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「寶命」− 「唐」の「高祖」の場合


 また「古田氏」はこの「国書」が「唐」の「高祖」からのものであると考えられたわけですが、それは確かにそう言いうる部分もあるといえます。
 『旧唐書』には、「唐」の「高祖」が「高句麗王」に宛てた国書が残っており、その文面と『書紀』に載っている「隋」の「煬帝」からの国書とを比較してみると、この二つが非常によく似ているとされます。

「(武徳)五年(六二二年)賜建武書曰 『朕恭膺寶命』 君臨率土、祇順三靈 綏柔萬國。普天立下 情均撫字、日月所照 咸使又安。王既統攝遼左、世居藩服、思稟正朔 遠循職貢。故遣使者 跋渉山川、申布誠懇 朕甚嘉焉。方今六合寧晏 四海清平、玉帛既通 遺路無壅。方申輯睦 永敦聘好、各保彊[土易] 豈非盛美。但隋氏季年 連兵構難、政戰之所 各失其民。遂使骨肉乖離 室家分析、多歴年歳 怨曠不申。今二國通和 義無阻異、在此所有高麗人等 已令追括、尋即遣送 彼處有此國人者、王可放還 務盡撫育之方、共弘仁恕之道。」
「旧唐書高麗伝」

 ここでも「寶命」という用語が使用されており、また「恭膺」という用語も使用されており、これは単に「恭しく」「膺」つまり「胸で受け止める」意とされています。この「語」からは「継承」の意義は見いだせないわけですが、彼は「初代皇帝」であり、「同一王朝」の「前皇帝」からの権力移動について書かれた訳ではないこととなりますから、そこでは「継承」の意義を持つ用語は使用されていないのも当然ともいえます。しかし、「寶命」という語が使用されていることから考えると「唐」の高祖も「禅譲」、つまり「隋王朝」から「権力」を委譲されたと主張しているかのように見えます。『旧唐書』にその権力交替の様子を見てみると、確かに「隋皇帝」から「禅譲」されたように書かれているのが判ります。

「…(大業十三年)十一月癸亥,率百僚,備法駕,立代王侑為天子,遙尊煬帝為太上皇,大赦,改元為義寧。甲子,隋帝 詔加高祖假?鉞、使持節、大都督?外諸軍事、大丞相,進封唐王,總?萬機。以武コ殿為 丞相府,改教為令。以隴西公建成為唐國世子;太宗為京兆尹,改封秦公;姑臧公元吉為齊公。…」(舊唐書/本紀 凡二十卷/卷一 本紀第一)

「(義寧二年)二月,清河賊帥竇建コ僭稱長樂王。?興人沈法興據丹陽起兵。三月丙辰,右屯衞將軍宇文化及?隋太上皇於江都宮,立秦王浩為帝,自稱大丞相。徙封太宗為趙國公。戊辰,隋帝進高祖相國,總百揆,備九錫之禮。唐國置丞相以下,立皇高祖已下四廟於長安通 義里第。」

「夏四月辛卯,停竹使符,頒銀菟符於諸郡。戊戌,世子建成及太宗自東都班師。五月乙巳,天子詔高祖冕十有二旒,建天子旌旗,出警入蹕。王后、王女爵命之號,一遵舊典。 戊午,隋帝詔曰:天禍隋國,大行太上皇遇盜江都,酷甚望夷,釁深驪北。憫予小子,奄造丕愆,哀號永感,心情糜潰。仰惟荼毒,仇復靡申,形影相弔,罔知?處。相國唐王,膺期命世,扶危拯溺,自北徂南,東征西怨。致九合於諸侯,決百勝於千里。糾率夷夏,大庇? 黎,保乂朕躬,?王是ョ。コr造化,功格蒼旻,兆庶歸心,?數斯在,屈為人臣,載違天命。在昔虞、夏,揖讓相推,苟非重華,誰堪命禹。當今九服崩離,三靈改卜,大運去矣,請避賢路。兆謀布コ,顧己莫能,私僮命駕,須歸藩國。予本代王,及予而代,天之所廢,豈其如是!庶憑稽古之聖,以誅四凶;幸?惟新之恩,預充三恪。雪冤恥於皇祖,守?祀為孝孫,朝聞夕殞,及泉無恨。今遵故事,遜于舊邸,庶官羣辟,改事唐朝。宜依前典,趨上尊號,若釋重負,感泰兼懷。假手真人,俾除醜逆,濟濟多士,明知朕意。仍敕有司,凡有表奏,皆不得以聞。遣使持節、兼太保、刑部尚書、光祿大夫、梁郡公蕭造,兼太尉、司農少卿裴之隱奉皇帝璽綬于高祖。高祖辭讓,百僚上表勸進,至于再三,乃從之。隋帝遜于舊邸。改大興殿為太極殿。
甲子,高祖即皇帝位於太極殿,命刑部尚書蕭造兼太尉,告於南郊,大赦天下,改隋義寧二年為唐武コ元年。官人百姓,賜爵一級。義師所行之處,給復三年。罷郡置州,改太守為刺史。…」(舊唐書/本紀 凡二十卷/卷一 本紀第一/高祖 李淵/武コ元年)

 以上をみると、「唐」の高祖の場合も「前王朝」の最後の「皇帝」(これは「煬帝」ではなく「煬帝」から禅譲を受けた隋帝「楊侑」)からの「禅譲」である(少なくともそれを装っている)ことがわかります。年号も「建元」ではなく「改」となっています。

「…改隋義寧二年為唐武コ元年…」

 つまり、それがたとえ「傀儡皇帝」からであっても形としては「禅譲」となっていることが重要であったと思われます。
 このことから「唐」の高祖が「寶命」を使用しているのは「禅譲」であるということの主張であり表明ではなかったかと思われるわけですが、そのように「禅譲」がその根本にあるとすると、『書紀』に書かれた国書の内容と矛盾するわけではないこともわかります。そこでも「寶命」が使用されているわけであり、その文言を使用する相手にとって外交上の関係があった王朝との関係を自らが継承していることを表明する意であったことが推定できます。


(この項の作成日 2014/03/26、最終更新 2017/06/24)