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「行程」記事の存在との関係


 「遣隋使」を考える際に重要な史料が『隋書』であり、その中の『たい国伝』です。その中に「行程記事」があります。この「行程記事」は「倭国」の中心地がどこにあるかの推理の道具となっているようですが、そもそもここに「行程記事」があるのはなぜでしょう。
 一般には「行程記事」が存在している理由としていわれるのは、「隋」が「北朝系」であり、「倭国」との国交が「北朝」としては初めてであったためにその「行程」が地理的情報として必要であったと考えられているようですが、私見ではそのことよりも「裴世清」の言葉の中に「宣諭」という語が見えることと深い関係があったものと思われるのです。

 『隋書』をみるとこの「裴世清」派遣記事に先行する「開皇二十年記事」が「帝紀」に存在しています。仮にそれが「隋」として初めての「倭国」への使者派遣を表すものとすると、そこにこそ「行路記事」が書かれて不審はないわけですが、「帝紀」は「列伝」と違い国や人ごとに詳細が書かれる性質の場所ではありません。そうであればこの記事に対応する記事が「列伝」としての『たい国伝』になければならないはずですが、それは存在していません。そのため従来はそれも含めて「大業三年記事」に集約されていたとみていたわけですが、真実はこの「裴世清」派遣が「宣諭使」としてのものであったからではないかと思われるのです。(つまり第一回の隋使はそのような軍事的背景を持たないでやって来たものであり、そのため行路記事がないと推察されるわけです)

 そもそも「宣諭」はすでに検討したようにその使用例から見ても戦闘地域やそれに準ずるような緊張状態の地域に派遣された使者に課せられた職務とみられます。
 『隋書』や『旧唐書』他の資料を検索すると複数の「宣諭」の使用例が確認できますが、それらはいずれも「戦い」や「反乱」などが起きた際あるいは「夷蛮」の地域などに派遣された使者(「節度使」など)の行動として記され、「宣諭」が行なわれるという事自体が既にかなり「穏やかではない」状況がそこにあることを示すものです。つまり「宣諭」という語が「倭国」に対して使用されているということは、ある程度の「緊張」状態が「隋」と「倭国」の間に発生していたことを示すものであり、それは「軍派遣」という政治行動を内在している事を示し、そうであれば「行程」は現地の軍事情報として必須であったこととなるでしょう。

 この「宣諭」という用語は、三世紀「魏」の時代に「倭」の「邪馬壹国」から「狗奴国」との戦闘行為について訴えを聞いた「魏」王権が「帯方郡吏」である「張政」を派遣した際に行った「告喩」と類似していると思われます。

「正始元年…其八年、太守王斤到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄『告喩』之。」(『三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳』巻三十「倭人伝」より)

 この「告喩」という行為については、「狗奴国」の行動(戦闘行為)が「邪馬壹国」というより「魏」に対するものと見なすという内容を含んでいたとものと見られ(それを明示するために「魏軍」の旗を示す「黄幢」を「難升米」に「拜假」しています。)それに対して「狗奴国」が「魏」の大義名分を認め戦闘行為の停止に応ずることもありうるわけですが(実際そうなったものと思われます)、逆にそれに従わず、戦闘行為が継続されるという可能性も考えられるわけであり、その場合「魏」としては「軍派遣」という究極的行動もその選択肢の中に入れざるを得なかったこととなります。なぜなら「魏」は「倭王」に対して「制詔」しており、それは「魏」が「倭王」たる「卑弥呼」に対して「魏」の支配(制度)の元のものとその存在を認知した事を示しますが(それは「卑弥呼」に対して「親魏倭王」という称号を付与したことにも現れています)、そうであれば「魏」は「倭」と「倭王」に対して「皇帝」と「臣民」という関係の中で「防衛」の責務を負っていたこととなり、結果的に「倭」に軍を派遣し、「狗奴国」に対して示威行為あるいは直接戦闘により「邪馬壹国」を防衛するという事態まで想定しなければならなかったことを意味します。
 もし仮に「狗奴国」がこの「檄」に従わずしかも「魏」がそれを放置したとなると「魏」の「権威」は東アジアにおいて「地に墜ちる」ということとなります。それは「皇帝」の国としての責務の「放棄」だからです。その結果多くの配下の諸国が「魏」に対して忠節を誓わないという事態も考えられることとなりかねません。そしてそのような事態が内在されていたとすると彼ら「告諭使団」は軍の派遣・侵攻に必要な情報を記録し報告するという責務を負っていたことになるでしょう。それが端的に現れているのが「行程記事」ではなかったでしょうか。
 この「行路・行程記事」が「軍事情報」であるというのはある程度常識となっているようですが、それは「告諭」という行為とセットであった可能性が高いこととなります。そのような思惟進行が正しいとすると、それは「隋代」において「裴世清」という「宣諭使」派遣の際にも全く同様の事情が隠されていたとみるべきであり、そのためこの「行程記事」が書かれたのではないかと思われるわけです。

 この当時「隋」が「倭国」に対して軍事的圧力をかけるべきだと考え、実際そうしていたと思われるのは「琉球」に対する軍事行動に表れていると思われます。後で触れますが、「隋」は「琉球」に対する軍事侵攻を行いますが、その目的は「倭国」に対する間接的な威嚇であり、「隋」の行動範囲の広さのアピールでもあったと思われます。このときは「倭国」の使者が「隋」が入手した「布甲」(武具)を実見しており、「琉球」はおろか「夷邪久国」まで侵攻されたと勘違いするという事態となっており、それは「威嚇」としては非常に有効であったことを示しています。

 また従来「倭国」は「隋」から「柵封」されず「皇帝−臣下」という関係が築かれなかったとみられているわけですが、それは「倭国」が「対等」を意識していわば「突っ張った」からであるように認識されています。「天子」自称についてもそのような意識の一環と考えられているわけですが、それは実際とは異なるとみられ(「天子」自称は外交下手のためであったと思われますが)、あくまでも「倭国」が「絶域」であるという事情からのものであり、「柵封」されなかったということについては双方合意であったとみるべきですが、「隋」にとって見るとそれが「絶域」であろうと「隋」皇帝の権威を傷つけるものにたいしては軍事的行動をいとわないという意思の表れとして「宣諭使」が派遣されていたとみられ、「行程記事」の存在も同じ理由によるものであったと見るべきこととなるでしょう。
 
 この「行程記事」を書くに当たっては、「倭国」の位置とそこに至るルートや途中に存在する諸国の名称などに違いがなければ『魏志』を引用して終わりとなるはずですが、実際には『魏志』に書かれた時代から四〇〇年近くの年数が経過しているわけであり、当然最新情報が求められていたとみるべきですから、「国名」や距離・方角などについて新たな知見を書いた「行路記事」が必要であったとみられることとなります。
 ちなみに「宣諭」と「告諭」は非常に良く似た用語ですが、違いといえば「宣」が「広く知らせる」意を含んでいるのにたいして「告」は面前の相手にだけ知らせるというように範囲の広さに差があるようであり、『倭人伝』の「張政」の場合は「難升米」だけに「告諭」したものであるのに対して、(目的語として「難升米」という人物名だけが書かれている事でも明らかです。)「裴世清」は「倭国王」本人を含む王権の関係者全員に対するものであると思われ、そのような公開の場所で高らかに「宣」したらしいことが推定されます。(目的語として伝えられた相手の名が書かれていない)
 その場合「隋」皇帝から「宣諭」されるということそのものを「王権」は他(諸官や諸王など)に対して「隠しようがなかった」可能性があり、関係者一同の知るところとなったとみられます。それは「倭国王」としての「権威」を傷つけられたこととなるものであり、「恥辱」といえるものであった可能性があるでしょう。それはその後何らかの影響を王権に及ぼした可能性を推察させるものであり、統治そのものに対する不安定さが顔を覗かせることとなったかもしれません。


(この項の作成日 2017/03/11、最終更新 2017/03/11)