『万葉集』は「舒明天皇」以後『天武紀』までが基本的な部分とされています。つまり、『推古紀』以前については「雄略」などの歌がわずかに載っているだけで、他は全て除かれているのです。最古の歌と考えられているのが「仁徳天皇」の后「磐姫」の歌ですが、これ以後「推古」までの歌が極端に少ないのです。
「仁徳」は『書紀』では「四世紀」の終わりから「五世紀」にかけての存在とされており、ここから「推古」の間『書紀』上では二〇〇年ほどが経過していることとなるわけですが、この期間はほぼ「空白」であるわけです。明らかに、この期間に造られた「歌」が集録されていないこととなると思われますが、それにしてもこれほどの「長期間」の空白があるのは「不審」としか言いようがありません。
現在各地で発見されている「歌木簡」の解析から、『万葉集』に載せられた歌以外に数多くの歌が存在していたことが推定できます。これらの最古のものは「七世紀初め」と推定される「はるくさ木簡」であり、このことから、現在目にする事ができる『万葉集』は「七世紀初め」以前に(「推古朝」)で一旦成立した「古・万葉集」を原資料としており、その中からほんの一部だけが集められ、それに後代の歌群が附属された「新・万葉集」である、と判断できます。
それを示すように『万葉集』の中には「古集」というものが出て来ます。
『万葉集』の第七巻に出て来るもので「右の件の歌は、古集中に出づ」という風に書かれているものです。計五十首ほどが確認できます。そしてこれらの歌についてその内容を確認してみると、全て「筑紫」に関する歌なのです。(以下「古田氏」の研究による)
例を挙げると以下のようなものがあります。
「ちはやぶる金の岬を過ぎぬともわれは忘れじ志賀の皇神」(一二三〇番歌)
「少女らが放(はな)りの髪を木綿(ゆふ)の山雲なたなびき家のあたり見む」(一二四四番歌)
ここに出てくる「志賀(しか)」も「木綿(ゆふ)」も筑紫(九州)の地名なのです。
このことは、これらが集録されていたものは「古集」と呼ばれているわけですから、後の『万葉集』に先立つものであり、なおかつ「筑紫」で成立していたことを示すものと考えられます。
『万葉集』の先頭が「天皇」の歌であることからも、この歌集が「勅撰集」という性格があることがわかります。 このことからもこの時点の「都」が「筑紫」であり、「倭国」の中心部である証明と考えられるものです。
これら『万葉集』の先駆となった「古集」は、「利歌彌多仏利」の「天子」(天王)即位の記念として「勅撰集」として編纂されたものだと考えられます。
「最古」の「歌」と考えられるものが「仁徳天皇」の后「磐姫」のものである、という事実は先に行った「解析」により「仁徳天皇」が「利歌彌多仏利」の投影である、と考えられることから考えても、彼の時代に編纂されたものが「原・万葉集」として存在していたことを裏書きするものといえます。
現行『万葉集』については他にも問題とすべき点が数多くあるとされます。(以下も「古田氏」の研究に準拠します)
例えば『万葉集』では「雑歌」といわれるジャンルから始まっています。この「雑歌」(及び「雑詩」など)というのは歌集や詩集などの並びかたでは末に近いところに出てくる分類です。つまり、「雑歌」は「その他」に相当する分類であり、なぜ「その他」が最初にあるかという点が大きな疑問なのです。
これはつまり、前半にあった主要な歌が実はすでに失われており、そのために「その他」の歌が最初にきていると解すべきでしょう。
それに関連して、『万葉集』の「作歌者」の地域分布を見てみると、明らかに九州、四国、中国地方の地域の人々が欠落しているのが分かります。「東歌」など「東国」の人たちの歌はあるのに対して、「西国」の人々の歌が欠けているのです。
このことは、本来「前半部」にあったと推定される「歌群」の主要な作者が「西国」の人たちであったのではないか、ということを示唆するものです。「失われた歌」と「失われた人々」がここで結びつく事になるわけです。
また、『万葉集』の中では、「筑紫」の地は「大君の遠の朝廷」と呼ばれています。
万葉集巻三 第三〇四番歌
(柿本朝臣人麻呂下筑紫國時海路作歌二首)
大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念
この名称は現在のいわゆる通説では、「官衙」(政府の出先機関)の地をそう呼んだのではないか、という言い方がされています。「越」の国や「韓国」をさして、同じように使用されているかのように見える例はありますが、 それ以外の地域に対し、使用例が全くないことからも「一般的な呼び方」とはいえるものではありません。
そもそも「朝廷」とは天子(皇帝)の居する「宮殿」の「大極殿」や「紫宸殿」などの「殿」に面する「中庭」的部分を言い、その場所に天子が出御し「百僚」がその庭で天子を拝謁する、という場所であったもので、そのことから「天子」の「統治」の中心的な場所の事となったのです。その呼称が「筑紫」の地に関連して使用されている、ということは、「筑紫」の地に「天子」がいた、ということにならざるをえません。
さらに「聖武天皇」の歌の中では、「御」朝庭と尊敬を表す字が付加されており、天皇自身が筑紫に対して尊敬の念を表している事になっています。
また、「越」の国をさして「大君の遠の朝廷」という言い方をしているのは「大伴家持」だけであり(他の人の歌などでは「越」に対しこのような使用例がありません)、「大伴氏」は「武烈天皇」亡き後、「越」の国から「継体天皇」を担ぎ出してきた氏族ですから、この事が家持をして「越」の国を「大君の遠の朝廷」と呼ばせるものと推察されます。
もっとも、家持は「越」と「筑紫」とで表現を微妙に変えている事が注意されます。それは「筑紫」と違い「越」に対しては「大君の遠の朝廷」ではなく、「大君の遠の美可等=vと表音表記を使用しており「朝廷」(または「朝庭」)の文字を使用することを慎重に避けている事です。(例外がありません)これは「朝廷」の文字が内包する重大な意味を、作者大伴家持が感じ取っていたが故の表記方法であろうと思われます。
つまり「朝廷」というのは天子が政治を司るところであり、只一か所しかないのです。それを知っている人間には、実際に天子がいなかった場所には使えない、或いはためらわずには使えない、そういう性質の言葉なのです。
その言葉が、「筑紫」に対してのみ使用され、しかも『万葉集』の中でだけ使用されているということは、もともとのこの歌集の持つ政治的、権力構造的な意味の「位置」が、通常一般に理解されているものとは大きく異なっているということでしょう。
また、『持統紀』に「筑紫の軍丁」「大伴部博麻」にたいして「顕彰」の「詔」が出されていますが、その中で「天朝」と「本朝」いう言葉が使用されており、その解析の結果「天朝」とは「諸国」の立場から見た「筑紫朝廷」を指すものという理解が得られています。そして、この「天朝」については「遠朝廷」と同じ意義であると考えられ、「漢語的」表現か「和語的」表現か、あるいは「時間的」表現か「空間的」表現かという差でしかないと推察されるものです。
また、万葉集中には「田邊福麻呂」という人物の「歌集」から採ったものが載せられており、それによれば上に見た「筑紫宮殿」と同様「難波」においても「大王」が「在通(ありがよふ)」という表現がされています。
(右廿一首之歌集中出也)
安見知之 吾大王乃 在通 名庭乃宮者 不知魚取 海片就而 玉拾 濱邊乎近見 朝羽振 浪之聲せ 夕薙丹 櫂合之聲所聆 暁之 寐覺尓聞者 海石之 塩干乃共 渚尓波 千鳥妻呼 葭部尓波 鶴鳴動 視人乃 語丹為者 聞人之 視巻欲為 御食向 味原宮者 雖見不飽香聞
(以下訓)
やすみしし 我が大君の あり通ふ 難波の宮は 鯨魚取り 海片付きて 玉拾ふ 浜辺を清み 朝羽振る 波の音騒き 夕なぎに 楫の音聞こゆ 暁の 寝覚に聞けば 海石の 潮干の共 浦洲には 千鳥妻呼び 葦辺には 鶴が音響む 見る人の 語りにすれば 聞く人の 見まく欲りする 御食向ふ 味原宮(味経宮)は 見れど飽かぬかも
この歌からは「難波の宮」と「味経の宮」とが同一のものを指すことがわかるとともに、そこへ「大王」が「あり通ふ」という実態が示されています。そのことは「柿本人麻呂」の歌においても同様であり、「蟻通」っているのは「大王」です。
このふたつの歌はほぼ同意であり、「遠乃朝庭」も「名庭乃宮」も、そこが「大王」の「居宅」などではなく、また「近隣」に居宅があったようにも見えず、かなり遠方より「通い」の身分であることと思料されるものです。
「筑紫」の場合は「官道」(山陽道)は既に整備されていたと思われるものの、後の時代と違い使用に大幅な制限があったと考えられ、基本は「船」を使用し「博多湾」から上陸してその後「大宰府」までの間は「官道」が整備されていたと考えられ、ここを使用して「宮殿」に拝謁しに行っていたものと思料します。つまり「大王」とは「諸国」の王以上の身分ではなく、そこに居を構えている「天子」(天王)とは違う人物であると云うことが分かります。
特に「後者」の歌からは「難波大道」を利用しているように見え、この「難波大道」が「宮」の「南門」(朱雀門)から「真南」に延びる道路であり、このことから「孝徳」の「宮」は「難波宮殿」の南の「方向」にあったと考えられます。
また、この歌集のことは『書紀』や『続日本紀』などには全く片鱗すらみせていません。また、『古事記』と同じくずいぶん年月を経た後、世に現れており、それまで秘匿されていたようですが、それはなぜか?という問題があります。
これについては、この書物が「呉音」で書かれていることが考えられます。
朝廷からその後何度となく出された「呉音禁止令」のため世に出すわけにはいかなくなったことが考えられます。また、あってはならない「朱鳥年号」が書かれていたり、その「朱鳥年号」が書かれた『日本紀』が引用されていたり、「筑紫」のことを「朝廷」と呼んでいるなど政治的に「危険」な性質のものであったものであり、そのため長く秘匿され鎌倉時代あるいは室町時代など後代になるまで歴史には登場することがなかったものと思われます。
前述したように現存する『万葉集』は始まりが「雑歌」であるわけですから、本来冒頭に置かれるべき肝心の「代表権力者」の歌が省かれていると考えられます。つまり前半部分が残った状態では「秘匿」することさえ困難であった、ということを意味するものでしょう。
(後の時代に作られた「偽書」である、という指摘もありますが、「呉音」を駆使して書かれており、「字句」の使用法などについて考察しても同時代性が非常に高くずっと後になって偽作した、という仮定は非常な困難と考えられます。)
『万葉集』は、はるか後の平安中期以降になって、復活します。完全な写本が名古屋の「真福寺」から出て来たもので、これは「南北朝」時代に(一三七二年か)「東大寺」にあった原本か、またはその写本を書き写したものとされています。これは平安末期に復活する「九州」の用語使用開始がその前駆となる動きだったのだと思われます。同様に『二中歴』も平安末期から書き継がれてきており、この当時は「九州王朝」に対する「隠蔽」が、約五〇〇年ほど経過して、「緩んで」来ていたものと思われます。
「古集」と呼ばれる「古・万葉集」が「筑紫」で成立し、後にそれに「諸国」の人々の歌が付加された形で「現万葉集」の「原型」ができた後、一旦「お蔵入り」となったものを、「大伴家持」が「前半部」をカットする形で「編集」して、日の目を見ることができるようになったものではないでしょうか。
(この項の作成日 2004/10/03、最終更新 2014/11/29)