「隋皇帝」に差しだした国書に「天子」を自称したという記事があるのは有名です。
(以下『隋書俀国伝』の当該部分)
「大業三年其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰 聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法。其國書曰 『日出處天子致書日沒處天子無恙云云』。帝覽之不悅謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者勿復以聞。」
このように「倭国」からの国書に対して「皇帝」は「蠻夷書有無禮者、勿復以聞」と「無礼」であるとして「不快」の念を示したとされています。これについてはすでに「天子」が複数存在しているような記述にあるとするのが一般的であり、当方もそれには同意します。明らかに「隋皇帝」は(これは高祖(楊堅)と見ていますが)この文言について「皇帝」の「大義名分」を犯すものと理解したと推測します。なぜ「倭国王」(阿毎多利思北孤)はこのような言辞を弄したのでしょうか。巷間言われるような「対等意識」の故でしょうか。これについては私見ではそうとは考えません。「対等意識」と言うより「親近感」からのものではなかったかと見ています。
なぜ「阿毎多利思北孤」は「天子」を名告ったのか。それは彼がほぼ「革命王朝」であることと関係していると考えます。彼は「隋」の高祖(楊堅)と自分の境遇を照らして「似ている」意識があったのではないでしょうか。
「隋」の高祖「楊堅」は「北周」から「禅譲」を承けて「隋」朝廷を開いたものですが、彼はそもそも「北周」の王室に連なる人物ではなく、その意味では「革命王朝」と言ってもいいと思われます。それを証するように倭国への国書(推古紀に掲載されているもの)では「寶命」を使用していますが、それ以外の場では「天命」を強調しています。(例えば「高句麗」への国書やそれ以外の「詔」など)もちろん純粋な「隋」は「革命」によったわけではなく「年号」も「建元」ではなく「改元」(開皇)しており、基本としては禅譲を承けたこととなっていますが、実際には前王朝である「北周」の政治体制や政治の基調はほぼ全て否定しており、彼は全く新しい「隋」という国家を造り上げたものです。特に「宗教」(仏教と道教)について「楊堅」はそれまでの「北周」による「全否定」路線を改め、逆にこれを全面的に開放し、というよりむしろ積極的に宗教(特に仏教)を統治に利用する方向で国の体制を造り上げていったものです。
これに対し「阿毎多利思北孤」の場合は(推測によれば)「倭国王朝」に連なる系譜(ただし多分「傍流」)であったと思われるものの、当時王権を「物部」にいわば「簒奪」されていた状況があり、彼に至ってこれを奪回したと考えられ、そうであれば「前王朝」とは断絶しているわけであり、ほぼ「革命」と言いうるものであったと思われます。その場合「天」からそのような「命」を承けたと言いうるわけですから、彼は「天子」であると称して不自然ではないこととなります。
「楊堅」が「天命」を称している状況を見て、彼と同様の立場であると考えた結果「二人の天子」が生じることとなったものと思われる訳であり、それは別に「楊堅」に対抗する意図からではなく、いわば「親近感」の発露ではなかったでしょうか。
遠く離れた「絶域」にあり、また「隋」の臣下として存在しているわけではないですから、「隋」の「天」の下にはないと考えていたとして不思議ではありません。「列島」は別の「天」の下にあると考えていたものではないでしょうか。この「阿毎多利思北孤」の考え方は実体としてはそれほど不自然ではなかったと思われるものの、「国書」として明記されるとさすがに「不穏当」と考えられたことは容易に想像でき、そのため「夷蛮の書に無礼がある」と判断されるに至ったものと思われます。
この点については「文林郎」として派遣された「裴世清」に対して「倭国王」つまり「阿毎多利思北孤」が自らを「僻在海隅」つまり海の彼方にぽつんと存在しているという表現があり、やはり「隋」の「天の下」にいるわけではないと言うことを間接的に主張しているのが注目されます。
「既至彼都,其王與清相見,大悅,曰:「我聞海西有大隋,禮義之國,故遣朝貢。我夷人,僻在海隅,不聞禮義,是以稽留境?,不即相見。今故清道飾館,以待大使,冀聞大國惟新之化。」清答曰:「皇帝德並二儀,澤流四海,以王慕化,故遣行人來此宣諭。」(隋書/列傳第四十六 東夷/倭國)
これに対し「裴世清」も「皇帝の徳」は「四海」に及ぶとして「阿毎多利思北孤」の主張を軽く否定しています。つまり「海の彼方であつても皇帝の天の下である」というわけです。これらは「見解の相違」という中に収斂しそうですが、それでは皇帝の権威が保てないと考えた「隋」の高祖により「宣諭」するという事態となったと見られるわけです。
いずれにしても「阿毎多利思北孤」が「隋」に使者を送ったのは(裴世清に対する文言にもあるように)「隋」が「禮義之国」だからであり「維新之化」を学びたかったからであると思われ、その点からも「対等意識」があったはずがないといえるでしょう。ひたすら「倭国」を「維新」すること、「禮義之国」にすることを求めていたと見られます。
結局国際情勢や外交はやはり「クリチカル」なものであり、修辞に巧みでなければ誤解などを生むのはいかにもありうることで、この「阿毎多利思北孤」の場合も「外交辞令」というものに疎かったことが致命的であったといえそうです。それはやはり「半島」や「中国」との国交が非常に長い期間絶えていたという中にその問題のベースとなるものがあったわけであり、その意味では倭国にとって見るとかなり難しい事案であったものと思われます。
(この項の作成日 2018/11/25、最終更新 2020/02/15)