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「元興寺縁起」に書かれた「裴世清」について


 すでにみたように「斐世清」という人物は、「隋初」に「倭国」へ「鴻臚寺掌客」として訪れ、その後再度(今度は「文林郎」として)「倭国」へ派遣されることとなったと言うことと推測できるわけです。それは「元興寺」の「丈六仏像」の光背に「大随國」と書かれている事からもいえることと思われます。
(以下「丈六仏像」の光背銘を抜粋)

「…歳次戊辰、大隨國使主鴻艫寺掌客裴世清、使副尚書祠部主事遍光高等來奉之。…」

 ここでは『書紀』と違って「随」(隋)という国名が現れています。年次には『書紀』同様疑いが残るものの「唐」ではなく「隋」という国名が現れている点では『書紀』よりも信がおけるともいえるでしょう。またその点は「副使」として「尚書祠部遍光高」という人名が書かれている事からもいえます。このような「裴世清」以外の人名のデータは『書紀』にはなく、これは『書紀』と異なる原資料に依拠したものと言え、『書紀』の「二次資料」というような単純な捉え方はできないことを示します。
 またここで「副使」とされる「遍光高」の肩書きが「尚書祠部」となっていますが、この職名は「資料」によれば「北周以前」に現れるものであり、一般に「北周」以降は「尚書禮部」と変ったとされています。しかし、資料によれば「隋初」にも「尚書祠部」は登場しています。

「…昌衡字子均。父道虔,魏尚書僕射。昌衡小字龍子,風神澹雅,容止可法,博?經史,工草行書。從弟思道,小字釋奴,宗中?稱英妙。故幽州為之語曰:「盧家千里,釋奴、龍子。」年十七,魏濟陰王元暉業召補太尉參軍事,兼外兵參軍。齊氏受禪,?平恩令、太子舍人。尋為僕射祖孝?所薦,遷尚書金部郎。孝??曰:「吾用盧子均為尚書郎,自謂無愧幽州矣。」其後兼散騎侍郎,迎勞周使。武帝平齊,授司玉中士,與大宗伯斛斯?修禮令。
開皇初,拜尚書祠部侍郎。高祖嘗大集羣下,令自陳功績,人皆競進,昌衡獨無所言。左僕射高?目而異之。陳使賀徹、周濆相繼來聘,朝廷?令昌衡接對之。未幾,出為徐州總管長史,甚有能名。…」(隋書/列傳 凡五十卷/卷五十七 列傳第二十二/盧思道 從父兄昌衡/勞生論)

 ここでは「開皇初,拜尚書祠部侍郎」とありますから、「六世紀代」の「文帝」の治世の期間であると考えられ、その時点では「尚書祠部」が存在していたことを示すものです。
 「隋」は「周」から「禅譲」されたにも関わらず「周制」は一部しか継承せず、その前代の「北斉」の制度にほぼ依っているとされます。その「北斉」にも「尚書祠部」は存在していました。「隋」はこれを継承したもののようです。そして「開皇中」に「祠部」が拡大され「禮部」の一部へと編成替えになったようです。

「屬世宗將受魏禪,元康與楊?、崔季舒並在世宗坐,將大遷除朝士,共品藻之。世宗家蒼頭奴蘭固成先掌廚膳,甚被寵昵。…明年,乃詔曰 元康識超往哲,才極時英,千仞莫窺,萬頃難測。綜核戎政,彌綸霸道,草昧邵陵之謀,翼贊河陽之會,運籌定策,盡力盡心,進忠補過,亡家徇國。掃平逋寇,廓清荊楚,申、甫之在隆周,子房之處盛漢,曠世同規,殊年共美。大業未融,山?奄及,悼傷既切,宜崇茂典。贈使持節,都督冀定瀛殷滄五州諸軍事、驃騎大將軍、司空公、冀州刺史,追封武邑縣一千?,舊封並如故,諡曰文穆。賻物一千二百段。大鴻臚監喪事。凶禮所須,隨由公給。元康母李氏,元康卒後,哀感發病而終,贈廣宗郡君,諡曰貞昭。
元康子善藏,?雅有鑒裁,武平末假儀同三司、給事?門侍郎。隋開皇中,尚書禮部侍郎。大業初,卒於彭城郡贊治。」(北齊書/列傳 凡四十二卷/卷二十四 列傳第十六/陳元康)

 ここでは「開皇中」とされますから「文帝」段階で既に「尚書禮部」という表記が一般的になっていたと見られます。(実際の出現例も同様の傾向を示します)
 つまり「尚書祠部」という職名の存在期間としては「七世紀」以前であることは間違いなく、このことからも「元興寺縁起」に書かれた「遍光高」の来倭は「六世紀代」の「開皇年中」、しかもその前半であるという推定が可能でしょう。
 この資料が信のおけるものとすれば、逆に「鴻櫨寺掌客」という官名についても、「開皇年中」に使用されていたものという推測もまた可能であるという事となります。

 ところで、『書紀』の地の文には「隋」という国名は一切現れません。書かれているのは「大唐」、ないしは「唐」です。「隋代」であるはずの年次記事についても「唐」と書かれています。このような『書紀』の記述に対して「古田氏」はそれが実際の「遣唐使」であり「唐使」であるからそこに「唐」「大唐」とあるのだと論証されています。そこでの主張はまことに明解ではあるものの、他の理解も成立する余地がないとはいえないと思われます。それは『書紀』編者が「隋」という表記をなるべく避けようとしていたのではないかと考えられる事ですそれを証するものとして『書紀』に「高麗」からの使者が口上したものがあり、そこでは「隋」という国名及び「煬帝」という人名が(ただ一度だけですが)書かれています。(「高麗」からの使者が「隋」を打ち負かしたと述べる部分)

「(六一八年)廿六年秋八月癸酉朔。高麗遣使貢方物。因以言。隋煬帝興卅萬衆攻我。返之爲我所破。故貢獻俘虜貞公。普通二人。及鼓吹弩抛石之類十物并土物駱駝一疋。」

 これによれば「隋」と「煬帝」は「高麗」を攻めたものの逆に「破られた」とされており、ここでは「隋」と「煬帝」は「立場」を失わさせられています。このような場面にしか「隋」「煬帝」が出てこないと言うことは、『書紀』は「隋」「煬帝」に対し「軽蔑」の念を抱いているからであると思われます。それは「唐」との関係を主たるものとする立場からのものであったと思われ、「隋」に対しては「友好的」な取扱いとはせず、「貶める」あるいは「なかったこととする」という編集方針ではなかったでしょうか。つまり「隋」と「倭国」の関係は基本的には「伏せる」という編集方針であったものではないかと思われます。
 さらにそれは『書紀』編集時点における「唐」との関係から来る「追従」であったともいえるかもしれません。つまり「唐」の持つ大義名分を「過去」に延長した結果、「隋」という国名が「地の文」として現れる事がなくなったとも言えるでしょう。それは「唐」に「おもねった」結果であると言うことなのではないでしょうか。
 「隋」は「唐」からは嫌われていましたし、その「隋」と友好関係を持とうとしたあるいは持った過去があることをできれば隠したいという思惑があったのではないでしょうか。それはこの『書紀』が「唐」の「目に触れる」という機会があった可能性があるからです。『書紀』は「唐」の「目」を意識して書かれているというのは有名な話であり、この部分もそれを意味するものなのではないかと考えられるものです。
 そう考えると一概にこれが「唐」の時代のことであったからという理解だけが成立可能とはいえないと思われます。


(この項の作成日 2014/02/28、最終更新 2017/01/28)