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「来目皇子」の軍の編成について


 『推古紀』には「新羅」遠征軍として「来目皇子」を将軍とする軍が編成されたという記録があります。

「(推古)十年(六〇二年)春二月己酉朔。來目皇子爲撃新羅將軍授諸神部及國造伴造等并軍衆二萬五千人。
夏四月戊申朔。將軍來目皇子到于筑紫。乃進屯嶋郡。而聚船舶運軍粮。
六月丁未朔己酉。大伴連囓。坂本臣糖手。共至自百濟。是時。來目皇子臥病以不果征討。…」

 ここでは「兵士数」として、総数「二萬五千人」という「人数」が記載されています。後の例からもこのような大規模な遠征軍は複数の軍から構成されると考えられ、三軍構成(前軍・中軍・後軍)ではなかったかと見られ、「来目皇子」はそれらを総括する「大将軍」であったと見ることができると思われます。
 この当時は「五十戸制」ではなく、「八十戸制」であったと考えられ、その編成の基礎も「八十戸」という戸制にあったと考えられ、この「二万五千人」という兵員数も「八十戸制」と何らかの関係があると考えるのが自然です。(ただし、「五十戸制」が「常備軍」につながるものであり、「律令」に則ったものであったと考えられるのに対して、この「八十戸制」はある意味「自然発生的」であり、「軍制」と直接は関連していないという可能性が強いと思われます。それは、この「八十戸制」が「中国」の制度に学んだものではなく、「倭国」独自の制度であったという可能性があり(「八十戸制」という戸制が中国には見られません)、またそれは「数や量」が多いという形容として「八十」という数字が広くまた古くから行なわれていたと推定できることからも言えると思われます。)
 
 後でも触れますが、「難波朝期」に制定された軍制では一軍が「九千人」であり、これは「評」の戸数である「七五〇戸」と深い関係があったと見られる訳ですが、この「二万五千人」という兵員数においても、同様のことが想定され、当時存在していた「クニ」の戸数である「八〇〇」というものと関係していると見ることができるでしょう。
 『隋書俀国伝』には以下の記事があります。

「…有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。…」

 この「軍尼」という職掌が統括していた領域は「国別」や「国造」が支配していた領域と重なるものと考えられ、いわゆる「クニ」であったと考えられます。(軍尼がクニと発音するとか読めると主張している訳ではありません)
 上の記述から「クニ」は約「一二〇」あったと見られ、総戸数で「九万六千戸」ほどと計算できます。そこから「二万五千人」が徴発されたとすると約「四戸一兵士」という基準(らしきもの)があったことが推察できます。
 この基準は「臨時」に設定されたものであり、当時は「常備軍」はなかったと見られ、そのことはそれを規定したような「律令」や「軍制」(軍防令のようなもの)が存在していなかったことを推定させます。
 それは『書紀』の記事の中にも、「諸神部及國造。伴造等。」という表現がされており、「地方行政官」ともいうべき職掌の人間に対しても、軍兵として徴発し、派遣している事からも推察できます。
 この「四戸一兵士」という基準は、後の「一戸一兵士」よりかなり「緩く」、そのことからもこれが「律令」等に基づくというよりは「臨時」の「詔」によるという理解をすべきことを示しているようです。
 『隋書俀国伝』には「征戦がない」と書かれており、これは即座に「常備軍」がなかったことを意味するものですが、それはまた「軍制」が整備されていないことを示すものです。
 「外敵」が侵入を試みたり、海外に遠征するような際に、始めて「傭兵」感覚で「各地」から徴発したのではないでしょうか。(通常は各地の地場の勢力の私的武装集団として存在していたものと思われます)
 『天智紀』にある「邇摩郷」のように「戦いにこれから行く」という段階で「兵」を徴発しているように見られる記事もありますが、それは「地名」から来る「付会」であり、実際には「天智」時点では「軍制」があったと見られ、それに基づいて「徴兵」制が機能していたと考えられるものですが、それよりかなり以前の段階である「阿毎多利思北孤」の統治段階では「常備軍」はなく「八十戸制」は「軍制」に関連づけられる性格のものではなかったと思われます。
 こで「久米皇子」の軍編成が「八十戸制」の中で理解すべき事を示すとすると、この段階は「隋制」導入以前の段階であることとなり、戸籍その他確認できる導入された「隋制」とは整合しないこととなり、明らかにそれ以前のものであることが推定できます。

 ちなみに、この「百二十」あるという「軍尼」が統括している領域は、後の「郡」に相当する領域であると理解できるものであり、「和名抄」などで確認すると、「筑紫」「肥」「豊」「長門」「周防」「吉備」「出雲」ぐらいの領域でほぼ一二〇をやや超えるぐらいになります。つまり、この段階においては「倭国」の領域といえるのは、「九州北部」と「中国地方」の西側程度であったのではないでしょうか。
 このことと、「利歌彌多仏利」の「六十六国分国」事業が行なわれる以前に既に「三十三国」が形成されていたとされていることを考慮に入れると、この「三十三国」の示す範囲とは、この「一二〇クニ」が存在していた領域を示すのではないかと考えられます。
 「国」(クニ)の国内における「成立」とその「変遷」を考えると、「従来説」のなかでも「有力」なもののひとつは、「七世紀」以前から「クニ」があって、そこには「国造」が存在しており(それは「ヤマト政権」の版図としてであるとされますが)、ある時点でその「クニ」がいくつか合わさった「広域行政体」としての「国」が成立したとみられています。この「ある時点」というのが「利歌彌多仏利」による「七世紀初め」と理解されるものですが、当然「三十三国」というものはそれ以前に遡らざるを得ず、その段階では「国」は「クニ」を意味する言葉であったと考えられます。
 ただし、上に見た「倭国」の範囲の各国は「後の令制国」に匹敵する領域があったと見られ、「六十六国分国」時には(「常陸」のように)集められたのではなく、「前後」に分けられるということとなったものと考えられます。
 ただしこの段階の「国」には「国宰」のように、行政を主管する人物がアサインされたものではなかったと思われます。名目的な分け方であり、実質としては各「クニ」の長である「国造」「国別」がその地と人民に対して支配権を行使していたものと考えられるものです。

 ところでこの「来目皇子」の名称は「久米」ではなく「久留米」であったという可能性が強いと思われ、「筑後」の「久留米」という地名との関連を考えるべきなのではないでしょうか。
 「新羅征伐」に「志摩郡」に駐屯したという記述も、地場の勢力であったと考えると、少なくとも「筑紫」にいることは「遠征」なのではないことと推定できます。このことからも、この段階の「軍」の編成の主体は「西日本」であり、まだ「東国」からの軍は少数であったことを示していると考えられます。


(この項の作成日 2012/08/12、最終更新 2013/03/25)