ホーム:倭国の六世紀:「阿毎多利思北孤」王朝:隋書たい国伝:遣隋使と遣唐使:

「寶命」の意義


 『書紀』(『推古紀』)には倭国が「遣隋使」を送り、その返答使節として送られてきた「隋使」が「皇帝」からの「国書」を持参した、と書かれています。そして、その「隋皇帝」である「煬帝」の国書として『書紀』に全文が掲載されています。

「(推古)十六年(六〇八年)…秋八月…壬子条」「召唐客於朝庭。令奏使旨。時阿倍鳥臣物部依網連抱二人爲客之導者也。於是大唐之國信物置於庭中。時使主裴世清親持書。兩度再拜言上使旨而立。其書曰『皇帝問倭皇。使人長吏大禮蘓因高等至具懷。朕欽承寶命 臨仰區宇。思弘徳化 覃被含靈。愛育之情 無隔遐迩。知皇介居表 撫寧民庶。境内安樂 風俗融和。深氣至誠 達脩朝貢。丹款之美。朕有嘉焉。稍暄比如常也。故遣鴻臚寺掌客裴世清等。稍宣徃意。并送物如別。…』」

 これによれば「隋皇帝」からの国書の中で「寶命」という用語が使用されているようです。この用語は「古田氏」により「天命」と同じ意味であり、それをより「強調した」形のものとされました。(※)
 この「寶命」が「天命」と同じとすれば、この用語は「革命」思想につながっているものであり、「天子」(皇帝)が天の意志を十分に臣下(人民)に伝えられず、その任に堪えないようなときは「革命」により、別の人間が「天子」(皇帝)として差し向けられる、という事を指す用語です。
 このような革命思想に基づく「天命」という用語を最初に使用したのは「周」の「武王」であり、彼は「殷」の「紂王」を打倒して「周王朝」を開いたわけですが、元々「武王」はあくまでも「殷王朝」に対して臣下の礼をとっていたわけですから、当時の大義名分から言うと彼が「天子」の地位に就くことは「あってはならないこと」だったのです。だからこそ、その自分が天子の座に就いたことを正当化する必要があったのであり、そのために考えられたのが「革命」という思想なのです。
 これを利用したのが「漢の高祖」です。彼の場合は「秦の皇帝」という「天子」を一介の武将である「劉邦」(漢高祖)が打倒して政権を奪取した言い訳が表現されているのです。
 これらのことから「古田氏」はこの用語が書かれた国書が「隋」の「二代皇帝」である「煬帝」のからのものであるはずがないと、論証しました。なぜなら彼にはそのようないわば「言い訳」とも言える用語を使用する動機がないというのです。そして、この「寶命」という用語を使用する動機を持っているのは「唐」の高祖であるとされ、この国書記事は十年以上過去に移動させられているという論となったものです。

 ところでこれらは「天命」という用語と「寶命」という用語が同義であるという前提でした。確かに辞書(「大漢和辞典」)にはそのように出ていますが、実際の使用例をみてみると「寶命」には別の意義もあると思われるのです。
 用例を渉猟してみると「寶輿」(神仏・天子などの乗物)、「寶業」「寶算」(天子の年齢ともいう)「寶暦」(これは「暦」を言うと思われる)「寶座」「寶祚」(天子・皇帝の位)等々「寶」のつく字は「皇帝」に関わるものとして頻出します。この「寶」の付く意義は「最高」「至上」という意味があり、それが仏教に関する事であれば「仏陀」に関する事として「寶」字が使用されているのが確認できますし、現実的、政治的な部分では「皇帝」に関わるものとして各史書等に現れているものです。
 たとえば、「煬帝」の「詔勅」の中に「寶」の付く用語が使用されているのが確認できます。『隋書』には「寶命」そのものずばりは見られませんが、「寶」がつく語はいくつか使用されています。

(以下の例は『隋書煬帝紀』によります)

@「大業元年春正月壬辰朔戊申条」「發八使巡省風俗。下詔曰昔者哲王之治天下也,其在愛民乎?既富而教,家給人足,故能風淳俗厚,遠至邇安。治定功成,率由斯道。『朕嗣膺寶暦』,撫育黎獻,夙夜戰兢,若臨川谷。雖則聿遵先緒,弗敢失墜,永言政術,多有缺然。況以四海之遠,兆民之?,未獲親臨,問其疾苦。?慮幽仄莫舉,寃屈不申,一物失所,乃傷和氣,萬方有罪,責在朕躬,所以寤寐搨V,而夕タ載懷者也。…」

 ここでは「嗣膺寶暦」という用語が使用され、「嗣」ぐ、つまり「継承する」という意義の語が使用されています。またここでいう「寶暦」は「皇帝の年齢」という説明が辞書にありますが、ここではそれでは意味が通じません。これは明らかに「前皇帝」の作られた「暦」を意味するものと思われ、それを継承するというわけです。
 「暦」を新しく作るという事は「初代王」の仕事であり、「二代皇帝」はそれを継承するべきものということを示していると思われます。

A「同年閏七月丙子条」「詔曰君民建國,教學為先,移風易俗,必自茲始。而言?義乖,多?年代,進コ修業,其道?微。漢採坑焚之餘,不?如線,晉承板蕩之運,掃地將盡。自時厥後,軍國多虞,雖復黌宇時建,示同愛禮,函丈或陳,殆為?器。遂使紆青?紫,非以學優,製錦操刀,類多牆面。上陵下替,綱維靡立,雅缺道消,實由於此。
『朕纂承洪緒』,思弘大訓,將欲尊師重道,用闡厥?,講信修睦,敦奬名教。…」

 ここでは「纂承洪緒」とされていますが、「洪緒」とは「大きな事業」を意味するとされ、「纂承」はほぼ「継承」と同義ですから、全体として前皇帝の偉業を継承しますという意になると考えられます。

B「大業二年五月乙卯条」「詔曰 旌表先哲,式存饗祀,所以優禮賢能,顯彰遺愛。『朕永鑒前修』,尚想名コ,何嘗不興歎九原,屬懷千載。其自古已來賢人君子,有能樹聲立コ、佐世匡時、博利殊功、有益於人者,並宜營立祠宇,以時致祭。墳壟之處,不得侵踐。有司量為條式,稱朕意焉。」

 ここの「永鑒前修」の「永鑒」とは「長く模範、戒めとする」という意味ですから、ここでは「前修」つまり「前皇帝」の「成果」や「結果」について、模範といたしますという訳です。

C「大業十年二月辛卯条」「詔曰 ?帝五十二戰,成湯二十七征,方乃コ施諸侯,令行天下。盧芳小盜,漢祖尚且親戎,隗囂餘燼,光武猶自登隴,豈不欲除暴止戈,勞而後逸者哉 『朕纂成寶業』,君臨天下,日月所照,風雨所沾,孰非我臣,獨隔聲教。」

 この使用例の場合は「寶業」という用語が使用されています。「纂成」とは「受け継いでまとめ上げる」という意味ですから、当然この「寶」も「前皇帝」に関わる用語と考えられます。つまり、全体としては前皇帝の偉業をさらにまとめて仕上げます、という意味と見られます。

 このように『隋書』等「史書」には「寶」の前置される例は多く、それらは(前)「皇帝」に関わるものとして使用されてはいるものの、「寶命」そのものは見られず、これを捉えて「古田氏」は「寶命」は「煬帝」に似つかわしくないとしたわけです。しかし、「大正新脩大蔵経」の中に収められた「煬帝」関連の記事の中には「寶命」の使用例が確認できます。

(煬帝の例)

(大正新脩大藏經第五十二卷 史傳部四/二一○三 廣弘明集卷二十八/?福篇第八/序/隋煬帝行道度人天下敕)
「大業三年正月二十八日。菩薩戒弟子皇帝總持稽首和南十方。一切諸佛十方一切尊法十方一切賢聖 …水滴已微。乃濫觴於法海。弟子階?宿殖。『嗣膺寶命臨御區宇』。寧濟蒼生。而コ化弗弘刑罰未止。…」

 さらに同じく「二代皇帝」である「唐」の「太宗」についても「寶命」の用例が検出できます。

(太宗の例)

(大正新脩大藏經/第四十九卷 史傳部一/二○三六 佛祖?代通載二十二卷/卷十一/太宗詔度僧尼建寺)
(丁亥)太宗文皇帝世民改貞觀 …
(癸巳)七年。三藏法師玄奘。游天竺求法。達于王舍城。奘生洛州偃師陳氏。隋季出家具戒。博貫經籍。?慨前代譯經多所訛略。志游西土訪求異本以參訂焉。以三年冬抗表辭帝。制不許。即私遁自原州出玉關抵高昌。…
十一月。詔曰。三乘結轍濟度為先。八正歸依慈悲為主。流智慧之海膏澤群生。剪煩惱之林津梁品物。任真體道理叶至仁。妙果勝因事符積善。『朕欽若金輪恭膺寶命』。至コ之訓無遠不思。大聖之規無幽不察。…」

 「煬帝」と「太宗」は別にいた「皇太子」を廃した後に自分が「太子」となって即位しています。これを「異例」と言えば「異例」と言えるかも知れませんが、それ以前にも「皇太子」が廃された例も他にもあり、その意味では「よくあること」とも言えるでしょう。そもそも彼ら自身は前皇帝の息子(皇子)であり、別に一介の武将が成り上がったわけではないし、また「本来なれるはずがない」というような位置にいたわけではありません。つまり「皇太子」ではなかったものの、彼らにも「皇帝」の地位の継承能力と資格は充分備わっていたと考えられます。その意味では特に異例というわけではないと思われます。
 このことは、「天命」と違って「寶命」という用語が使用される場合には「新王朝」であり「初代」であるとは限らないということを意味します。それは即座に「古田氏」がいうような、『書紀』に出てくる「隋皇帝」からの「国書」というものが「煬帝」からのものではないとは即断できなくなる性質のものと思われます。

 例えば「梁」の「武帝」についての記述に「寶命」が現れますが、彼は「雍州刺史」であった時、当時の皇帝である「蕭宝巻」打倒の兵を挙げて彼を殺害し、「明帝」の子供であった「蕭宝融」を皇帝に仕立て、また「明帝」の皇太子の妃であった「宣徳皇太后」から禅譲を受けるという形で「五〇二年」に帝位に即き、「梁」を興したものです。
 この場合重要なことは「宣徳皇太后」から「命令」(「宣徳皇后令」と称する)が出され、それに従う形で即位したとされていることです。つまり彼が即位するのに「寶命」が使用されているとすると彼の「傀儡」ではあったとは思われるものの「皇太后」からの「命」を受けるという形であることが注意されます。つまり「寶命」とはこの「宣徳皇太后」からの「命令」を意味するものとも考えられるわけです。

(以下「梁の武帝紀」の当該部分)

「梁書 本紀第一 武帝 蕭衍」
「(四月壬戌)…惟王體茲上哲,明聖在躬,禀靈五緯,明並日月。彝倫攸序,則端冕而協?熙;時難孔棘,則推鋒而拯塗炭。功踰造物,コ濟蒼生,澤無不漸,仁無不被,上達蒼昊,下及川泉。文教與鵬翼齊舉,武功與日車並運。固以幽顯宅心,謳訟斯屬;豈徒桴鼓播地, 卿雲叢天而已哉!至如晝覩爭明,夜飛枉矢,土淪彗刺,日既星亡,除舊之?必顯,更姓之符允集。是以義師初踐,芳露凝甘,仁風既被,素文自擾,北闕?街之使,風車火徼之民,膜拜稽首,願為臣妾。鍾石畢變,事表於遷虞;蛟魚並出,義彰於事夏。若夫長民御?,為之司牧,本同己於萬物,乃因心於百姓。『寶命』無常主,帝王非一族。今仰祗乾象,俯藉人願,敬禪神器,授帝位于爾躬。大祚告窮,天祿永終。於戲!王允執其中,式遵前典,以副昊天之望。?上帝而臨億兆,格文祖而膺大業,以傳無疆之祚,豈不盛歟…」 

 また、「斉」(南斉)の初代皇帝である「高帝」についても同様に「寶命」が使用されています。
(以下「南斉書」の例)

「南齊書/志 凡十一卷/卷十一 志第三/樂/南郊樂舞歌辭/夕牲歌/肅咸樂

羣臣出入,奏肅咸之樂:?承『寶命』 ,嚴恭帝緒。奄受敷錫,升中拓宇。亘地稱皇,?天作主。月域來賓,日際奉土。開元首正,禮交樂舉。六典聯事,九官列序。此下除四句,皆顏辭。」

封宋帝為汝陰王,築宮丹陽縣故治,行宋正朔,車旗服色,一如故事,上書不為表,答表 不稱詔。…詔曰:「宸運肇創,『寶命』惟新,宜弘慶宥,廣敷?汰。劫賊餘口沒在臺府者,悉原放。諸負釁流徙,普聽還本。」

 これは「宋皇帝」の「禅譲」の「詔」とそれを受けた「斉高帝」の言葉です。「高帝」に関しては他にも多数の「寶命」の使用例が出てきます。ここでも「寶命」は前王朝、前皇帝との関連で使用されているものであり、他の「寶」の付く語と本質的に違わない性格のものと言えます。

 また、「南朝劉宋」の「明帝」について使用された例もあります。

「明帝泰始二年十一月辛酉, 詔曰 朕載新『寶命』,仍離多難,戎車?駕,經略務殷,? 告雖備,弗獲親禮。今九服既康,百祀咸秩,宜聿遵前典,郊謁上帝。」(『宋書/志第六/禮三』より)

 彼の場合は「前皇帝」の「叔父」であり、確かに「一介の武将」というわけではありませんでしたが、(初代皇帝でもありません)その「甥」である「前皇帝」を部下に殺させて即位した人物です。
 本来この時代の「南朝劉宋」の「帝位」の継承は「親子」相続であったと考えられ、初代皇帝以下「暴力」と「殺戮」の中ではあるものの「親子」間の継承が基本でした。そのような流れの中では「甥」から「叔父」という継承は本来許容されるものではなく、通常であれば彼は「皇帝」にはなれるはずがない人物だったのです。「前皇帝」の暴虐が余りにひどかったため、自ら手を下さなかったものの「前皇帝」を亡き者にして自分が即位したものです。そして彼は「即位の詔」の中で、このようなことを行ったことの言い訳として「寶命」という用語を使用したのです。つまり、彼の使用例は「前皇帝」である彼の兄から自分への「命」が新たに降りたという形式を踏んでいると思われ、これも実は「前皇帝」との関連で使用されていると言う可能性が考えられます。(そのため『新寶命』という言い方をしているものと思われる)

  ところで、「中国」の歴代王朝の史書に「天命」と「寶命」の使用例を探すと圧倒的に「天命」が多いことに気がつきます。「寶命」はかなり希少な例と言えるでしょう。それをみると「南朝」の「劉宋」の「明帝」の使用例が初出のように思われ、それ以前の古典的な「史書」である『史記』や『三國志』『漢書』『後漢書』などには確認できません。このことから「寶命」は割と新しい使用法と思われ、連綿として続く「南朝」の歴代王朝に特に顕著な、「王権」の交替についての特別な意識があったものではないかと思われることとなります。
 上に見た「南斉」の「高帝」は「南朝劉宋」から禅譲を受けたものであり、彼についても「寶命」という用語は「天命」とは同義ではなく、「前王朝から」の継承ということを含んで使用されていると考えられるわけです。

 さらに「寶命」は「煬帝」や「太宗」のように「初代」以外の皇帝にも確認できますが、「天命」の場合、明らかに「初代」以外の使用例がありません。この事からも「寶命」と「天命」とは(「南北朝」以降は)異なる意義で使用されていると思われ、「寶命」は「前皇帝」との関係を特に強調したい場合に使用されるものであり、それが「煬帝」や「太宗」の場合のように「二代皇帝」であっても、「初代」との関係を強調しようという意図がある場合に使用されることもあり得ると言うことではないでしょうか。
 「二代皇帝」は「初代」が開いた「王朝」を継承したわけですが、政権基盤がまだ「不安定」である場合が多く、その場合「初代」の持つ権威を自分の権威と重ねるという行為が必要となるというケースもあったものと思われます。「初代」の持つ大義名分を正統に継承しているというアピールが「二代政権」の正統性を証明するものとして特に必要であったものであり、そのため「寶命」が使用されたものと思われます。
 これは「禅譲」を受けて「新王朝」を開いた場合において「初代」の王権の確立に伴う論理構造と同質のものであったと思われます。
 「新王朝」においても自らの政権基盤の安定のためには「旧勢力」である「前王朝」の「皇帝」からの権威の継承ということを明確にする必要があったと見られ、このような「寶命」という用語が使用されるケースは国内外の「諸勢力」に対する「大義名分」としてより「説得的」であると言うところが重要なのではないかと推測されます。つまり「天」からの「命」でありつつ、「前王朝」の持つ大義名分をも引き継ぐという、いわば「一石二鳥」とも言うべき政権奪取の形式を表現するものであったと思われるのです。

 これに対し「天命」の例はすでに述べたように全くの「新王朝」の「皇帝」に限定して使用されているように見えます。つまり本来の「革命」としての意義で使われていると思われます。
 たとえば(後代の例ですが)「北宋」が「金」に「華北」を奪われた後建国された「南宋」の皇帝に奉られた「詩文」に以下のようなものが見出せます。

「嘉定十五年皇帝受恭膺天命之宝三首」「我祖受命,恭膺于天。/爰作玉宝,?祗?虔。/申?无疆,神?有傅。/昭???,于万斯年。」

 「南宋」を建国した人物は「北宋」が滅亡した際の「皇帝」の弟であり、彼が「江南」の地に改めて「南宋」を建国したものですが、この場合明らかに「禅譲」ではないわけですから、「寶命」が使用されていないのは当然ともいえます。その彼について「我祖受命」と書かれ、また「皇帝受恭膺天命」と書かれているのは、まさに「天」以外には彼を皇帝にすべしとした「権威」「権力」がなかったことを示しますから、まさに「受命」があったとするしかないわけです。
 彼の「皇帝即位」は当然のことながら、はなはだ「異例」のことであり、「北宋」が亡ぼされるというような状況がなかったら、彼が即位するというようなことにはならなかったはずですから、周囲からみて彼に対し「受命」があったと見るのはある意味当然でもあり、そのような人物に対しては「天命」が使用され、「寶命」は使用されていないわけです。
 このように「寶命」と「天命」は「隋代」においても異なる意義で使用されていると考えて差し支えないのではないでしょうか。


※「古代は輝いていた」「T」「U」「V」朝日新聞社)


(この項の作成日 2004/10/03、最終更新 2014/08/10)