すでに見たように「寶命」と「天命」はその意義が異なり、「天命」は「禅譲」を受けずに新たに王朝を創始したなどのいわゆる「革命」に限定されるのに対して、「寶命」は「前皇帝」との関係を意識した用語であり、「二代皇帝」においても「初代」の持つ大義名分を自らの権威の保持に利用するために使用される場合があると考えられるわけですが、このような用法の「例外」とも言えるのは「隋」の高祖(文帝)です。
彼は「北周」から「禅譲」により「隋王朝」を創始したわけですが、彼はほとんどの場合「天命」を使用し、「寶命」はごく少数です。
『隋書』に現れる彼の「寶命」の使用例は二つあり、一つは「高祖」自身の言葉として表れる「考元矩」(皇太子婦人の父)に対するものであり、一つは「煬帝」の治世下で「薛道衡」という人物が先帝である「高祖(文帝)」の治世を賞賛する「頌」を上表するという場面で現れるもので、これには「煬帝」が不快の念を示しています。
以下にその二例を示します。
「元孝矩,河南洛陽人也。祖修義,父子均,並為魏尚書僕射。…高祖重其門地,娶其女為房陵王妃。及高祖為丞相,拜少冢宰,進位柱國,賜爵洵陽郡公。時房陵王鎮洛陽,及上受禪,立為皇太子,令孝矩代鎮。既而立其女為皇太子妃,親禮彌厚。俄拜壽州總管,賜孝矩璽書曰:「揚、越氛?,侵軼邊鄙,爭桑興役,不識大猷。以公志存遠略,今故鎮邊服,懷柔以禮,稱朕意焉。」時陳將任蠻奴等?寇江北,復以孝矩領行軍總管,屯兵於江上。後數載,自以年老,筋力漸衰,不堪軍旅,上表乞骸骨,轉州刺史,高祖下書曰:「知執謙ヒ,請歸初服。恭膺『寶命,』實ョ元功,方欲委裘,寄以分陝,何容便請高蹈,獨為君子者乎!若以邊境務煩,即宜徙節郡,養コ臥治也。」在州?餘,卒官,年五十九。諡曰簡。子無竭嗣。」 (隋書/列傳第十五/元孝矩)
ここでは「引退」を願い出ていた「元孝矩」に対して「恭膺寶命」つまり「自分の命令をしっかり受け止め」大功績を挙げたという評価をしていると言うことを伝え、「負担」の軽い地域への転勤を認めたという趣旨と受け取れます。つまりこの「寶命」は「皇帝の命令」を意味するものといえるでしょう。
また次の例では
「…虔心恭己,奉天事地,協氣流,休?紹至。壇場望幸,云亭?位,推而不居,聖道彌粹。齊跡?文,登發嗣聖,道類漢光,傳莊『寶命。』知來藏往,玄覽幽鏡,鼎業靈長,洪基隆盛。??問道,汾射?然,御辯遐逝,乘雲上仙。哀纏率土,痛感穹玄,流澤萬葉,用教百年。尚想叡圖,永惟聖則,道洽幽顯,仁霑動植。爻象不陳,乾坤將息,微臣作頌,用申罔極。帝覽之不ス,顧謂蘇威曰 道衡致美先朝,此魚藻之義也。於是拜司隸大夫,將置之罪。…」(『隋書/列傳第二十二/薛道衡』より)
ここでは明らかに「隋」の高祖の即位を「寶命」によるとしています。これらの例があることから、「寶命」という用語と「高祖」とが特に関係が薄いというような判断はできないと思われます。
彼が前例を覆して「天命」を多く使用している理由は、彼が仏教に深く帰依していたことと関係があると思われます。
彼は「即位」して直ぐに仏教を保護・回復したわけですが、さらに「禅譲」を受けたはずの「北周」の制度はほとんど継承せず、「北斉」の制度を大幅に取り入れて「隋制」を形作ったと見られます。そのように前王朝である「北周」の制度と決別し、その「北周」が弾圧した仏教(道教も)をいち早く復活させたことが彼に「天命」という「新王朝」の創始の意味がある用語を使用させている動機となっていると思われるわけですが、さらに「隋」の高祖について「三十三天」から加護を受けて皇帝に即位し「天子」と称したという記事があり、このことも「天命」自称と関係していると思われます。
「開皇十七年翻經學士臣費長房上
大隋?者。我皇帝『受命四天護持三寶』。承符五運宅此九州。故誕育之初神光耀室。君臨已後靈應競臻。所以天兆龜文水浮五色。地開泉醴山響萬年。雲慶露甘珠明石變。聾聞瞽視?語躄行。禽獸見非常之祥。草木呈難紀之瑞。豈唯七寶獨顯金輪。寧止四時偏和玉燭。是以金光明經正論品云。因集業故得生人中。王領國土。故稱人王。處在胎中諸天守護。或先守護然後入胎。三十三天各以己コ分與是王。以天護故稱為天子。…」 (『大正新脩大藏經/第四十九卷 史傳部一/二○三四 歴代三寶紀/卷十二譯經大隨』より)
このように「隋」の高祖の場合は、「仏の保護者」としての意味合いから「天子」を名乗ったものであり、そのため「天命」という用語が使用しやすかったとも言えるでしょう。つまりこの「天」は「三十三天」の「天」の意も多分に含んでいると見られるわけです。(これは「阿毎多利思北孤」の場合と共通しているようです)
しかしすでに見てきたように「倭国」への国書では「寶命」が使用されていたわけであり、これを「隋」の高祖からのものとするには根拠が必要でしょう。
確かに同じ「東夷」である「高麗」への国書では「天命」が使用されています。
「… 開皇初,頻有使入朝。及平陳之後,湯大懼,治兵積穀,為守拒之策。十七年,上賜湯璽書曰 朕受天命,愛育率土,委王海隅,宣揚朝化,欲使圓首方足各遂其心。王?遣使人,?常朝貢,雖稱藩附,誠節未盡。王既人臣,須同朕コ,而乃驅逼靺鞨,固禁契丹。諸藩頓?,為我臣妾,忿善人之慕義,何毒害之情深乎?太府工人,其數不少,王必須之,自可聞奏。昔年潛行財貨,利動小人,私將弩手逃竄下國。豈非修理兵器,意欲不臧,恐有外聞,故為盜竊?時命使者,撫慰王藩,本欲問彼人情,教彼政術。王乃坐之空館,嚴加防守,使其閉目塞耳,永無聞見。有何陰惡,弗欲人知,禁制官司,畏其訪察?又數遣馬騎,殺害邊人,?騁姦謀,動作邪?,心在不賓。…」(『隋書/列傳第四十六/東夷/高麗』より)
この「書」は「開皇十七年」という時点での「高麗」に対する「詰問」が書かれており、それはそれまでの関係の見直し(再構築)を視野に入れている中で書かれています。このような場合には「天命」が使用され、しかもそこには「恭」「欽」などの「謙譲」の語が全く使用されていません。「居丈高」ともいえる語調となっています。
ここでは明らかに「天命」を受けたことを背景に「武力」を前面に出して「威圧」ともいえる態度に出ており、それは以前からの「中国北朝」と「高麗」の関係の「刷新」を前提としていると考えられるものです。
「高句麗」と「北朝」の関係は「北魏」時代に始まるものであり、長い歴史を持っています。「高句麗」は「半島」の覇権を手中にするために「北朝」との関係を安定的にする必要があったものであり、毎年のように「貢献」するなど友好関係を維持してきていました。それを「文帝」は清算してもいいといっているわけであり、非常に強い態度に出ています。このような際に「天命」が使用されているのはその本来の意義である「革命」という考え方を強調するためであり、王権交替時に本来付随する諸々の事情についての「継続性」が断絶されることを意識したものというるものであり、それは「革命」という事象と表裏を成すものといえます。
これらのことから「隋」の高祖(文帝)は「禅譲」を受け前王朝を継承したこととなってはいるものの、新王朝の開祖としての意識も高く、そのため「天命」の使用例も多いものと考えられます。
(この項の作成日 2014/03/26、最終更新 2017/06/24)