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天然痘の流行時期について


 ところで前項の考え方では「天然痘」の流行は「庚寅年」つまり「五七〇年」付近であると見られるわけですが、『敏達紀』を見るとそこに「天然痘」と思われる病気の描写があり、また国内にそのような患者が溢れているとされています。

(五八五年)十四年春二月戊子朔壬寅。蘇我大臣馬子宿禰起塔於大野丘北大會設斎。即以達等前所獲舎利藏塔柱頭。
辛亥。蘇我大臣患疾。問於卜者。卜者對言。祟於父時所祭佛神之心也。大臣即遣子弟奏其占状。詔曰。宜依卜者之言。祭祠父神。大臣奉詔禮拜石像。乞延壽命。是時國行疫疾。民死者衆。
三月丁巳朔。物部弓削守屋大連與中臣勝海大夫奏曰。何故不肯用臣言。自考天皇及於陛下。疫疾流行。國民可絶。豈非專由蘇我臣之興行佛法歟。詔曰。灼然。宜斷佛法。
…天皇思建任那。差坂田耳子王爲使。屬此之時。天皇與大連卒患於瘡。故不果遣。詔橘豐日皇子曰。不可違背考天皇勅。可勤修乎任那之政也。又發瘡死者充盈於國。其患瘡者言。身如被燒被打被摧。啼泣而死。老少竊相謂曰。是燒佛像之罪矣。」

 「敏達」も「用明」も(「忍坂日子人大兄も?)同じように「天然痘」にかかって亡くなったと見られるわけですが、これは「五八五年」付近のこととされていますから、時期がずれているように見えます。
 もちろん流行が長く続いたとかピークが複数あったと言うことも当然考えられる訳ですから、不審とはいえないのかも知れませんが、そもそも仏教の受容についてのトラブルは『欽明紀』と『敏達紀』に二回起きており、そのことと「天然痘」の流行が複数回あるように見えるのは重なっていると思われます。
 しかも『書紀』では「天然痘」とおぼしき描写は一回だけであり、『敏達紀』です。すでに見たように『請観音経』が「善光寺」創建に関して重要な意義があると考えられることから、「金光」年号と「善光寺」には深い関係があると思われ、そうであればその創建は「五七〇年」付近と考えられることとなり、その時点で「天然痘」の流行があったと見るべきでしょう。つまり「欽明紀」時点において「天下熱病」というような「天然痘」が発生しているあるいは多くの死者が出ていることを意味する記事があってしかるべきと思われるわけですが、実際には『敏達紀』という十五年程度離れた時期にしか記事がありません。
 つまり、このことから実際には大きな流行のピークの時期を「移動」して書いているのではないかと考えられ、その意味で『敏達紀』には重大な疑いが発生することとなります。つまり『敏達紀』の記事は実際には「十五~二十年」ほど移動されているのではないかと見られるわけです。

 ところで、『伊豫三島縁起』には以下のような記事が見えます。

「卅一代敏達天王。又佛教渡。月盖金銀彌陀三尊渡奉。…金光三暦《壬辰》扶桑州蝦〈虫+禹〉州流泉州高麗國軍渡。彼氏子敵亡。…」

 これによれば「敏達」の代に「月盖金銀彌陀三尊」が渡るとされていますが、この「月盖」とは「毘舎離(ヴァイシャーリー)国」の「月蓋長者」を指し、また彼とその「娘」の病気が「阿弥陀如来と観世音菩薩、勢至菩薩」に対する信仰で治癒するという「回復譚」を示唆する表現ですが、これは『請観音経』に書かれた内容であり、この『請観音経』を奉じて「阿弥陀三尊像」がもたらされたとされたことを示すものと思われます。
 また、その後に「金光」年号が書かれており、記事の配列から見ても「敏達」の真の時代として「五七〇年」付近が想定できることを意味するものであり、すでにみたように『請観音経』と「天下熱病」と表現される「天然痘」との関係を想起させるものですが、そう考えると「欽明」と「敏達」の置き換えあるいは重複が『書紀』において行われていることが強く示唆されます。
 ただし、このような移動を想定するのは「恣意的」といわれるかも知れませんが、そうではないと思えます。それはすでにみたように『書紀』の「遣隋使」関係記事が『隋書』に合わせ移動されていると見られることからの帰結だからです。

 既に述べたように『書紀』は『隋書』を見ながら編集したものであり、『隋書』を見ると「裴世清」は一度しか来倭していないように見え、これに国内史料にあった「最初」の「裴世清」の来倭記事を「当てた」ものと思われます。ところが『隋書』の「大業年間」の記事にはそもそも年次移動の疑いがあり、実際には「開皇年間」の事実を「大業年間」へ移動して構成しているという疑惑が発生することとなりました。つまり「大業年間」の記事は「起居注」を初めとしてその多くが亡失していたと見られ、その穴埋めを「文帝」の時代の記録を移動して構成したという可能性が考えられる訳です。そうすると、『隋書』にある記事は「煬帝」ではなく「文帝」に向けてのものであり、「数年間」の移動が考えられますが、『書紀』はそれに加え「裴世清」の来倭年次を意図的に移動していますから、さらにずれることとなります。
 実際には種々の点から「開皇年間」の始めに「遣隋使」があったと見られ、「裴世清」が来倭したのは「五八〇年後半」と思われるのに対して、『書紀』ではそれを「大業三年」記事に合わせた結果「六〇八年」のこととして書くこととなったものであり、その移動年数は二十年近くになります。
 つまりこのような帳尻あわせを『隋書』に対して行った結果、その前代付近(つまり「敏達紀付近」)の記事は「空白」とならざるを得なくなってしまい、やむを得ず「欽明紀」と同内容記事を書くことでその穴埋めとしたものではないかと考えられるわけです。(あるいは逆に「敏達紀」が「五七〇年付近」にあり、それをそのまま『隋書』に合わせて移動した結果、空白となった「欽明紀」の後半部分を造作したものでしょうか。)
 そのような記事移動が「天然痘」関係記事に波及し、それと直接関連している『請観音経』の受容記事も「ずれてしまった」ということではないでしょうか。
 それを示すように『隋書俀国伝』には「天下熱病」をうかがわせる記事がみられません。その派遣時点は年次を修正して考えると、「五八〇年代半ば」となりますからまさに「敏達紀」の「天下熱病」が発生している時期であったと思われますから、「倭国」がそのような状況であるなら「遣隋使」の話(俗)に関する事には当然「倭国」を襲っている病気の話があって然るべきかと思われます。
 『書紀』にあるように「敏達紀」である「五八五年」付近で「天然痘」の局地的流行(エピデミック)があったとすると、それに程近い時期に派遣されたはずの「遣隋使」からそのような報告があって当然と思われるのに対して、それがみられないということからも、実際にはもっと以前であるという可能性が高いものと推量します。
 それは国内に「観音(観世音菩薩)信仰」があるという説明が行われていないという意味でも、「天下熱病」がかなり以前のことである可能性を強く示唆するものです。そのことと「金光」という年号が「元年」を「庚寅」という年次であるとしている点は重なると思われます。

 さらに近年発見された「福岡氏西区」の「元岡遺跡」(西区元岡古墳群G6号墳)から出土した「金象眼」の剣が「四寅剣」と考えられていることはそれが「庚寅」年に鍛造されたと見られることとなり、その「庚寅年」を元年としている「金光」年号と関連することとなりますが、その「金光」年号の由来が『請観音経』に淵源している事から、「天下熱病」へとつながり、それは「天然痘」の流行が「五七〇年」付近に発生したことを示し、それはその流行時期が「敏達紀」ではなく「欽明紀」であり、その時期にそのような「エピデミック」がおきたことを推定させるものです。
 このぐらい「遣隋使」時点と年代が離れていれば(十五~二十年程度離れていることとなります)、「遣隋使」からの報告の中に話題として上らないこともうなずけるものです。

 ただし「如意寶珠」に関する信仰には病気に対するものも含まれているという可能性もあります。
 そもそも「信仰」が最も存在感を発揮するのは「死」に直面したときであり、病気やけがに際して方策が尽きたときです。『隋書たい国伝』によれば当時の「倭国」の一般の人々は「卜筮を知り、最も巫覡(ふげき=男女の巫者)を信じている」とされています。つまり「倭国」では古来より伝わる「神道」形式の信仰が主たるものであったと思われるわけであり、この「巫覡」についても彼らが行う「呪術」は「病気」に対しての民間療法の一種ともいえ、これと「如意寶珠」についての信仰が「習合」しているものと推察されます。
 しかし、『請観音経』が確かに「五八〇年代」に渡来しそれが善光寺に対する治病信仰につながったのなら、それが『隋書俀国伝』に反映されていて当然と思われますが、『隋書俀国伝』に記載された信仰の内容は「如意寶珠信仰」であり、これは北朝の「小乗」の系統であると思われ、『請観音経』が「百済」から渡来した南朝系のものであることと食い違っています。


(この項の作成日 2015/06/05、最終更新 2015/06/05)