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「裴世清」を迎える儀礼の違いについて


 『推古紀』の記事では「推古」ないし「聖徳太子」は「表」を「拝受」していません。記事によれば「国書」は「阿倍臣」が「裴世清」から受け取り、それを「大伴連」に渡して「殿」の前の大門の付近に置かれた「机」の上に置かれただけでした。

「…時阿倍臣出庭以受其書而進行。大伴囓連迎出承書置於大門前机上而奏之。事畢而退焉。…」(『推古紀』該当部分)

 この時「裴世清」は「立って」「表」を読み上げていますが、それを「天皇」は直接面前で聞いていません。(そもそもここには「天皇」の存在に触れられていません)また、「天皇」が「書」を「拝受」するというようなことも行われたようには見えません。
 本来「隋・唐」の儀礼では皇帝からの国書を受け取る際は「使者」が立ち、「夷蛮の王」は「東面」ないし「北面」し「表」を「拝受」するとされていました。(このような様子は『隋書天竺伝』などに表されています。)
 『書紀』による儀礼の内容は「隋制」に適合しておらず、定められた「礼儀」に外れていたものである様に思われます。これについても『書紀』に「潤色」があるとする理解が大勢ですが、一部には「裴世清」がこのような非礼を「許容」したとする意見もあります。それは「夷蛮」の国々に派遣された使者の最大の義務が「表」(国書)の授与であり、「礼儀」に拘っていてはそれが不可になるからであるとされます。現に「高表仁」は「国書」を宣して拝受させるという「朝命」を達しなかったため「綏遠の才なし」とまで言われているわけですから、一見一理ありそうですが、この時の「裴世清」の来倭の目的が「夷蛮」の国が「天子」を標榜するという「無礼」を咎めるものであったとすると、「礼儀」に拘らなかったはずがないこととなるでしょう。
 「無礼」を弾劾するための訪問ならば「礼」に徹底的に則ったものとなったと考えるのは当然です。「裴世清」は強い態度で正式な「儀礼」を要求したでしょうし、倭国はそれに従わざるを得なかったものと思われます。「宣諭」するということは、そこに上位下位の関係が露骨に出ざるを得ないものであり、そうであれば「儀礼」が「皇帝」と「夷蛮」という関係を示すものでなければ「裴世清」は納得しなかっただろうと思われます。
 そうすると、『書紀』で「裴世清」を迎える儀式の様子は明らかに不審であるわけですが、この記事が「国交開始時点」であるとすると、「隋の様式による儀礼」について知識が不十分であったという可能性が高く、それほど不審ともいえなくなります。
 またそれは『推古紀』記事において「裴世清」を「飾り船三十艘」が出迎えたと書かれていることからも推測できます。

「客等泊于難波津。是日。以餝船卅艘迎客等于江口。安置新舘。」「(推古)十六年(六〇八年)六月壬寅朔丙辰条」

 このように船で使者を歓迎するのは『隋書南蛮伝』の「赤土国」にも見られます。

「…煬帝即位,募能通?域者。大業三年,屯田主事常駿、虞部主事王君政等請使赤土 。帝大悅,賜駿等帛各百匹,時服一襲而遣。齎物五千段,以賜赤土王。…又行二三日,西望見狼牙須國之山,於是南達?籠島,至於赤土之界。其王遣婆羅門鳩摩羅以『舶三十艘來迎,吹蠡?鼓』,以樂隋使,進金鎖以纜駿船。…」(『隋書/列傳第四十七/南蠻/赤土』より)

 この「赤土国」も絶域とされ、この「常駿」等の使者が両国の通交の初めてのものであったらしいことが示されていますが、当然その時点における儀礼は「隋」の様式であったはずがないこととなります。つまり「赤土」同様「倭国」においても「船」で出迎えるという儀礼そのものが「隋代」以前に「倭国」にもたらされていたと言うこととなるでしょう。船の数も「赤土国」も「倭国」の場合も同じ(三十艘)というのはこれが「隋代」以前から「定められていた」儀礼に則ったものであったという可能性が高いことを示すと思われ、「隋」から礼制や文化などがまだ流入していない段階であることを示しますから、この時点が「対隋」外交の始まりである可能性が高いことを示すものです。

 また『書紀』と「大業三年記事」との食い違いは「大業三年記事」の中に「鼓角を鳴らす」というように「郊迎」の儀式が書かれている事からもいえると思われます。この「鼓角を鳴らす」のは逆に「隋」から「倭国」へ取り込まれた「楽制」であると考えられるからです。
 『隋書』には「楽制」が定められたことが書かれています。

「(開皇)十四年三月,樂定。」(『隋書/志第十/音樂下/隋』より)

 これによればこの「開皇十四年」(五九四年)という時点で「楽制」が定められたというわけですが、この中で「鼓角」による「楽」についても定められたものと考えられます。
 「渡辺信一郎氏」によれば(※)では『隋書俀国伝』に「倭王遣小德阿輩臺從數百人設儀仗『鳴鼓角』來迎」と書かれている部分については「軍楽隊」を意味するものであり、「隋」においてこの「角」(つのぶえ)が加わった形で「楽制」が整備されたのがこの「五九四年」であるとされ、これについては傾聴に値すると思われるものですが、それを踏まえると「大業三年」記事に書かれた「倭国」の歓迎の様子はこの新しく造られた「楽制」が早速「倭国」に伝えられ、それを実地に応用したものではなかったかと考えられることとなります。
 それは「開皇二十年記事」の「俗」に関する記事として揚げられているものの中に「楽器」があり、そこには「…樂有五弦琴笛。…」とあるだけで「鼓」も「角(つのぶえ)」も書かれていない事からも窺えます。
 このことから、この「鼓角」という「楽器」はこの「開皇二十年記事」以降に「倭国内」に流入したものと考えられることとなり、それは「隋皇帝」から「楽制」と共に「下賜」されたものという可能性が高いと思われます。すると『隋書』によれば「大業三年」段階ではすでに「楽制」が「倭国」に伝来していることとなるわけですから、それは以下に見るように「国交開始」を示す「国書」の内容と著しく齟齬するものといえます。

 ところで 「倍櫨破陣楽」という「楽舞」があります。これは「四天王寺」と「唐招提寺」の僧侶だけが舞っていたというもので、一般には「菩提遷那」(婆羅門僧正)と共に来日した「林邑僧」「仏哲」が伝えたものとされているようです。
『東大寺要録』巻第二所収の『大安寺菩提伝来記』には以下のようにあります。

「…勝賓四年壬辰七月九日開眼大會( 注略)即仰諸大寺令漢楽矣爾時彼佛哲□□少々師於彼瞻波國習得并?并『部侶』抜頭楽?歌令傅習…」(『続々群書類従』第十一)

 上の文中の「部侶」は「倍櫨」と同じ意を示すものと思われますが、これはその舞楽が「開眼大會」の際に舞われているとされていることや、東大寺大仏開眼会の導師となった「菩提遷那」とともに来日した林邑僧「仏哲」によって指導されたという記述からも、彼によって伝えられたものという理解がされています。
 しかし『聖徳太子伝』や『教訓抄』などでは「聖徳太子」が「物部守屋」を倒した際に舞われたという伝承も伝えられています。

「…或人云、楽者婆羅門僧正伝来クリ給フ。舞者上宮太子為敵守屋臣へ奏此曲之時、有舎毛音。彷自陣勝云。其模トシテ此舞所レ造云々。…」(『教訓抄』巻第四)
「… 又守屋合戦琳造舞、軍旅意面々持八手楯入組入違而舞。名日倍櫨天王寺ノ外二無此舞也。…」(『聖徳太子伝』(文保本))
(他にも『聖宝輪蔵』および寛文六年板本『絵入り聖徳太子伝』の同様の記述があります。)

 これは通常「四天王寺」の僧などによる潤色であり、造作であるという評価が下されているようです。しかし、既に考察したように「裴世清」を迎える『推古紀』の記事からは「南朝」に淵源する「儀礼」や「服装」などが看取されており、「隋」との交渉時点以前の「舞楽」も「南朝」との関連で考える必要があることとなります。
 この「倍櫨破陣楽」を伝えたとされる「仏哲」は「林邑」の人とされていますが、これは今の「ベトナム」付近の地域を指す名称ですから、風俗としては「南方系」であることはもちろんですし、『隋書』など見ても当初は(当然ながら)「南朝」に臣事していたことが窺えます。そうであれば「林邑」の舞楽というものも中国「南朝」との関連で考える必要があることとなり、「仏哲」の伝えた「舞楽」と「守屋」を打倒する際に舞われたという「舞楽」はよく似ていたという可能性があるでしょう。
 つまり「伝承」が二種あるのには理由があると考えられる訳であり、それは実際に「唐招提寺」と「四天王寺」の「破陣楽」は新旧二種類であったという可能性もあると思われることとなります。


(※)渡辺信一郎『中国古代の楽制と国家 日本雅楽の源流』(文理閣 二〇一三年)


(最終作成日 2014/10/21、更新 2017/01/03)