『書紀』その他各種の資料に「聖徳太子」という人物が実際にいたように書かれ、また現在でも多くの人がその実在を信じているようです。しかし、この人物についての伝説や『書紀』の記述は、残された遺跡などとは食い違う点が多く、最近では「実在ではない」という意見が多くなってきました。しかしこれは、正確にいうと「近畿王権」の内部には該当する人物が見あたらない、ということのようです。
よく言われるように「聖徳太子」という名称は同時代資料あるいはそれに程近い資料などには現れません。また、「聖徳太子」と考えられる人物が登場する遺物(金石文など)は三つほどあります。その一つは『隋書俀国伝』です。ここには「隋」に国書を送り、返答使としてやって来た「輩清世」に面会した倭国王のことが書かれています。二つめは「道後温泉」の碑文です。伊予の国(今の愛媛県)の松山市近郊にある「道後温泉」には聖徳太子が訪れたという碑文があったと『伊予風土記逸文』(『釈日本紀』に引用されたもの)に書かれています。三つめは「法隆寺」の「釈迦三尊像」の「光背」に書かれた文章です。
『隋書』では「倭国王」「阿毎多利思北孤」と書かれ、「道後温泉碑文」では「我法王大王」と書かれ、「釈迦三尊像光背銘」には「上宮法王」と書かれています。
これらの名前などに共通しているのは「法王」という「出家した王」を意味すると思われる名称です。『隋書』には直接そうは書かれていませんが、記事の中では「阿毎多利思北孤」は「結跏趺坐」していると書かれ、正式な作法で瞑想に入っている姿勢が描かれており、これは「出家した王」の姿を示していると考えられます。彼が「法王大王」と呼ばれていたとしても不思議ではありません。
また、『隋書』では自らを「天子」と称しています。そのため隋皇帝(これは「煬帝」とされていますが、後に述べるように実際には「文帝」であったと思われます)の不興を買うこととなったわけです。
「道後温泉碑文」でも随行した人間が「葛城臣」と書かれており、「天子」-「臣」という位取り構造が存在している事が看取されます。
また、「釈迦三尊像」の光背銘にはさらに「王后」「太后」「諸臣」など「天子」の配下の階層(ヒエラルヒー)が書かれており、これらのことから「天子」でもなく、「倭国王」でもなかった「聖徳太子」とは「位」が違うと言うことを意味しています。
(参考)「釈迦三尊像」の「光背」銘文
(奈良国立文化財研究所飛鳥資料館編「飛鳥・白鳳の在銘金銅仏」によります)
「法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼/前太后崩明年正月廿二日上宮法/皇枕病弗■(余の下に心)/著於床時王后王子等及與諸臣深/懐愁毒共相發願仰依三寶當造釋/像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安/住世間若是定業以背世者往登浄/土早昇妙果?干食王后仍以勞疾並二月廿一日癸酉王后/即世翌日法皇登遐癸未年三月中/如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘厳/具竟乗斯微福信道知識現在安穏/出生入死随奉三主紹隆三寶遂共/彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁/同趣菩提使司馬鞍首止利仏師造」
また、この銘文の中に書かれている、「上宮法皇」の死亡年月日と『書紀』に書かれている「聖徳太子」の死亡年月日は食い違っており、 さらに銘文中に出てくる「鬼前太后」「干食王后」などが「聖徳太子」の母であり后の名前とすると、知られている名前と異なっているために、この「銘文」と『書紀』のどちらが正しいかなどで議論がありました。
ちなみに「鬼前」とは筑前の地名であるという説もあります。(※1)また「干食」は「王后」の名前のようでもあるもののそう考えるには字面にやや違和感があり、「食事が取れなくなった」という病気に伏せっている状態を表すという説もありますが(※2)、私見では[日+干]食の簡略表記ではなかったかと思われます。
「[日+干]食」とは「日+干」が「晩」を意味することから、通常の時間ではない時間に食事をとる意であり、「政務」などに熱心であるという比喩とされます。(例えば以下の例)
「曲赦涼甘等九州詔」
「朕恭膺寶命,綏靜氓黎,思俾宇?,躋於仁壽。而河湟之表,比罹寇賊,勾連凶醜,壅隔朝風。元元之民,匪遑寧宴,夙興軫慮,『?食忘疲』。重勞師旅,不令討?,馭以遐算,且事招懷。而慕化之徒,乘機立效,兵不血刃,費無遺鏃。今凶狡即夷,西垂克定,遠人悅附,政道惟新,宜播惠澤,與之更始。可曲赦涼、甘、瓜、?、肅、會、蘭、河、廓九州,自武德二年五月十六日以前,罪無輕重,已發係囚見徒,悉從原免。桀犬吠堯,非無前?,棄瑕蕩穢,列聖通規。有惡言不順,及邪謀惑計者,並從洗滌,一無所問。」(『全唐文』より「唐高祖」)
ここでは疲れも忘れ仕事に打ち込んでいるという喩えで使用されています。他にも多数の使用例が確認でき、かなりポピュラーな熟語であるようです。
『釈迦三尊像光背銘文』でも「鬼前太后」が崩じ、すぐに「上宮法皇」が病に倒れるという状況が書かれており、その中で「皇后」は看病と共に公務も行う必要があったものであり、まさに「[日+干]食」という比喩が適切であるように思われるわけです。
「偏」を取り去って代用するというのは(取り去っても支障がないと判断できれば)よくある方法とも言えます。「倭」と「委」、「倒」と「至」、「俾」と「卑」などの例もあり(ただしこれらは人編ですが)、「[日+干]」という少々なじみの薄い字ではなく「干」で代用したという可能性も考えられるところです。
また、この銘文は「法興元卅(三十)一年…」という書き出しになっており、この「法興元」の「法興」が年号と考えられ、(「元」という字が付いているのは「元号」である、という一種の宣言と思われます)、「太后」、「王后」、「諸臣」など天子(皇帝)に直接関連する用語が書かれていることと併せ、この「上宮法皇」という人物が自らを「天子」の位置に置く権力構造を構築していたと考えられるものです。
しかし、「聖徳太子」は推古天皇の「摂政」ではありましたが、「天皇」ではなかったのであり、自らを「天子」に擬したというようなことは、『書紀』や「聖徳太子」に関するどんな記録などを見ても書いてありません。そうすると結局、この文章の「上宮法皇」は「聖徳太子」とは別の人物であると考えざるを得ないと思われます。
さらに、この「光背銘」と「道後温泉碑文」には共通に「法興」という年号が出て来ます。
「伊予風土記」より
「法興六年十月 歳在丙辰 我法王大王 與惠慈法師及葛城臣 道遙夷與村 正観神井 歎世妙験 欲敍意 聊作碑文一首/惟夫 日月照於上 而不私 神井出於下 無不給 萬機所以妙應 百姓所以潜扇 若乃照給無偏私 何異干壽国随華台 而開合 沐神井而(癒)疹 (言+巨)舛于落花池而化弱 窺望山岳之《山+巌》《山+愕》 反冀子平之能往 椿樹相《(蔭)》而穹窿 実想五百之張蓋 臨朝啼鳥而戯(峠の山が口) 何暁乱音之聒耳 丹花巻葉而映照 玉菓彌葩以垂井 経過其下 可優遊 豈悟洪灌霄霄庭意與 才拙実慚七歩 後定(出か)君子 幸無蚩咲也」
この「法興」年号はいわゆる「九州年号」の「別系統」年号とされていますが、全く別の場所の資料に同じ年号が使用されている、ということの意味は、これらが「同じ政治圏」の中に属していることを意味しており、しかもそれが「近畿王権」のものではないことが重大な意味を持っているのです。
つまり、これらの碑文などには「聖徳太子」ならぬ「X(エックス)」氏が描かれていると考えられます。この人物は『隋書』「道後温泉碑文」「釈迦三尊像光背銘」という性格も場所もその所以も全く違う三種の資料が一致して指し示している人物であるわけですから、実在の人物であることは間違いありません。これが『隋書』に言う「倭国王」であり、「阿毎多利思北孤」という人物であるわけですが、そのような人物が、『書紀』編纂時の「列島代表王権」である「新日本国王権」の系譜の中に存在していなかったという事を意味すると思われ、いわゆる「聖徳太子」はこの期間に重なる人物として「作り上げられた」ものであり、「虚像」であると考えることができるのではないでしょうか。
しかし、実際には「倭国王」がいたのであり、その業績は不朽のものとして存在しているのです。
(この項の作成日 2011/01/24、最終更新 2017/01/03)