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「五行」と「納音」(音律と音数)


 「中国」では「詩」は「曲」に乗せて「歌う」ものでした。その場合多くは「琴」が伴奏として使用されていたものです。先に挙げた「帝舜」の「春風」も同様であったものであり、「五弦琴」を弾きながら「詩」を歌ったものです。このような場合元々「詩」の「一音」が、「曲」の「一音」に対応するものではなかったかと考えられます。つまり、「詩」の「一区切り」の音数と「弦の数」とが元々対応していたのではないかと考えられ、「五弦琴」の存在は原初的な「詩」における「一区切り」の数が「五音」であったことを示すものではないでしょうか。
 つまり「琴」の演奏の原初的な演奏法は「開放弦」による演奏が基本であったと思われ、「指」で「絃」を押さえて「違う音階」を発生させるのはそれに継ぐ段階であると考えられるわけです。
 「詩」が本来「曲」に乗せて歌うものであり、またそれを「五弦」に乗せて歌うなら「五言詩」がしっくりくるでしょうし、「七弦」ならば「七言詩」がふさわしいといえるのではないでしょうか。
 つまり、詩の形式の発展と「琴」の弦数とは関係があるのではないかと考えられることとなります。

 「詩」の形式においては「唐代」以前の「詩」を「古体詩」と呼び、「四言」「五言」「七言」などいくつか種類があるようですが、「漢の武帝」の時代(紀元前一二〇年)宮中に設けた音楽を司る役所を「楽府」といい、またその後そこに集められた民間の歌謡そのものを指すものともなったとされます。当然「曲」が先行して存在しており、「役人」としての「楽人」が典礼用の詩を作り、それをそれらの「曲」に乗せて歌ったもののようです。ただし「曲」にはすでに「題」がついているわけであり、新しく作った詩にも同様の「題」が適用されたものです。
 「魏」の「曹操」の「楽府」に納められた「詩」では「五言詩」が非常に多く、この時代の詩曲の多くが「五音」単位で作られていたことを示しています。
 「曹操」は民間歌謡に取り上げられた「題」を使用して(というか「借りて」)多くの詩を歌っています。それらの多くは「散逸」して失われましたが、一部にはそれが残っており、その中から一例を示します。
 ここでは例として「韮露」という作品を挙げます。

「惟漢廿二世/所任誠不良/沐猴而冠帯/知小而謀彊/猶豫不敢断/因狩執君王/白虹為貫日/己亦先受殃/賊臣持国柄/殺主滅宇京/蕩覆帝基業/宗廟以燔喪/播越西遷移/号泣而且行/瞻彼洛城郭/微子為哀傷」(「宋書楽志 楽府詩集二十七」より)

 このメロディーのように「五音」で構成される「詩曲」はまさに「五弦」による伴奏が最もふさわしいと思えます。一音一語と考えれば五言が複数繰り返される型の詩文に曲をつける際には「五弦」の楽器が最も適切に思われるわけです。

 そもそも「詩」が本来「メロディー」を持つものであり、楽器演奏が必須であったと考えると、「詩」と「音階」と(というより「音律」というべきでしょうか)には深い関係があることとなるでしょう。
 中国語は日本語と違って極端な高低アクセントがあり、中国人の話しているのを聞くと「音楽的」という印象を受けるという意見がありますが、それは「詩文」を吟ずる際には特に顕著になったものと思われ、「楽器」で伴奏するのも当然と思われますが、その際に中国語のイントネーション(「平仄」)とマッチしなければならず、「音階」や「音律」と「言語」の間には直線的関係があったこととなるでしょう。それは「五絃」と「五言」の間に関係があると考えることにつながるものです。
 日本においても「山田耕筰」のように日本語のイントネーション(高低アクセント)に沿って作曲をするという運動をしていた例がありますが、中国語の「平仄」はもっと明確に音の高低が意識されるものであり、調律がそれを意識しなかったとは考えにくいと思われます。つまり「平仄」と「音階」は整合的でなければならないはずであり、韻文を音階で表すとするとそのような調律が必要となるということでもあります。

 ところで「五行説」というものがあります。それはこの宇宙が「五つの要素」でできているとする考え方であり、それが移り変わることで「陰」と「陽」が変転するというものです。このような思想が「倭国」に到来したのがいつのことなのかは明確ではありませんが、海外との折衝が頻繁に行われていたのが「五世紀」の「倭の五王」時代のことであることを考えると、少なくとも最後の「武」以前ではないかと考えられることとなるでしょう。しかしその本格的な導入は『書紀』では『推古紀』に記された「百済」からという「暦本」「天文」「方術」などを扱う人間が来倭したとする記事が注目され、「六世紀終わり」という時期が最も考えられるものです。

 この「五行」はそれぞれ「木」「火」「金」「土」「水」に配され、それに対応する「色」として「青」「赤」「黄」「白」「黒」の五色があるとされます。しかし、「色」だけではなく「音階」も配されているのです。それは「納音」と呼ばれています。
 「納音」は「五行」を音階で表したものであり、それは「五行」に当てはめられていることから考えて、その音階を表す楽器が「五弦」以上のものであることが推察されます。その音階としては「宮」、「商」、「角」、「徴」、「羽」の五つの音階が相当するとされ、さらにその後これが「干支」に配されて年ごとの吉兆を占うものとして考えられるようになりました。これは「五弦琴」あるいは「七弦琴」の「第一絃」から「第五絃」までの「開放弦」の音階そのものであり、年次(生まれ年)に応じて「音階」つまり「納音」が定まっていたものです。
 この「納音」は「南北朝」以降の中国で確認できますが、それがいつ「倭国」へ伝わったかは不明でしたが、「二〇一四年」に熊本県で「納音」が付された「文書」が見つかり、それに「九州年号」が書かれており、またその「九州年号」の最初である「善記」がその「起点」となっていることことが確認されました。これを見ても、「九州倭国王朝」が健在のうちに伝えられたことが窺われ、すでに行った検討などからも「倭国」に伝わったのは「隋代」であったと考えるのが自然です。

 また、この「納音」が「音階」と関係しているということから、この時の「納音」が「楽器」(特に「七弦琴」)と共にもたらされたものと考えるのは自然です。
 「聖徳太子」と「音律」を結びつける伝承は「徒然草」の中に顔を出しています。そこでは「天王寺」の楽士達が自分たちの音階は太子(聖徳太子)の時に定められたものとする記述があります。
 『「何事も邊土は、卑しく頑(かたくな)なれども、天王寺の舞樂のみ、都に恥ぢず」といふ。天王寺の伶人の申し侍りしは、「當寺の樂は、よく圖をしらべ合せて、物の音のめでたく整ほり侍ること、外よりも勝れたり。ゆゑは太子の御時の圖、今にはべる博士とす。いはゆる六時堂の前の鐘なり。そのこゑ、黄鐘調の最中(もなか)なり。寒暑に從ひて上(あが)り・下(さが)りあるべきゆゑに、二月 涅槃會(ねはんゑ)より聖靈會(しゃうりゃうゑ)までの中間を指南とす。秘藏のことなり。この一調子をもちて、いづれの聲をもとゝのへ侍るなり」と申しき。』(徒然草第二百二十段)

 このように「聖徳太子」の時代に音律が伝えられたとするわけですが、それは当然「隋代」でありしかも「開皇年間」のことであったと見るべきこととなるでしょう。
 ただし、「納音」についてはそれ以降「五行」だけで記述されることが多くなったようです。すでに「唐代」(「武則天」の時代)には「納音」について「五行」の表記だけ見られることとなっています。

 以上のように「納音」は「七弦琴」の流入と共に「倭国」に伝わったものと思われますが、その後「倭国九州王朝」から「新日本国王朝」へ「王朝交代」が起きた結果、「納音」の元となった「五弦琴」「七弦琴」が使用されなくなったものと思われます。「新日本国王朝」では「四弦琴」あるいはそれを改良した「六弦琴」を使用していたものであり、その「音階」は「五弦琴」や「七弦琴」とは異なるものであったと思われ、そのため「納音」の元となった「五音」に基づく「楽」は演奏機会がなくなったものと考えられます。このため、「五行」と「音階」や「納音」についての関係についても不明となっていったものと思われ、「干支」と「五行」の関係だけが遺存したものと考えられるわけです。
 「宣命暦」で書かれた「天平年間」の「具中暦」が発見されていますが、そこには「納音」が「五行」だけで表記されており、この時代にはすでに「音律」が忘却されていたことがわかります。

 ところで、現在確認できる「納音」には「山頭」「井泉」など「五行」の前に形容語をつけて三十種類に分類されていますが、これは「倭国」において考え出されたことではなかったでしょうか。
 中国の使用例では「五音」と「五行」についてのみ書かれており、接頭辞たる形容語が確認できるものが全く見あたりません。
 (以下中国の例)

「…勝龍所以白者,楊姓納音為商,至尊又辛酉?生,位皆在西方,西方色白也。死龍所以K者,周色K。…」(「隋書/列傳第三十四/王劭」より)

「蕭吉字文休,梁武帝兄長沙宣武王懿之孫也。博學多通,尤精陰陽算術。…所以靈寶經云:『角音龍精,其祚日強。』來?年命納音?角,?之與經,如合符契。又甲寅、乙卯,天地合也,甲寅之年,以辛酉冬至,來年乙卯,以甲子夏至。冬至陽始,郊天之日,即是至尊本命,此慶四也。夏至陰始,祀地之辰,即是皇后本命,此慶五也。…」(「隋書/列傳第四十三/藝術/蕭吉」より)

「尚獻甫,衞州汲人也。尤善天文。初出家為道士。則天時召見,起家拜太史令,固辭曰:「臣久從放誕,不能屈事官長。」則天乃改太史局為渾儀監,不隸祕書省,以獻甫為渾儀監。數顧問災異,事皆符驗。又令獻甫於上陽宮集學者撰方域圖。長安二年,獻甫奏曰:「臣本命納音在金,今?惑犯五諸侯太史之位。?,火也,能尅金,是臣將死之?。」則天曰: 「朕為卿禳之。」遽轉獻甫為水衡都尉,謂曰:「水能生金,今又去太史之位,卿無憂矣。」其秋,獻甫卒,則天甚嗟異惜之。復以渾儀監為太史局,依舊隸祕書監。…」(「舊唐書/列傳第一百四十一/方伎/尚獻甫」より)

 これらの例を見ても「五行」の前には何も付加されていません。この段階までに確認できないということは、これらは「中国」から伝わったものではなく、日本側で付加されたものではないかと考えられることとなります。それは「山頭火」というような「形容」に現れているように思えます。
 中国人は「火山」を見たことがないと考えられますから、「火」に対して「山頭」というところに考えが行くとは思えません。そのような発想は日本列島の人間と思われ、これは特に「阿蘇」を念頭に置いた形容ではないかと思われます。その意味で「熊本」から「納音」の古い史料が発見されたことは偶然ではないように思われます。


(この項の作成日 2014/05/25、最終更新 2015/03/17)