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「はるくさ」木簡について


 既に「なにはづ」の歌が書かれた大型木簡が出土していますが、「前期難波宮」遺構からは別の「和歌」を万葉仮名で書いた「長さ二尺」の大型木簡が出土しました。それは「はるくさ木簡」と呼ばれていますが、その大きさから「儀式」で手で「捧げ」ながら、朗詠したものと考えられ、そこには「はるくさのはじめのとし〜」と読める「万葉仮名」が書かれていました。

「皮留久佐乃皮斯米之刀斯■(読めない文字)」難波宮跡出土木簡 遺構番号 谷七層 寸法(ミリ)「185×26×6」「下欠。表面には刻線がある。整形され墨書された後に施されている。表面は下から上の方向に削っている。上端部は表面側を面取りし、丸みを持たせている。」とされています。(木簡データベースより抜粋)

 この「木簡」は「下側」が欠損しており、残存部分の長さで18.5p有りますが、ここには(読み取り不明も入れて)「十二文字」書かれています。もしこれが「和歌」であり、残存部分同様「一字一音」であったとすると「三十一文字」書かれていたこととなりますが、そうであれば「48pほど」はあったこととなります。更にこのような木簡としては異例に長大なものは「儀式」「儀典」などの際に「捧げ持って」「朗詠」したという考えもあるようですから、そうであれば「手に持つ」空白部分も必要となり、全長で「二尺」(60p)ほどあったであろうという推定もされています。

 この木簡は「前期難波宮」の最下層の埋土から出土したもので、この層は「前期難波宮」の造営に関わる「埋め立て」「以前」のものと考えられており、であれば少なくとも「七世紀半ば」よりも「古い」と考えなければなりません。
 これに関して古賀達也氏はホームページ上の「洛中洛外日記」で「難波宮造営時の整地層」と言及されていますが、「発掘報告」ではさらに下層からの出土である事が明記されており、「難波宮」建造開始と思われる「六四〇年代後半」をさらに遡る時期を推定する必要があると思われます。
この「木簡」は「難波宮」の「難波宮南西地点」の「下部整地層」(第七層)から発見されたとされています。(「前期難波宮」の地層は上から「第一層」(大阪夏の陣以降の層)、「第二層」−「第四層」(三期にわたる豊臣氏による整地層)、「第五層」(中世の作土層)、「第六層」(前期難波宮造営時の整地層)、「第七層」(それ以前に谷を埋めた層)と解析されており、この「はるくさ木簡」は「第七層」からの出土と報告されています。) 
 ただし、この地層解析については当初のものであり、その後見解が変更された模様です。それによれば「第六層」と「第七層」は(若干の停止時期を挟むものの)ほぼ同時とされることとなった模様ですが、詳細は文化庁への報告に書かれているらしいものの、一般には公開されていません。
 しかし当初の見解によれば明らかに「第七層」と「第六層」とでは出土土器の編年が異なるとされていましたから、それが覆るに足る証拠が必要と思われますが、それが明示されていないのは遺憾と言うべきです。(層毎の土器数とその各々の編年分布が提示されるべきでしょう。)
 ここではあくまでも当初見解に従うとすると、「難波宮造営」以前の時期が「はるくさ木簡」の年次と考えられ、上の推定から考えると「六世紀最終末」ぐらいまで遡上する可能性もあります。
 同様に「前期難波宮」遺構から発見されたものとして「戊申」と記された木簡があります。この「戊申」は「六四八年」を意味すると思われますが、この「木簡」が発見された「層位」は「難波宮」時点とされ、「前期難波宮」で使用された物品(木簡や土器など)を「廃棄した」場所という性格があるとされています。つまり、この「戊申木簡」は「はるくさ木簡」よりも「新しい」と判断されるものであり、「はるくさ木簡」の年代としてはこの「戊申」という「六四八年」よりも「以前」であるという可能性が非常に高いのではないかと思料されます。
 
 また「評制」の諸国への全面的施行の主体が「阿毎多利思北孤」と「難波皇子」の時代であることも強く推定されています。
 『常陸国風土記』などによれば「東国」に対する「統治」の強化が各種の事例により確認されており、そこには「評制」の再編や「土着信仰の排除」などが記されていますが、この事は「九州倭国王朝」の「権勢」が「東国」に深く届くようになっていたことを示すものと考えられ、それは「近畿」に「前進基地」とでも言うべき「統治」の「拠点」となるべきものが出来たことを示すものと思料され、その意味からも「副都建設」がリアルな出来事であったものと思料されるものです。
 このような「強い権力」の行使ないしは発現とも言うべき「壮大な」宮殿が築かれたことは、「統一的権力者」の存在を前提とすべきであり、それは「阿毎多利思北孤」から「利歌彌多仏利」へと続く「六世紀後半」から「七世紀初め」の「倭国王権」の存在と切っても切り離せないものと考えられます。

 この木簡に書かれた文章は「はるくさのはじめのとし」と読み下すものと考えられ、何かの「元年」を記す木簡と考えられます。『書紀』においての「元年」の読み下しは「岩波」の「大系」でも「はじめのとし」です。そして、この「元年」が「何の元年」であるかというと、可能性があるのは「命長」、「常色」、「白雉」そして「倭京」などが候補に挙がると思われます。
 この場合「下部整地層」ということから「難波宮」完成以前であるのは間違いなく、その場合はこの木簡に書かれた「和歌」は「地鎮祭」のような儀式で詠われたと考えるわけですが、上にみたように『孝徳紀』の本来年次として「七世紀初め」ではないかということが考えられるわけですから、今仮に「前期難波宮」の工程進捗を「六十年」遡上させて考えてみることとします。
 『天武紀』にある「難波宮」を副都とするという記事自体が『孝徳紀』の記事が移動されていると考えられる訳ですが、そもそもそれが「七世紀初め」からの移動であるとすると、天武紀から「六十年」の遡上が措定され、その場合以下の年次への移動となります。

・「天武八年(六七九年)十一月」「是の月に、初めて関を竜田山・大坂山に置く。仍りて難波に羅城を築く。」

 この記事は実際には「六一九年」のこととなると思われるわけですが、(倭京二年)冬十二月乙未朔癸卯(九日)」「…天皇都を難波長柄豊碕に遷す。…」
 さらに以下の記事等も移動するとみられます。

「天武十一年(六八二年)三月甲午朔条」「小紫三野王及び宮内官大夫等に命して、新城に遣して、其の地形を見しむ。仍りて都つくらむとす。(中略)己酉(十六日)、新城に幸す。」

 これも移動により「六二二年」記事となります。
 つまり、これらの記事を移動すると「倭京」改元の直後であることとなり、「倭京」つまり「筑紫本宮」造営に続いて「難波副都」造営を構想したこととなるでしょう。
 このように年次移動を措定することは特に不自然でもなく、「六一九年」以前に「難波」に「羅城」の計画が立てられたと考えて問題はなく、更に「六二二年」になってその「羅城内」に「キ」(この場合「宮域」と思われる)を建築することとなったという経緯が想定されます。
 「はるくさ木簡」の出土した「層」は、「宮域」を造営するための整地層の「更に下」ですから、上の記事と対照すると「六一九年」以前に「羅城」を構築するための「儀式」の際に使用されたと考えると整合すると思われます。つまり「はじめのとし」とは「倭京」元年(六一八年)がその「年次」として該当するのではないかと推察されるわけです。そうであれば「倭京」改元は「難波宮」の造営と関連しているという可能性も出てきます。つまり「本宮」の整備と「副都」の整備とは同時並行して企図されたものであり、それは「天武」の詔にも明らかですが、「都城」は複数必要であるという観念の元のものであり、当初から計画されたものと考えられるわけです。

 この「はるくさの」という言葉は「枕詞」と考えられ、それは「始め」に掛かるものとされていますが(ただし『万葉集』には前例がありません)、「字義」上「季節」にも係っていると考えられます。つまり、旧暦の「春」と言えば「一月」から「三月」ですから、この「儀式」もそのような月を選んで行われたと見ることが出来るでしょう。
 新都計画(新宮)の計画がおおよそ定まった翌年春に「地鎮祭」と思われる儀礼が行われたと見られ、その際に「詠まれた」ものが「はるくさ木簡」ではなかったかと考えられます。

 上で見たように、遺跡の発掘された層位から考えて「はるくさ木簡」は「七世紀半ば」と云うより「七世紀前半」あるいは「六世紀末」まで繰り上がる可能性を持っていると考えられますが、このことは、「前期難波宮」という存在そのものが「七世紀初め」の「倭国王」と考えられる「利歌彌多仏利」という「存在」と関連しているという可能性を示唆するものです。
 それは「難波宮内裏西方官衙」の西にある谷の「泉(井戸)施設」の中から出土した「木枠」の「年輪年代」の調査からもいえることです。その部材は「六三四年」に伐採されたことが明らかになりましたが、このような用途(井戸)に使用する部材ですから、「そり」「狂い」などを余り気にする必要はなく、何年も「寝かせる」こともないと考えられ、伐採後すぐに使用されたと見られます。
 つまりこのような井戸の利用の便宜等考慮すると、この井戸が使用開始された時期というのは「難波宮殿」そのものの「創建時期」とそれほど違わないという可能性があると思われます。
 さらに最近「年代測定」の新手法として開発された「繊維のセルロースに含まれる酸素同位体の量の測定」から算出された「難波宮」の「北方」の「柵」の木材の年代として「五八八年」や「六一一年」が報告されている(※)ことにも強く関係しています。
 それはまた、この「はるくさ木簡」が「重要な儀式」の際に詠まれたとすると、「難波皇子」あるいは「阿毎多利思北孤」の「太子」である「利歌彌多仏利」の「即位」と関連しているという可能性もあるでしょう。

 さらにいえば「万葉仮名」というものの発生が一般の想定よりかなり古い事をも示すものですが、それは『二中歴』の解析から「五世紀」には成立していたと考えられることが妥当性が高いことを示唆します。
 また、ここに書かれていた「皮留久佐乃皮斯米之刀斯■(読めない文字)」という文字列は「一字一音」で書かれており、それは『万葉集』の「初期」とされる「記載法」(仮名音)に合致しています。また『書紀』『古事記』に出てくる「歌謡」も全て「仮名音」であり、そのことからもこの「はるくさ木簡」の時期としても相当程度遡上すると考えるのは当然といえるでしょう。
 また、このことは『万葉集』そのものの成立についてもかなり遡上することを想定させるものです。ただし「現在」確認されている「和歌木簡」のうち『万葉集』中に同じ「歌」があるものは、「あさかやま」を除き一つも「確認」されていません。このことは「現在」見られる『万葉集』に先だって(以前)に「別」の歌集があったことを推測させるものとも言えるものです。

(※)中塚武「気候と社会の共振現象 ―問題発見の新しい切り口―」(『名古屋大学大学院環境学研究科・地球環境科学専攻・地球環境変動論講座』より。

 
(この項の作成日 2013/01/23、最終更新 2016/02/07)