」が「唐」以前の基準尺で造られていることが明らかとなったことからも、この「尺八」が「隋代」に伝来したものと考えられることを示し、これも「遣隋使」がもたらしたものと考えると、当然「宣諭事件」以前に伝来したと考えるべきこととなります。そう考えると、少なくとも『書紀』や『隋書』の記事をそのまま受け取るとしても、「大業三年」以前の伝来であると思われ、「文帝」の時代に伝来したと考えるのが正しいと思われることとなるでしょう。そう考えるのは「尺八」の出す音高が「黄鐘」だからであり、それは仏教において「無常」を表す音であり、寺院の梵鐘の出すべき音として認識されていたものだからです。それを踏まえると「煬帝」というより仏教に深く帰依し、仏教を国教とした「文帝」に深く関わるものではないかという推測が可能となるでしょう。

 すでに見たように『徒然草』には「隋代」に「音律」がもたらされたらしいことが書かれているわけですが、その内容から見て「四天王寺」の「鐘」が「尺八」と同じ「黄鐘」という基準音で鋳造されていたらしいことが推定されています。(※2)

 『「何事も邊土は、卑しく頑(かたくな)なれども、天王寺の舞樂のみ、都に恥ぢず」といふ。天王寺の伶人の申し侍りしは、「當寺の樂は、よく圖をしらべ合せて、物の音のめでたく整ほり侍ること、外よりも勝れたり。ゆゑは太子の御時の圖、今にはべる博士とす。いはゆる六時堂の前の鐘なり。そのこゑ、黄鐘調の最中(もなか)なり。寒暑に從ひて上(あが)り・下(さが)りあるべきゆゑに、二月 涅槃會(ねはんゑ)より聖靈會(しゃうりゃうゑ)までの中間を指南とす。秘藏のことなり。この一調子をもちて、いづれの聲をもとゝのへ侍るなり」と申しき。』(徒然草第二百二十段)

 ここでは「四天王寺」の舞楽についての音の基準値が非常に繊細に取り扱われていることがわかります。気温や湿度によって「鐘」の最低音高(基本周波数)が変化するため、「二月涅槃會より聖靈會までの中間」といいますから、「二月十五日」から「二十二日」までの間の中間つまり「二月十八日」の鐘の「音」に他の楽器を調律しているというわけです。

 「尺八」の伝来時期や「四天王寺」の「梵鐘」の基準音が「隋代」以前のものであるということを下敷きにして思惟進行すると、それらは「隋」との交流の中でもたらされたものと考えられ、「隋」の「開皇年間」の伝来が最も考えられるものです。それはまた既に述べた「隋」における「楽制」の制定などの情報や事物がこのとき倭国にもたらされた中の一環であったことを強く示唆するものと思われます。


(※1)明土真也「法隆寺と正倉院の尺八の音律」(『音楽学』59号二〇一三年十月)
(※2)明土真也「音高の記号性と『徒然草』第220 段の解釈」(『音楽学』58号二〇一二年十月)


(この項の作成日 2014/12/28、最終更新 2018/07/16)