『大宝令』の中で「筑紫太宰府」の組織が決められていますが、規模が他の地方組織とは全く異なっており、その定員は延べ五十名にも達するほどであり、「筑紫」以外の「地方」の国における役所の規模がせいぜい九名しか規定されてないのに比べ格段の差が見られます。
その組織は独特なものであり、地方組織というよりも、ほぼ『大宝令』当時の「日本国王朝」の組織と重なるものです。たとえば「神祇官」と同様な位置を占めると考えられる「主神司」などがあります。このような地位は他の地方官衙にはまったく存在しません。しかもほとんどの上級官僚が正副二名体制になっているなどの点は中央八省にさえないものなのです。
「八世紀」に入り「文武朝廷」以降の「日本国」政府が「中央集権体制」を構築し、それを強めていっていた中で、「地方組織」であるはずの「筑紫」にこのような「太宰府」の規模と体制が必要であったかどうかはかなり疑問であり、とすればこれらの組織は「新たに制定された」もの、というより、それ「以前」までの体制を「暫定的」に保存したもの、と考える方が正しいと思われます。
では『大宝令』以前になぜこのような規模の役所が「筑紫」に必要だったのでしょう。「新羅」などの外国からの使節などの対応のため、と言う説明がされることもありますが、この時代「唐」との関係はほぼ途絶しており、(遣唐使も八世紀まで三十年間送られていないわけです)半島は「新羅」に統一されているため、煩雑な職務がそれにより発生していたわけでもないと考えられます。それよりも「軍事的」位置づけは重要であったと考えられ、それに関係する職種の人間がいるのは理解できます。「大宰」につけられた「官職名」と思われる「帥」も「率」も本来「軍事的責任者」という意味であり、「筑紫」がそういう意味で重要であったことは間違いないところですが、「主神司」のような「神職」の役目は少ないと考えられ、まして「組織の最高位」にランクされている、というのは理解しがたいものです。(ただし大宝令で定められた官位としては低い)
「主神司」が行っていたであろう「神に仕える」仕事は、「祭政一致」という当時にあっては本来「国家」、「天子」に直接関わる仕事であり、「一地方組織」であるはずの「筑紫」の地にそのように官職が必要であるはずがありません。
これは明らかに「筑紫」に「天子」がいたことの証明であるわけですが、この「主神司」については、後に「伊勢神宮」の齋官として存在が継続していることが注目されます。このことは「伊勢神宮」と「倭国九州王朝」に深い関係があることが示唆されるものですが、この「伊勢神宮」の元々の祭神が「宇迦之御魂神」であった可能性が指摘されていることから考えて、「筑紫」(「太宰府」)においても同様に「宇迦之御魂神」が祭神であったという可能性が考えられます。
そもそも「廣瀬・龍田」という「宇迦之御魂神」を祭る神社に対し、倭国王権は「使者」を派遣して祭祀を行なっていたわけですから、国家としての祭祀の対象であったものであり、それは「筑紫」における状況を反映したものであったものではないでしょうか。
その「伊勢神宮」の創立に関する事が「皇太神宮儀式帳」に書かれており、そこには「中臣香積連須氣」という人物の時に「大神宮司」と称するようになったとされ、実質的な創立者であると考えられますが、それが「中臣氏」であるのは示唆的です。そもそも「中臣氏」は古来より「神祇」に仕える職掌であったと思われ、「忌部氏」が神と交わした言葉を伝達する役目であったものです。それは「大宰府」においても同様であったと思われます。(「伊勢神宮」においても「主神司」は中臣や忌部で構成されているもののようです)
近年の調査で「太宰府の条坊制」の起源は非常に早く、少なくとも「七世紀前半」と言われていますが、すでに見たように「筑紫都城」はその形式から考えて「六世紀代」には存在していたと考えられ、その時点から既に「条坊」があったと見られることとなったわけです。後の「藤原京」はその一応の完成が「六九五年」とされていますが、それが事実であれば一〇〇〜二〇〇年程度は「太宰府」の方が先行することとなってしまいます。
このように「条坊制」が早期に整えられている、という事は「外見」としての「都域」整備に伴って、組織・機構などの整備も同様に早期に造られたと考えるべき事を示します。「筑紫太宰府」記事が示すものはそのような「組織」の発達・進化というものではないでしょうか。少なくとも「太宰府」宮殿(政庁)は「七世紀後半」に再建(礎石作り瓦葺きとした)されたと考えられ、その際に以前の条坊と食い違う結果となったことが示されており、「条坊」の成立がそれに先行する時期であることは明確となっています。これらのことは、後の「日本国」の組織の「原型」はずっと以前(多分六世紀初めあたりか)に「筑紫太宰府」にあった、ということを示すものと推量します。
このような組織は「八世紀」になり、「新・日本国」王朝が成立するまで、この列島には他には存在していなかったものです。「太宰」という存在が「七世紀初め」の時点で確実であったと見られること、『隋書』に「阿毎多利思北孤」および「太子」と書かれた「利歌彌多仏利」の行なった改革(「国県制」並びに六十六国分国を始めとした諸事業)に先行するものと考えられるという事は、「太宰」という存在が一人「太宰」だけがいたわけではないのは当然であり、必要な「組織」もそれ以前の時点で既に造られていたということを意味するものと考えられるわけです。
ところで、その中心的位置にある「太宰」の「率」という職掌について考えると、確かに「太宰」そのものは南朝に由来する官職であり、また「南朝」と国交を通じて導入されたものと思われますが、「太宰率」となるとそれは「南朝」にはない官職でした。
また後の『令義解』の中の「官位令」には官職が順次書かれていますが、そこでは「大宰帥」に対し「おほみこともちのかみ」と訓読されています。しかし「大宰率」となるとそもそも書かれておらず、「後代」には「率」という官職については消失してしまっていたものと思われます。
しかし元々官職名などは「音」で発音することを前提に表記されていたと思われます。それは『書紀』が「漢語」として書かれていることや『大宝令』など律令も全て「漢文」で書かれていることに現われています。つまり国家の制度というものは「中国」に倣ったものであり、「官職」を「漢語」で発音するというのが当初の基本であったはずと思われるわけです。そう考えると、「訓」が与えられるようになるのは「後代」のことであり、その「訓」が与えられる段階では既に使用されなくなっていた「率」の発音について、「訓」はなく「音」しかなかったと考えるのが正しいと思われることとなります。その場合、その「音」とは「漢音」なのか「呉音」なのかというと、当然「呉音」であったと見るべきこととなるでしょう。「漢音」が流入し使用されるようになるのは「八世紀」以降であり、その時点では「率」は使用されなくなり「帥」に取って代わられているわけです。そのような歴史的経緯を考えても当初「呉音」として国内に流入したものと見ざるを得ないと思われることとなります。
そもそも『書紀』における「率」の初出は『天智紀』です。
「(天智)七年(六六八年)…秋七月。高麗從越之路遣使進調。風浪高故不得歸。以栗前王拜『筑紫率』。」
ここでは「筑紫率」と出てきますが、これは「筑紫太宰率」の縮約型であると思われ、このことから「率」は古典的な使用法であることとなり、「漢音」使用という状況が八世紀以降のものであることを考えると、この「率」が「呉音」であったと考えるのは当然ということとなるでしょう。つまり「筑紫太宰率」は「ちくしだざいの『そち』」と読まれていたものであることとなります。(「率」は「漢音」では「りつ」あるいは「そつ」であり、「そち」ではありません。)
このように他の官職名と「(筑紫)太宰率」はその成立時期も事情も異なると考えられることとなります。そう考えれば、「率」という官職は「律令制」のはるか以前から存在していたものであり、それはもちろん「隋・唐」の影響ではなく(「隋・唐」にも「率」という官職はありませんから)それを遡る時期に導入されたこととなるでしょう。しかもそれを遡る時期の「南北朝期」にも「太宰」はあっても「太宰率」はなかったわけですから、さらにそれを遡上する必要があることとなります。
以上のことは、「率」という官職名に関連があるものとして考えられるものが「魏晋朝」にまで遡ることを示すものであり、そこで思い起こされるのが「一大率」であり、「魏朝」から授与されたという「率善校尉」や「率善中郎将」という官職です。
これらの「率」が「そち」と発音されるものであったと考えるのは「魏晋朝」の発音が現在の「日本呉音」に最も近いという研究成果から明らかであり、「卑弥呼」の段階で「率」という語が付く官職があり、しかもそれは「そち」と発音されていたということとなるでしょう。その「一大率」が「博多湾岸」にその本拠を持っていたと私見では考えたわけですが、それが「太宰率」につながり、「太宰府」につながるとすると、そのような推定に合理性があることとなります。
もちろん「百済」などに「率」が付く官職(「達率」「恩率」など)が制度としてあったことも影響しているでしょう。この「百済」の制度も実際には「魏晋朝」に遡上する淵源を持っていたという可能性が考えられ、このような環境が「太宰率」という官職が生まれる背景としてあったものと思われます。
さらに『養老令』でも「兵衛府」の長官は「率」と称するようであり、「衛士府」「衛門府」の長官が「督」とされているのと異なっています。これはその起源の時期の差であることが推定でき、「兵衛府」そのものが「筑紫率」と関連が深い組織であることを示しています。
いずれにしても通常の見解では「倭国」の中心は「近畿」であり、「行政」の中心も「近畿」にあったと考えるわけですが、この「近畿」よりも「古く」かつ「しっかりした」組織が「筑紫」に造られていた、ということが明白となったわけです。これについては多くの関係者が率直に認める必要があるでしょう。
また、『書紀』の記述(建前上)でも、『大宝律令』の中で「国司」制度が実施された後も「筑紫太宰府」だけが存続させられています。(太宰の帥が任命されているのです)上でみたように「主神司」なども存続されたものと見られ、「倭国」体制の基本がそのまま「太宰府」の組織として残ったと言うことが言えると思われます。(『養老令』に至って「筑紫」という呼称が外され単に「大宰府」となったもの)
このように、以前からのシステムを保存しているとみられるわけですが、その理由としては「統治」を容易にするための工夫とも考えられます。これについては敗戦日本において天皇制が保存された事を連想させます。
また可能性としては「九州」の王朝と「並立」していた時期があったからということも考えられるでしょう。つまり『大宝令』が出された時点ではまだ「筑紫」に「旧王権」の勢力がかなり保存されており、独自に活動していたというケースです。それであれば『大宝令』には新王権側からの「九州統治」の具体的組織がまだ構築できていなかったこととなり、旧勢力の組織をそのまま生かしていたということになります。
なお『書紀』では「大宰府」と「大」の字を使っていますが、南朝の制度に実際にあったものは「太宰府」であり、現地(福岡)では「南朝」と同様に「正統」に「太」字を使用して表記していることが注目されます。ただし、各種史料では「大」と「太」は共通しており、『大宝令』も「太宝令」と書かれた例もあるなどやや混乱していたようです。ただし官印には「大宝」と書かれていることから考えると、「新王権」の意識としては「南朝」否定の傾向はこの時点から既にあったとみられます。
(この項の作成日 2003/01/26、最終更新 2016/12/25)